私が高校生のときの話だから、随分と昔の事である。
季節は、「梅雨の終盤」
激しい雨の合い間に、ぽっかりと晴れの日がある、そんな頃。
その日も、昨日までの雨が嘘のように、すっかり晴れ上がり、私は、学校からの帰り道、地元の町の真ん中を流れる川の土手に寝転んで、ボーっと空を見ていた。
別に何をしていたわけでもない。
部活はその日は休みで、他の用事も特に無く、だからと言ってさっさと家に帰るのもつまらなくて、本当にボーっと寝転がって、その頃、片思いだった子の事とか、散々だった期末テストの事、これからはじまる夏休みの事とか、さして切羽詰っているわけでもない事を考えていた。
しかし、流石に、日が射すと蒸し暑い時季である。
温まった地面から立ち上る水蒸気と陽射しでだんだんと寝転がっているのも辛くなってきて、さて、帰るか、と体を起こしたそのときだった。
不意に、ささーっと川風が吹いた。
気持ち良い風だった。
風の中に、そこはかとなく雨の香りがした。
あれっ?と思い、空を再び見上げる。
いつの間にか、雲が流れる速度が上がっている。
また、風がさーっと吹いて、河原の草花を揺らす。
妙に雲間に見える空の青さが目に付いた。
で、ふと思ったのだ。
「あ。夏が来るな。」と。
妙な話である。
どちらかと言えば、雨の兆候なのだ。
だが、そのとき、私が思ったのは、やっぱり
「あ。夏が来るな。」という事だった。
何故だか、解らないが、その時は、そう確信していた。
実際、その後すぐ、急速に広がった梅雨の雲の所為で、あたりは大雨になったのだが、私のその日の日記には、こう書いてある。
「夏が来る。
ともすれば、ちょっと持て余しがちな。」
で、不思議と、その大雨を境に、梅雨が明けたのである。
しかも、予報より一週間も早い梅雨明けだった。
後にも先にも、あんな感覚になった事は、その時だけだった。
で、なんで、そんな話をイキナリ持ち出したか、名のだが、その理由がこの本である。
夢枕 獏著 「陰陽師 太極ノ巻」文庫版
ひょいと書店をのぞくと、丁度売っていたので思わず買ってパラパラと読んでいたのであるが、ある話の一言を見て、思わず目がとまった。
それは、春の夜、安倍清明と源博雅が酒を酌み交わしているシーンである。
そこはかと桜の香が漂う闇を見て、源博雅が呟く。
「何か、目に見えぬ大きなものが動いてゆく」と。
以下、数行、そのまま本文を引用する。
「桜が咲き、散るというのは、その巨大きなるものが動いてゆくからだ。 それを、春と呼べばよいのか、はたまた時季と呼べばよいのかおれにはわからぬのだが、その巨大きなるものが動いているとわかるのは、ああやって桜の花びらが散っていくのを見ることが出来るからではないか。 花だとか、虫だとか、目に見える小さなものの動きによって、この天地の間にある巨大きなるものの目に見えぬ動きを知る事ができるのだ。」 ~夢枕 獏 陰陽師 太極ノ巻「棗坊主」より~ |
どうだろう?この言葉。
なんとなく、私の最初に書いた体験に、ぴたっと嵌る気がしないだろうか?
いや、自意識過剰化なぁ?^^;
でも、私が、この言葉を読んで、あの夏の経験をすっと思い出したのは嘘ではない。
いい言葉である。
山登りなどの経験もある、夢枕氏が山の中などで感じた経験から出た言葉だろう。
実際に、そういう経験が無くても思わず「なるほど」と唸ってしまう言葉だ。
最初に、上の体験をしたとき、あれはちょっと田舎だったし、自分も若かったから感じられたんだと思っていた。
でも、この夢枕氏の文章を読んで、ふと思った。
きっと、そんな感覚になれる場所は、どこでもあるのだと。
けっして、山の中とか平安の世でなければならないかと言えば、そうではないと思うのだ。
街角の木々、個人の庭や街路に植えられた花、吹く風。
確かに、都会に入り込めば入り込むほど、それらは感じにくくなると思うが、最後には、それが感じ取れるかどうかは、その人の感性に関わってくる問題だろう。
だが、例え都会でも、周囲の変化に息を凝らし、そっとそよぐ風、香る花に意識を集中していれば、ゆっくりと通り過ぎ行く、「天地の間を動く、巨大きなるもの」を感じ取る事は、きっと出来ると思うのだ。
まずは、あなたの周囲にある、草花や樹木、風の音に目を向けて、耳を傾けてみては如何だろう?
ほら、「季節の声」が聞こえるかも・・・?
陰陽師 太極ノ巻文藝春秋このアイテムの詳細を見る |