1959年
高島正義=二十一歳、門鉄。西南高校出身、1㍍77、78㌔、右投右打、昨夏の都市対抗大会では三塁手で、六番で活躍。
1960年
二塁の新人高島(門鉄)は上背は余りない(1㍍74)ずんぐりしたからだつきで、ちょっと西園寺を思わせる選手だがその軽快なフットワーク、板についたグローブさばきはすばらしい。これもバッティングに難があるが「フィールディングは松岡、稲垣にまさる」と岩本監督は定評づける。
東映に高島正義という選手がいる。聞きなれない名前だが、熊本の西南高から門鉄を経て、今春プロ入りしたもの。内野ならどこでもこなせるうまみと、少し荒いが見所のある打撃ぶりから、今シーズンとき折り第一線に起用されている。七月七日、大阪球場で行われた南海戦で二番に高島をおいて試合にのぞんだ。高島は一回、第一打席でヒットして得点の足がかりとなった、三回の第二打席では祓川から堂々たる左翼ホーマーを奪って二点を叩きだしたのである。南海ナインはあっけにとられた。新人で使いものになるのはパ・リーグ六球団合わせても三人か四人くらいのもの。それも入団前からかなり騒がれた選手にかぎる。先発メンバーに高島という見知らぬ名前が乗っていても当て馬にしか思っていなかった。高島は二軍の経験もあまりつまずに、ラッキーなチャンスをものにしたのである。
1962年
イースタンリーグの開幕が近づくと、桜井コーチがいった。「高島!きょうから、君が主将だ」高島は、ちょっと恥ずかしそうな顔をした。「二軍にだって主将はいる。勝つためにはどうしても必要なんだ。チームとして決まったわけではないが、任命する」守備力ならりっぱに一軍でもつとまるが、気が弱い。二三打席打てないと、すぐ考え込んでしまう、真面目すぎるのかもしれない。(主将にしたら、考え込む暇はなくなる、強くたくましくなるに違いない。)桜井コーチの思惑である。高島は若いナインを引っ張り出した。夜のバットスイングも忘れなかった。「高島のバッティングは打率はともかく、ヒットの多くはカーブを打ったもの、これで従来欠点だったカーブをりっぱにこなした」桜井コーチの講評である。
1964年
どん底東映を予想外の男が救った。八番バッターの高島だった。高島はどこのチームにもいる控え選手のひとりだ。西園寺の故障で前日の南海戦から三塁にはいっている。同点の2ランと決勝点をたたき出した右中間二塁打、控え選手のバッティングとは信じることのできない見事なものだった。「二本とも真っすぐだと思う。ホームランはシュートのかけそこないのような気がしたが、低く構えてたたきつけることしか考えていなかった。門司鉄道管理局から東映入りして、五年目、こと守備に関しては水原監督は「甲乙つけがたい」といっている。それを実証したプレーが、この日五回にあった。森下のゆるいゴロを出足よく素手でつかみ、ランニング・スローで一塁に刺した「あれは内野安打と思ったが、あのゴロはキャンプでずいぶん練習しているからね」キャンプ、そういえば、ことしの高島はそのキャンプで新しい収穫をあげていた。レイザー・コーチと藤村コーチのアドバイスで「ポイントを前に置きステップしてボールをたたく」という技術をマスターしたことだ。本人はまだ自分のものになっていないというが、この快打二本はその効果が現れたとみていいだろう。「南海には不思議とよくヒットが出る」と高島は笑う。この日打ったホームランはプロ入りした年、同じ南海の祓川から打って以来、公式戦二本目のもの。高島は南海戦にますます自信をつけることだろう。そして東映も突然のヒーローで立ち直るキッカケを掴むかどうか。
高島正義=二十一歳、門鉄。西南高校出身、1㍍77、78㌔、右投右打、昨夏の都市対抗大会では三塁手で、六番で活躍。
1960年
二塁の新人高島(門鉄)は上背は余りない(1㍍74)ずんぐりしたからだつきで、ちょっと西園寺を思わせる選手だがその軽快なフットワーク、板についたグローブさばきはすばらしい。これもバッティングに難があるが「フィールディングは松岡、稲垣にまさる」と岩本監督は定評づける。
東映に高島正義という選手がいる。聞きなれない名前だが、熊本の西南高から門鉄を経て、今春プロ入りしたもの。内野ならどこでもこなせるうまみと、少し荒いが見所のある打撃ぶりから、今シーズンとき折り第一線に起用されている。七月七日、大阪球場で行われた南海戦で二番に高島をおいて試合にのぞんだ。高島は一回、第一打席でヒットして得点の足がかりとなった、三回の第二打席では祓川から堂々たる左翼ホーマーを奪って二点を叩きだしたのである。南海ナインはあっけにとられた。新人で使いものになるのはパ・リーグ六球団合わせても三人か四人くらいのもの。それも入団前からかなり騒がれた選手にかぎる。先発メンバーに高島という見知らぬ名前が乗っていても当て馬にしか思っていなかった。高島は二軍の経験もあまりつまずに、ラッキーなチャンスをものにしたのである。
1962年
イースタンリーグの開幕が近づくと、桜井コーチがいった。「高島!きょうから、君が主将だ」高島は、ちょっと恥ずかしそうな顔をした。「二軍にだって主将はいる。勝つためにはどうしても必要なんだ。チームとして決まったわけではないが、任命する」守備力ならりっぱに一軍でもつとまるが、気が弱い。二三打席打てないと、すぐ考え込んでしまう、真面目すぎるのかもしれない。(主将にしたら、考え込む暇はなくなる、強くたくましくなるに違いない。)桜井コーチの思惑である。高島は若いナインを引っ張り出した。夜のバットスイングも忘れなかった。「高島のバッティングは打率はともかく、ヒットの多くはカーブを打ったもの、これで従来欠点だったカーブをりっぱにこなした」桜井コーチの講評である。
1964年
どん底東映を予想外の男が救った。八番バッターの高島だった。高島はどこのチームにもいる控え選手のひとりだ。西園寺の故障で前日の南海戦から三塁にはいっている。同点の2ランと決勝点をたたき出した右中間二塁打、控え選手のバッティングとは信じることのできない見事なものだった。「二本とも真っすぐだと思う。ホームランはシュートのかけそこないのような気がしたが、低く構えてたたきつけることしか考えていなかった。門司鉄道管理局から東映入りして、五年目、こと守備に関しては水原監督は「甲乙つけがたい」といっている。それを実証したプレーが、この日五回にあった。森下のゆるいゴロを出足よく素手でつかみ、ランニング・スローで一塁に刺した「あれは内野安打と思ったが、あのゴロはキャンプでずいぶん練習しているからね」キャンプ、そういえば、ことしの高島はそのキャンプで新しい収穫をあげていた。レイザー・コーチと藤村コーチのアドバイスで「ポイントを前に置きステップしてボールをたたく」という技術をマスターしたことだ。本人はまだ自分のものになっていないというが、この快打二本はその効果が現れたとみていいだろう。「南海には不思議とよくヒットが出る」と高島は笑う。この日打ったホームランはプロ入りした年、同じ南海の祓川から打って以来、公式戦二本目のもの。高島は南海戦にますます自信をつけることだろう。そして東映も突然のヒーローで立ち直るキッカケを掴むかどうか。
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