goo blog サービス終了のお知らせ 

明日は明日の風が吹く

60にしておひとりさまに。
この先、どんな人生になるのやら?

バス減便 (゚o゚)ゲッ!!

2025-04-20 | 母との確執
数日前、母のところに行った時のこと。

母のいる施設に行くには千里中央から北大阪急行で箕面萱野まで行き、
そこから阪急バスに乗って「東ときわ台5丁目」というバス停で降りる。

東ときわ台という住宅地は能勢電鉄の沿線に出来た山奥の豊能町の住宅地で、
生活圏としては千里NT圏とは遠く離れた全く別の町である。
が、山の中をぶち抜いて作られた有料道路を使えば20~30分ほどで千里中央に出られる、
千里中央に出られたら御堂筋線一本で大阪のど真ん中に出られるということで、
通勤通学者からの要望があったのか(なかったのか)、その辺はよく知らないが、
豊能町から千里中央まで(今は箕面萱野まで)社会実験的に山越えの路線バスを走らせているらしい。
(有料道路を使うので片道770円もする )
実験ということは、利用者が少なくて採算が取れなければ
いつ廃止になってもおかしくないような路線ということだ(たぶん)。

で、先日箕面萱野駅のバス停に行ったら何やら黄色い紙がヒラヒラ。
「4月21日(月)からはこのダイヤに変更します」と書いてある。



えー (゚o゚)!! 
ついにその日が来たのか。

「新光風台方面」、朝2本、夜2本しかないやん!
9時~17時はナッシング! バス走ってない。
こんなのもう、路線バスと言えないね。通勤専用バスだ。
全廃にしなかったのは、需要に応えなければとの思いだろうか。
だとしたら減便の理由は運転手不足なのか。






↑これまでの時刻表。
今でも2,3時間に1本しかなくて、私は 15:10 に乗っていたのだが。
これからはどうすりゃいいの


「えらいこっちゃ、どうすればいいの」と弟にメールしたら、
「森町(東ときわ台の隣町)まで来て、違う路線のバスに乗り換えるか。
 ちょっと調べてみる」と。
そんな、今でも十分不便なのにこれ以上時間と手間のかかるのはごめんだ。
車があれば…免許取っておけばよかった。
何かうっかり取りそびれたんだよね。つくづく恨めしい。
今ごろ後悔しても遅いが。

もう母の面会に行くのは無理そうだ。
行きがアレなら帰りも推して知るべし。
墓参り、誕生日…何か理由をつけて母を連れ出してもらい、
こっちで会う機会を増やすしかないかね。
だいたい弟夫婦が不便なところに家を買うから(ブツブツ)
どうしたものか。いい解決策があればいいが。


肝心の母はそんなことはつゆ知らず、
持って行ったお菓子をパクパク、無邪気に食べておりました。




1970万博の思い出話

2025-03-29 | 母との確執
10日ほど時を遡ってお彼岸の中日、久しぶりの墓参りに行った。
冬の間はパスなので昨年11月以来である。

みんな元気に冬を越せました。ありがとう。



そのあとの昼食はちょっと高級路線の和食のお店へ。
ここに来るのはずいぶん久しぶりだ。
いつも混んでいて予約が取れなかったらしい(予約係の弟曰く)。




ランチはおまかせで、
箱盛りの刺身など6種に加えて茶碗蒸し、天婦羅、ごはん、味噌汁、デザート。
ボリュームは要らない、少しずついろいろなものが食べたい中高年向きか。
とはいえ中高年でも少し量的に物足りなかった感あり。
母にはちょうどいい。今回もごはん以外完食
梅の小枝が添えてあるところなんざ、その辺のチェーン店とはちょっと違うのよと🤣
上品な薄味でおいしかったことは間違いない。


さて食事中の話題は時節柄、もうすぐ始まる関西大阪万博。
「行く?」「さぁ」
「チケット買った?」「IDだけ取った」
とまぁ地元民でもこのレベル。

むしろ1970年の大阪万博の思い出話で盛り上がった。
実家は万博会場の当時の西口まで歩いて十数分の立地、
開催期間中は毎週末に親戚やら友達やら親戚の友達の友達やら、
いっぱい押し寄せて、うちは民宿状態だったらしい。
私は当時高3生。福岡に1人で居たので何も知らなかった。
母はひとりで食事から風呂、寝床まで客人のお世話でもうてんてこ舞い、
持ち出しも多かったらしい。

