「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。」
俳聖 松尾芭蕉が、「おくのほそ道」にそうしたためてから300年余が過ぎたが、この「客」は足を止める気配がない。
いや、とめられると、それはそれで困るのだが。
なんて、えらく文学的に(?)書き始めてみたが、たいした話ではない。
事は、先日、予告どおり「放電」した折の事にさかのぼる。
不意に休みを取ったものの、特にやる事も無く、生来の「出たがり」なので家にジッとしている事も出来ず、ぶらっと我が家の周りをぶらついてみたのである。
今の家は、気づけば生家の次に長く過ごした場所になっている。
しかし、昼は仕事に出ているので、この家で過ごすのはほとんど夜、よって、あまり周辺の細かい事には、気付いていない事がしばしばである。
その日も、不意に、一本の木が目に留まる。
『あー、上の子が小さい頃、得意げにこの木に登っていたっけ。』
そう思いつつ近づいてみて、驚いた。
子供が登って座っていた木の枝別れした部分が、いつの間にか私の目線より高くなっている。
木の種類がよく解らないが、そんなに高くならない木のようで、全体の高さは倍になっているとは思えないのだが、幹も太くなり、小さい子が一人で登るには無理な高さである。
私は唖然としたのだが、冷静に考えると既に「一昔」前の話であり、木だって、その位成長してしかるべき時が過ぎているのだ。
いや、私だって、その分、出っ張ったり伸びたり何たらピーピーピーが、三桁だったりしているのである。
結局、常に過ぎている時間に「知らぬフリ」をしているだけなんだと、つくづく思ったのである。
基本的に、変化のないところに安住しているのは楽チンである。
しかし、今の世の中、仕事も、モノも、さらには人の心さえめまぐるしく変わってしまう。
芭蕉以来の「過客」は、その速度を増しているようだ。
たまたま、先日、そんな風に感じたおかげで、今は、ホンのちょっと背伸びして、辺りを見回して、その変化を感じて進んで行きたいと感じている今日この頃である。
何も、変化が悪い物ばかりとは限らないのだ。
変化から生まれる、新しい世界の方が居心地がいい事だってあるのだから。
>ピーピーピーが、三桁
ん?仲間?
多分・・・です。^^;
いや、こういう書き方でも、わかる人は解るかなぁって・・・。
思惑に引っかかってくれて、ありがとうございます。