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南北朝(日本)時代と漫画家・車田正美先生の作品を瞑想する部屋。

【楠正儀】「楠三代」について考える(3)-正成(2)-

2008年05月17日 18時38分28秒 | 楠正儀

南北朝(日本)時代を調べるにあたり、あらかじめ決めたことがありまして。

『太平記』は最後に読む。

資料の中で引用された部分には目を通しても『太平記』そのものは、今だ、と思える時まで読みません。やだもん、仕掛けがありそうで。引っかかってやらないもんね・・・なんのことだろう。

  • 住吉大社 四本宮(2000年09月21日撮影)元弘02/正慶元(1332)年08月03日:楠正成、住吉大社(※01)に馬3匹を献納。
  • 元弘02/正慶元(1332)年08月04日:楠正成、天王寺(※02)に(大般若経転読の布施として)銀覆輪の鞍を置いた馬1匹に銀覆輪の太刀、鎧1両を添えて進上。

※01:大阪府大阪市住吉区住吉。後醍醐、後村上両帝の綸旨が伝わる。正平07(1352)年、正平15(1360)~23(1368)年は南朝(後村上帝)行宮とされた。
※02:大阪府大阪市天王寺区四天王寺。

この時、正成は天王寺が秘蔵する聖徳太子の『日本國未来記』を見た、とされます。
「元弘の乱」を起こした後醍醐帝はすでに隠岐へ配流。それでも正成は諦めずに再起を図っていました。

住吉大社末社 楠珺社(2000年09月21日撮影)

  • 元弘02/正慶元(1332)年11月:楠正成、湯浅定仏の駐屯する赤坂城を急襲。

『花園天皇宸記』

「楠木事、猶興盛候歟、…」

再挙した楠党は南河内や和泉で活動し、摂津へ進出、そして上赤坂城、千早城において幕府の大軍を相手に「金剛山は未だ破れず」という戦いぶりを世に示します。その頃。

  • 元弘03/正慶02(1333)年02月29日:楠正成、天王寺に『未来記』披見の礼状(※03)を宛てる。

※03:『太子未来記伝義』(四天王寺所蔵)。

『未来記』は正成に勝算をもたらしたのでしょうか。というのも、“予言”が倒幕を企てる者のやる気が失せそうな内容だったからです。
手許にある資料の範囲内ではありますが、正成にとって“現代”にあたる部分をまとめてみました。

『太平記』の成立

彼はなにを見たのでしょう。
少なくとも『未来記』と、『太平記』が“正成が見た”とする『未来記』は一致しません。

四天王寺(2000年09月23日撮影) それは、『太平記』の書き手が見た『未来記』と、楠正成が四天王寺で見た『未来記』は同じではないからなのです。きっと、こうだろうと考えて書いたにすぎません。
では『太平記』の書き手の持っている資料は何だったのか、それが問題となるのです。

『聖徳太子の「日本が沈む日」秘書『未来記』の真相』友常貴仁/三五館

ほー・・・。
なんだか“予言”の奪い合いですね。
『太平記』は『未来記』よりも、『未然紀』をネタにしたような記述です。
さらに、正成は石切劔箭神社(※04)において『遺書傳来記』を、法隆寺(※05)において『善光寺如来御書箱』を開いたかもしれない人です。
※04:大阪府東大阪市東石切町。正成の閲覧に対する礼状は戦乱で焼失したものの、その存在は口伝された、とのこと。
※05:奈良県生駒郡斑鳩町。聖徳太子の巻物3巻が納められた箱は南北朝時代の錦で包まれていた。

石切神社上之宮参道(2000年10月22日撮影) 鎌倉幕府の滅亡寸前に石切劔箭神社、天王寺、法隆寺の「秘書」がそれぞれ開封されていた・・・というのはおもしろい。
しかも旧帝國圖書館が所蔵していた『日本國未来記』『未然本紀』写本の状況から、江戸時代には徳川家が、明治時代には「南北朝正閏論」で揺れた明治政府が同じことをした可能性があります。
とすれば、『未来記』にこだわったのは最高権力者の“当今”で、正成は後醍醐帝の勅命を受けて行動したのでしょう。勅使に来られては拒めません。

後醍醐天皇の肖像画として最も有名なのは、藤沢市の清浄光寺が所蔵するものだ(表紙参照)。この後醍醐天皇像は、「冕冠(べんかん)十二旈(りゅう)」という玉冠をかぶり、王権を象徴する特別な袈裟を着ている。このような装束の肖像画は、ほかには「聖徳太子勝鬘(しょうまん)経講讃(こうさん)像」(斑鳩寺蔵)しか見あたらない。後醍醐像は明らかに聖徳太子像の影響を受けている、と大阪外国語大学教授の武田佐和子氏は指摘している(『信仰の王権 聖徳太子』中央公論社、平成五年刊)。
また、東京大学史料編纂所附属画像史料解析センター長の黒田日出男氏は、この肖像画の製作者は、僧・文観と想定している。しかも文観は、後醍醐天皇を弘法大師の後身(再来)とみなしており、大師は聖徳太子の後身とされていることから、後醍醐天皇は聖徳太子の後身でもあると考えていたという。黒田氏は、「おそらく後醍醐天皇も自らを聖徳太子の後身と考えていた可能性が高い」(『歴史を読み直す 3』朝日新聞社、平成六年刊)と、推論している。

『週刊再現日本史 1324~1335 鎌倉・室町⑤』講談社

住吉大社 正印殿跡(2000年09月21日撮影) 聖徳太子かぁぁ。それじゃ強気にもなりますわな。
勅旨を託されるほど信任厚かった正成。彼も誰かの後身に見立てられていたのでしょうか。
御上の意向を知ってか知らずか、正成は為すべきことを恬淡と成してゆきます。
足利高氏、新田義貞らが挙兵し、六波羅が落ち、鎌倉が落ちて倒幕は成りました。金剛山は終(つい)に破れず。時代が変わった。

  • 元弘03(1333)年06月05日:後醍醐帝、二条富小路内裏へ還幸。
  • 建武元(1334)年01月29日:後醍醐帝、改元。

いわゆる「建武の親政」の始まりです。しかし正成の運命はさらに変転します。
親政の破綻。
そして湊川へ。
未来を信じたのか、変えたかったのか。滅してなお、使命を果たしたのか。それとも。
いずれにせよ、彼は諦めませんでした。一族のために。
うん、一族のためだと思いますよ。私の信念とか、公の理念とか、あるけれども最後は「血」のために戦って「血」に殉じたのではないかと思います。そういう名を子に遺している。

  • 延元元/建武03(1336)年05月25日:楠正成、湊川で合戦の末に自刃。

壮絶な最期。その前にちょっとしたドラマがあったようです。

(続く)

参考文献:
『楠木一族 上の巻』(永峯清成/創元社)
『楠木氏三代-正成・正行・正儀』(井之元春義/創元社)
『楠木正成』(大谷晃一/河出書房新社)
『楠木正成のすべて』(新人物往来社)
『現代語訳 日本の古典13 太平記』(永井路子/学研)
『佐々木導誉』(森茂暁/吉川弘文館)
『聖徳太子の「秘文」開封』(飛鳥昭雄+山上智/徳間書店)
『聖徳太子の大予言』(飛鳥昭雄+山上智/徳間書店)
『聖徳太子の「日本が沈む日」秘書『未来記』の真相』(友常貴仁/三五館)
『天皇になろうとした将軍』(井沢元彦/小学館)
『内乱のなかの貴族 南北朝と「園太暦」の世界』(林屋辰三郎/角川選書)


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