「お父さんはエエカッコして『みんな、うち泊まれ』て。
 ほんで世話するのは私やん。どこのどなたか知らん人ばっかりや」
「〇〇のおばあさん(父の母)まで田舎から出てきはったわ。トシいくつやったんやろ、よう来はったこと」
「建設中は工事の音でうるさいうるさい。始まったらお客だらけ」
「おかずが足らんから私は食べへんこともあった。貯金すっからかんになったわ」

へえ、そんなことも。
古いことはよく覚えている母。
思い出したら腹が立ってきたのか、次から次と恨みの言葉が(笑)

当時はまだ菓子折りひとつで、伝手を辿って誰かの家に泊まりに行った時代だったんだね。
食事も当然のようにご馳走になり…今じゃ考えられない。
大阪もロクに泊まるところもないのに、よく万博なんてやったね。


「オレはもっぱら案内係や。お客さんを西口まで道案内して、チケット買ってもらって入って、
 帰りも何時待ち合わせと決めといて、それまでは自由行動や。確か入場料400円やったわ」
と当時小学6年生だった弟。

「友だちはみんなオレと似たり寄ったりで何回も行ってるから
 どこそこのパビリオンで缶バッジもらえる、どこでは何がもらえると学校で情報交換するねん。
 ほな今度はあそことあそこへ行こかと。毎日楽しかったわ~」

一番得したのはどうやら弟だったみたい。

家がそんなことになってるとも知らず、私はひとり受験勉強に励んでいた?
ならいいのだが、ひとりの自由と孤独と仕送りのお金のやりくりに苦労していた。
それはそれでとっても貴重な人生の勉強になった。と後から思う。
万博には夏休みに帰省した時に一回、夕方から入っただけだった。
弟の話は初耳だった。


食事はいつも母の奢りだ。
母が施設入所してからは、私には面会に行くことの他に何もすることがないので、
母にご馳走になるのが後ろめたい。
それで母宅(空き家)に寄って掃除をしてから帰った。
我ながらつくづく貧乏性^^;



蘇るover90

2025-03-11 | 母との確執
「昨日夜に発熱、嘔吐も少しあるから、今は面会来ない方がいいよ」
と弟から連絡があったのが2月下旬。
どうしたんだろう流行りの感染症かな、でも高熱じゃなさそうだから大丈夫。
などと思っていたが、軽い嘔吐と食欲不振、朝の高血圧でデイサービスも休んだ模様、
そのうち食欲戻るも血圧が高いので部屋食となり…
しばらく様子を見ていたが、先週末ようやく大丈夫となった。
約1週間の不調だったが回復、元気に蘇った。

3年前、当時通っていたデイサービスで、平時から微熱があると指摘され、
病院で検査してもらったら、ウィルス性or過敏性肺炎の疑いと言われたことを思い出した。
詳しく検査することもできたが本人の負担を考えてやらなかった。
母の内に何かがいることは違いなく、何かの拍子にこうやって顕れるのだろう。
これまでは大事に至らずにいるが、いつかはソイツにやられるのかもしれない。



元気になったということで先週末、母の好きなおやつを持って面会に行ってきた。
心配したよと言ってもきょとんとしている。「何事?」
自分の体調が悪かったことをすっかり忘れている。

「うわ~うれしい!」私がお茶を淹れているのを待ちきれずに
持参した板チョコをパクパク食べ始めた。
相手が席に着くのを待ちきれずに食べ物に手を出すなんて
そんなお行儀の悪い母は初めてだ。ちょっとショック

「どこも悪くない痛くもない、息が苦しいこともない」
「夜もぐっすり寝られるし、お通じもちゃんと出てる」

その言葉を額面通りに受け取っていいものなのか、
でも本人がほんとに痛みも何も感じていないのならよかった。
肝を冷やした1週間だった。







今日は3月11日。
まだまだ復興は道遠し。なのに原発回帰って。
何でもいとも簡単にひっくり返る世の中、どこぞの国じゃあるまいし、
そんなことでいいのか。

↓今年も貼り付けておきます

3.11 これからも、できること。| Yahoo! JAPAN / LINE

3月11日に、ヤフーやLINEで「3.11」と検索してみませんか。検索された方おひとりにつき10円を、東日本大震災および能登半島の被災地支援をはじめとする、より良い未来づくり...

