唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

大暦六~八年 西暦771~73年

2020-04-13 10:02:59 | Weblog
三月,王翃敗梁崇牽,克容州。
安史の乱時より嶺南蠻酋梁崇牽は平南十道大都統と称して、西原蠻と連携して容州を占拠していた。そのため容州都團練観察使は藤/梧州に僑治していた。新任の王翃は嶺南節度使李勉と協調してこれを捕らえ、他の諸賊も平定した。

この歳は吐蕃の入寇はなかった。

大暦七年 西暦772年
--------------------------------------------------------
正月甲辰,回紇使者擅出鴻臚寺,掠人子女。
七月癸巳,回紇又擅出鴻臚寺,逐長安令邵說至含光門街,奪其馬。
唐朝を支援した功績で増長した回紇の横暴が目立つようになり、両国の関係は冷却化していった。

七月、盧龍節度使朱希彩が殺された。
希彩は横暴になって部下に殺され、朱泚と滔兄弟は実力を持って継承した。

大暦八年 西暦773年
--------------------------------------------------------
正月、昭義節度使薛嵩薨。
安史の残党嵩、元々対高句麗戦で活躍した將軍薛仁貴の孫であり、安史の乱には従ったが他の将と違って名門の出である。継承すべき子の平は12歳でしかなく、叔父崿に譲って鄉里にもどった。唐朝は追認するしかなかった。

二月壬申,永平軍滑亳節度使令狐彰薨。
これも安史の残党。軍を整備し良政をしいていた。他鎭とは違い唐朝に貢賦を収め、対吐蕃防衛兵も派遣していた。病となり幕僚の勧めを受けて子孫に継承させず、宰相級の高官の後任を求めた。唐朝は嶺南節度として功績を上げた工部尚書李勉を派遣した。薨後、牙軍は子の建に継承を求めたが拒否され、勉の赴任が成功した。建等は当然京師で優遇された。

五月乙酉,貶徐浩明州別駕、薛邕歙州刺史、杜濟杭州刺史、于邵桂州長史。
代宗は元載の勢力を削減しようとしその与党を左遷した。

七月辛丑,回紇辭歸,載賜遣及馬價,共用車千餘乘。
回紇は貪欲に利益を要求し、唐朝は財政難に苦しみながらも応じていた。

八月己未,吐蕃六萬騎寇靈武,踐秋稼而去。
この歳、十月にかけて吐蕃と郭子儀軍は靈武で激戦し勝敗があった。ただ京師近郊まで戦闘が及ぶことはなかった。

八月辛未,幽州朱泚は兵を対吐蕃に派遣することを提案し、唐朝にすり寄る姿勢をみせてきた。当然代宗は喜んだ。

九月壬午,循州刺史哥舒晃殺嶺南節度史呂崇賁,據嶺南反。
十月己丑,江西觀察使路嗣恭兼嶺南節度使,討哥舒晃。
唐朝は嶺南貿易により大きな利益を上げていたため、早期の回復をはかった。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 大暦四~五年 西暦769~70年 | トップ | 大暦九~十年 西暦774~5年 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事