プロ野球 OB投手資料ブログ

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成田光弘

2020-08-05 16:53:38 | 日記
1974年

右手の指が1㌢短かったばっかりに、十三年の二軍生活のあげくついにスポットライトを浴びるチャンスもなく、ことしのキャンプを最後にプロを去る選手がいる。阪急の成田光弘捕手(31)がその選手。秋田商の四番打者として甲子園も経験、強打強肩の大型捕手として注目を浴びた。激しいスカウト合戦の末、大毎(現ロッテ)がドラフト以前の当時としては破格の契約金で射止めた。ところがプロ入り初年度の五月、二軍戦で右手首に死球を受けて骨折したのがつまずきのもと。芽の出ぬまま三年後阪急に移籍した。しかし、阪急でも「二塁送球のコントロールが悪い。原因は右手の指が短いために球の引っかかりが悪いからだ。指がもう1㌢ほど長かったら選手として理想的なタイプだし大成しただろう」という評価を受けて、心機一転一軍をめざしていた成田だが、ここでもスターへの道を閉ざされた。成田はチームでも評判の好人物。それでもくさらずにただ黙々と投手の球を受け、合宿生活では若い選手の良き相談相手になってきた。そんな成田に追い打ちをかけるように次々と不幸が襲った。七年前母を亡くし、一昨年は洋子夫人が流産、そして昨年は父親が病で倒れた。実家は秋田でも指折りの豪農で、おまけに長男の成田は「農業を継いでくれ」と悩む病床の父親に背を向けることができなかった。その上同郷の洋子夫人が都会生活になじめず、一時ノイローゼ気味になったことも成田に野球を断念させる決心をさせた。投手のカベとして過ごした十三年間、それでも成田は「好きな野球に打ち込めたのだから満足だった」という。しかし「一番の思い出は初優勝した時、自分は何も手伝えなかったが、チームが弱かった時だけにとてもうれしかった」とえくぼをつくって笑った。若手選手に頼りにされている成田だけに球団としては残ってくれるよう説得したが、家庭の事情でやむなく昨年任意引退選手として届け出た。成田も球団が「せめてキャンプの期間だけでも手伝ってほしい」という頼みを快く引き受け、いまはメンバー表から消えてしまった背番号69のユニホーム姿でブルペンに座り続けている。「寂しいけど阪急には素質のある選手がたくさんいる。ことしはきっと優勝するでしょう。二軍の選手も現状に甘んじることなく一軍めざしてもっと欲を出して自分を鍛えてほしい」と若い選手たちへの励ましの言葉を残して感無量といった成田。そのプロ生活は不遇だったが昨年十二月、待望の二世が誕生して第二の人生へのスタートに明るい光がさしてきた。坊やにつけた名前も光明。「坊主が大きくなって野球をやりたいと言ったらもちろんやらせます。おれが果たせなかった夢を坊主がやってくれるでしょう」成田は二月二十一日高知キャンプ打ち上げの日に家族の待つ秋田へ帰る。十三年間身につけていた汗を泥にまみれた69のユニホームを手にして。

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