芥川龍之介の「侏儒(しゅじゅ)の言葉」の中に、たしかあった。「自由は山顛(さんてん)の空気に似ている。どちらも弱いものには耐えられない。」とかなんとかだったような。なぜか、これだけ強烈に憶えている。
自由になるとは、制限から逃げればよいなぞという簡単なものではない。自分で全てを決めて、それでいて制限がないという状態は、難しい。
よく、俺は自由になるとか言って、他人から与えられた制限は捨てた(気がする)ものの、あにはからんや、今度は自分で作った窮屈な制限の中で暮らしていることが多い。
単なる苦しい現状の裏返しを「自由」と勘違いしてしまうとそういうことになる。ここに無いものを「自由」という言葉で置き換えたものの、それでいて、それはどういう実態のものなのかが明確でないからそうなる。
その苦しい現状の否定としてしか表現できない「自由」なんて、それは「自由」ではないだろう。ただの、「逃避」だ。
では、自由とはなんだろう。
さっき書いたように、自分で全てを決めることができて、それでいて制限が無い状態である。
しかし、これは全ての人間にとって、正解ではないかもしれない。なにかしら、拠り所を必要とする人が大多数だ。
たとえば、これは知人のブログにこんなことが書いてあった。背景を説明すると、最近は歌うたいにいろいろな場が提供されており、オープンマイクというその場に集まった人々が交代で2,3曲ずつ交互に歌っていくという形式がある。これに対し、昔のライブは、あらかじめ決められた出演者が演奏するというスタイルであった。彼も自分が音楽を始めた頃から、この後者のスタイルでやってきている。
ブログで曰く、「2,3曲回しのオープンマイクとは違い、きちんとしたライブで自分はやっている」
新しい形式に単純になじまないとか、新参者と違って、昔からやっている自分の方が「通」だとか、「正統派」だとか、そういう風に揶揄するつもりは全く無い。
たぶん、「形」という制限が生き方、考え方の拠り所となっているのだろう。
この場合、主役は「歌」である。演奏場所の違い、演奏形態の違い、観客の有無、伴奏楽器の有無、音階の有無、はたまた実音の無い無音、なんであろうが、あなたの心にぐさりと突き刺さる「歌」が主役である。
たどたどしく歌って感動もある。フルバンドを引き連れて、朗々と歌っても、心に響かないこともある。山奥の雪原で無音のなかに、時折、こつっ、と乾いた音がする。何の音か分からないが、こころが満たされる。
こましゃくれた人生の手垢にまみれた装飾に気が散るのなら、「歌」は聴こえないであろう。「自由」を手にしないと「歌」は聴こえない。
オープンマイクでなくて、ちゃんとしたライブで、という前提条件をつけることで捉えられるほど「歌」は小さくはない。
と、人に言うほど自分は出来ていないが、この自由にはずっとあこがれ、どうすればそれが得られるか呻吟している。時々、ちょっとだけ垣間見ることがあるような気がする。
と、歌にかこつけて自由を考えてみたが、やっぱり、
自由って難しい。
自由になるとは、制限から逃げればよいなぞという簡単なものではない。自分で全てを決めて、それでいて制限がないという状態は、難しい。
よく、俺は自由になるとか言って、他人から与えられた制限は捨てた(気がする)ものの、あにはからんや、今度は自分で作った窮屈な制限の中で暮らしていることが多い。
単なる苦しい現状の裏返しを「自由」と勘違いしてしまうとそういうことになる。ここに無いものを「自由」という言葉で置き換えたものの、それでいて、それはどういう実態のものなのかが明確でないからそうなる。
その苦しい現状の否定としてしか表現できない「自由」なんて、それは「自由」ではないだろう。ただの、「逃避」だ。
では、自由とはなんだろう。
さっき書いたように、自分で全てを決めることができて、それでいて制限が無い状態である。
しかし、これは全ての人間にとって、正解ではないかもしれない。なにかしら、拠り所を必要とする人が大多数だ。
たとえば、これは知人のブログにこんなことが書いてあった。背景を説明すると、最近は歌うたいにいろいろな場が提供されており、オープンマイクというその場に集まった人々が交代で2,3曲ずつ交互に歌っていくという形式がある。これに対し、昔のライブは、あらかじめ決められた出演者が演奏するというスタイルであった。彼も自分が音楽を始めた頃から、この後者のスタイルでやってきている。
ブログで曰く、「2,3曲回しのオープンマイクとは違い、きちんとしたライブで自分はやっている」
新しい形式に単純になじまないとか、新参者と違って、昔からやっている自分の方が「通」だとか、「正統派」だとか、そういう風に揶揄するつもりは全く無い。
たぶん、「形」という制限が生き方、考え方の拠り所となっているのだろう。
この場合、主役は「歌」である。演奏場所の違い、演奏形態の違い、観客の有無、伴奏楽器の有無、音階の有無、はたまた実音の無い無音、なんであろうが、あなたの心にぐさりと突き刺さる「歌」が主役である。
たどたどしく歌って感動もある。フルバンドを引き連れて、朗々と歌っても、心に響かないこともある。山奥の雪原で無音のなかに、時折、こつっ、と乾いた音がする。何の音か分からないが、こころが満たされる。
こましゃくれた人生の手垢にまみれた装飾に気が散るのなら、「歌」は聴こえないであろう。「自由」を手にしないと「歌」は聴こえない。
オープンマイクでなくて、ちゃんとしたライブで、という前提条件をつけることで捉えられるほど「歌」は小さくはない。
と、人に言うほど自分は出来ていないが、この自由にはずっとあこがれ、どうすればそれが得られるか呻吟している。時々、ちょっとだけ垣間見ることがあるような気がする。
と、歌にかこつけて自由を考えてみたが、やっぱり、
自由って難しい。