クワトロ郎

人生の彩りをアレコレ描いたり、歌ったり、知恵しぼったり、
牛乳しぼったり、  ん?  てな具合で
オヤジギャグ三昧

たまたま昨今話題になっている 体罰について

2013-02-03 23:06:23 | 真実
人間の持つ基本的なサバイバル本能の発露であろう。

動物であれば、まさにこれ以上でも以下でもない、個体対個体のシンプルな戦いである。

人間はいらない関係を作り上げてしまったからやっかいである。

生き残るためには、相手より強くなければならない。上で述べたように、動物は体力勝負でこれが試される。

しかし、人間は、地位、利害、金銭、地縁、血縁、長幼、師弟など、体力勝負が効かない相対関係が色々ある。

この関係を有利に使えば、あるいは悪用すれば、体力はなくとも、相手をやり込め、自分に有利な環境を作り出すことが出来る。

社会と言う食うか食われるかの荒ぶる世界で、他者に勝る”体力”に相当する有利な環境をこの社会的な関係を使えば、この社会で生き残ることが出来る、と錯覚するのである。動物レベルの判断基準しか持たなければ、この錯覚のまま留まり、今回のような騒ぎにまで行き着き、結局サバイブできなかった、というオチになる。

長い年月をかけて築き上げた人類の知恵は、やはり個人としては得ること、使うことは難しいらしい。

かといって、体罰禁止、と安直になびく風潮も、知恵を使っていないことになる。なぜ、こうも、両極端にふれるのであろうか?お手軽すぎる。

すべては、人の心に答えがあり、それ以外の取り巻くものには答えは無い。柔道監督個人の問題でなく、組織の問題である、という議論も出てきているが、その議論の流れもあまり意味は無い。

心さえ、律されてさえいれば、問題はない。それ以外ばかり見ているから、解決しない。

この心を律するには、時と場合によれば、体罰さえ必須の場面もあろう。ないに越したことはないだろうが、大事なのは、体罰うんぬんでなく、心のほうである。

生まれた自然のままでは、この社会の中で、自分も生き延び、他者も生き延びさせる、律する心は育たない。

いずれ君も死ぬ。寿命、病気、事故、戦争、地震、災害、火事、事件、殺人、自殺。長生きになったが、130年も経てば、誰もが生き残ってはいない。長短あるが、それぞれの年数の中で人々はサバイバルする。しかし、いずれは死んでしまうのである。

生き残りをかけた割りには、成果は結果として得られないのである。

さあれば、その限られた年月の中で生き残りをかけるのであれば、それにどういう価値を自分で見出すかにかかっている。

生きている間のこの自分の心がそれにどういう価値を見出すか。

どうせなら、何をしても死んでしまうのならば、その価値は、つまらないものにはしたくない、と私は思うのです。

ちんけで陳腐な”心を律する”自己満足かもしれないが、それ以外の価値を見出せないのが、今の自分です。

体力で無く、心の中にしか存在しない社会的関係にたよる心にならないように、私は努力できるように少しはなった気がします。完璧には程遠いです。

体罰はあっていいのではないでしょうか。暴力と傷害は論外ですが、体罰は正す手段として有効な場合もあると思っています。

どうでしょう?