唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

大暦十~十一年 西暦775~6年

2020-04-15 10:00:51 | Weblog
八月、田承嗣遣使奉表,請束身歸朝。
単なる時間稼ぎであった。入朝などする意志はなかった。一方で磁州を回復しようとした。

九月壬子,吐蕃寇臨涇,癸丑,寇隴州及普潤,鳳翔節度使李抱玉破吐蕃于義寧。
唐朝は吐蕃を警戒して、対承嗣対策には主力を送ることは出来ず。統制のとれず、経費だけがかかる藩鎭軍に任せるしかなかった。

十月、成德李寶臣と昭義留後李承昭は清水に承嗣軍を大破した。

十一月、嶺南節度使路嗣恭が哥舒晃を征討し廣州を回復した。

大暦十一年 西暦776年
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正月辛亥,西川節度使崔寧破吐蕃四節度及突厥、吐谷渾、氐、羌群蠻衆二十餘萬。

二月庚辰,田承嗣復請入朝。赦承嗣罪,復其官爵。
承嗣も若干弱気になり、妥協点を探ろうとしていた。

五月、汴宋留後田神玉卒。都虞候李靈曜自立、結田承嗣。
ところが折り悪く神玉が卒し、靈曜が自立し征討軍の背後が崩れた。

六月戊午,以靈曜為汴宋留後,遣使宣慰。
代宗のいつもの姑息な対策であるが、靈曜は強気で拒否した。

七月、田承嗣遣兵寇滑州,敗永平節度李勉。
承嗣は攻勢に出て、文官出の永平李勉を破った。

八月甲申,淮西李忠臣、永平李勉、河陽馬燧、淮南少游、淄青李正己討靈曜。
魏博征討どころではなくなってしまったわけである。当然承嗣の入朝などあり得ない状況になった。

九月乙丑,李忠臣、馬燧軍が靈曜軍に鄭州で敗れた。

九月戊辰,淄青李正己は鄆、濮二州を陥した。
どさくさに紛れて豊かな鄆、濮二州を得たわけである。

十月、李忠臣、馬燧、陳少游は靈曜を破り、汴州城を囲んだ。
田承嗣は悅を派遣史、永平、淄青を匡城に破り汴州に来援させた。
丙午,忠臣は悅軍を大破し、悦は魏博に遁走し、汴州城は陥落し、靈耀は誅された。
田悦はこの後も戦闘が下手でよく大敗する将である。唐朝は汴宋を平定することがで来たが、魏博戦線の崩壊という大きな代償を払う。淮西李忠臣や淄青李正己は利を得てあまり動かなくなった。

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