 










親不孝娘、親に気づかず^^;

2025-01-31 | 母との確執
今年初の母訪問。
母のいる施設は玄関を入るとロビー兼談話室があり、
そこにはいつも数人のおばあさんが談話するでもなくぼおーっと座っている。
一応TVはついているものの観ている様子もない。
外から来た面会者は、その横を軽く会釈しながら奥にあるエレベーターのほうへと通り抜けるわけだ。





昨日、私も通り抜ける際におばあさんたちをちらと見るともなしに見た。
その中にひとり、母と似た感じの人がいたが、年寄りはみんな似たり寄ったりだし、
その人もこっちを見ていたが無反応だったので、
そのままエレベーターで2階へと上り、母の居室を訪ねた。

あら、いない。
え、さっきのひとがもしかして母だったの?
部屋に閉じこもっていないで他の人とおしゃべりしたら?気の合う人がいるかもよ
といくら言っても空返事ばかりだったひとが、談話室にいる?
いったいどうしたのだろう?
と思いつつまたエレベーターに乗って下り、談話室に戻り、傍まで行ってようやく母と確信する。
「ああ、あんたやったん」と母。
「ここにいるとは思ってなかったから全然気ぃつかへんかったわ。誰かとおしゃべりしてたン?」
「いやいや、ここでTV観てるだけ」

母の右目はほとんど見えていないので私を認識できなくても仕方ないが、
私はなんで母を認識できなかったのだろう。

1、着ている服が私の知らないものだった
2、あとから思えば厳しい表情だった(緊張していたのか)
3、マスクで顔半分隠れていた
4、ここにはいないとの思い込みが私にあった

まぁこんなところか。
いくら似たり寄ったりのおばあさんたちとはいえ、自分の親を見分けられないとは…
ちょっとショックだ





今年最後の面会へ

2024-12-30 | 母との確執
母のところに行ってきた。
母がこのサ高住に入居して1年ちょっと。二度目の年越しである。

今冬はコロナもインフルもまだここには届いていないようで、今のところ面会制限はない。
母の部屋は気分が悪くなるほど暖房が効いているが、
母のいでたちはブラウスとカーディガンに加えて首に何やら巻き、ダウンベストまで着ている。
それだけ着てもちょうどなのだろう。
エアコンのリモコンは本人が触れないようにどこかに隠してある。



母の髪がまた短くなっている。
施設に来る床屋さんにお願いするとだいたいみんなこんな感じの刈り上げスタイルになる^^;
ここまで短いのは初めてだ。
「何でもハイハイ言ってたらダメよ、イヤならイヤと言わないと」
家族の申し込みなしに切ることはないはずだが。もうしばらくは切らなくて良さそうだ。

元気そうで安心した、と言うと、
「そうやねん、ひとりで歩けてるのがすごいてみんな言うてくれはるねん」
「みんなて誰やのン」
「みんなはみんなや。そこらにいたはる人みんな」
(ふーん、妄想始まった)
「〇〇さん、すごいて。私のトシきいてびっくりしはるんよ」

それだけうぬぼれるぐらいならまだ大丈夫だろう。
思えばここに来てからの方が食も進むようだ。
あんなに施設はイヤだと言っていたのがウソのよう。
イヤ=(よくわからないが故の)不安 ということね。
今のところ入居費用も母の年金と貯金の取り崩しでやっていけるので、
私たち子どもの負担もなく、とてもありがたい。
認知機能は徐々に衰えてはいるだろうが、身体的には現状維持。
ここが痛いあそこが痛い、医者に連れてけ~etc.の訴えが多いとこちらも辛いが、
そんなこともなく、おそらく圧迫骨折であろう腰の痛みも1カ月で引いた。
暑い寒いだけでなく痛い痒いもあまり感じないのか。
だったらそれは高齢者にとっては幸せなことだ。


96の母が突っ張っているのにこっちが先にくたばるわけにもいかず^^; 
母の頑張りが私を頑張らせていると言えなくもないか。
とはいえ、今年はめまいに悩まされたり副鼻腔に影ありで検査三昧だったり、
医者通いが増えた年だった。
「アンタは今年弱ったなぁ」と母にしみじみ言われる。ガックリ

ところで来年から高額療養費制度の上限額の見直しが決まった。
えーッという感じ。セーフティネットだからよく考えてほしいものだが。決まったらしい。
娘は不妊治療時におおいに助けてもらったし、今年は私も助けてもらった。
月の医療費支払いの上限が決まっているとどんなに安心か、身を以って感じた。
国はこうやって社会保障をじわじわ削っていくのね。

今年は選挙のあり方がころっと変わった年だった。
早く何とかしないとウソやインチキが罷り通る世の中になりそうで怖い。
石破さんの影は思っていたよりずっと薄いし、どこぞの野党の見慣れない面々の尊大さには辟易する。
うまく行かないものだ。
来年はもっとインチキな世の中になりそうな気がする

今年も1年あっという間に過ぎ去りました。
ご訪問ありがとうございました。
どうぞ良いお年をお迎えください。