むっちゃ久しぶりに平井和正氏の小説を再読しました。こんなに読みやすかったっけ。上手い。わかりやすい。初めて読んだ時の自分の国語能力が未熟だったんだな。
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- ライラ・アミン
22歳。パレスチナ解放人民戦線、大尉。乗っとったTWA機がダマスカス空港で着陸に失敗、大破炎上するも脱出、生還。 - 林石隆
?歳。中国保安省の特務工作員。日本最大の兵器産業、豊田工業の工場に潜入し破壊工作に失敗、被弾。20,000ボルトの電流に耐え、生還。 - 田村俊夫
23歳。プロ・レーシング・ドライバー。日本GPで優勝目前、ハンドルのピンが折れてマシンがクラッシュする大事故に見舞われたものの生還。
とまあ、体がどうかしちゃってる人材を、冷戦時代の米ソが協力してスカウトし、気違いじみた訓練―――ベースキャンプ(※01)では生存率1%―――を課して、生き残った戦士を組織した人類史上最強、最悪の暗殺機関が「ゾンビーハンター機関」です。
※01:北米フロリダ半島から約120km南方の海域にあるゾンビー島。
敵は地球外生命体。
米国の政府高官を乗せた特別機がロッキー山脈に墜落したことをきっかけに存在が知れた通称「ゾンビー」を、汚染された人間ごと抹殺するのがゾンビーハンターの任務であり、それだけが正義、という人倫もへったくれもない世界ですわ。
ゾンビーハンターは自己保存に徹し、殺しても死なない、心身ともに非常識な連中で、それが選考基準となった理由はターゲットのゾンビーにあります。「彼ら」は宿主の肉体が再生不能なダメージを受けると、濃い緑色の不定形な姿でどろどろ・・・っと流出するんですが、死にません。
このグロテスクな見た目の悪さが災いして、敵性と見なされた気もするな。
死なないやつには死なないやつを、毒をもって毒を制す、どっちがゾンビーだかわからない死闘が始まります。
不死性と人間性の葛藤は確か、ウルフガイ・シリーズの狼人間や虎人間、メトセラ・プロジェクトでも描かれていました。うろ覚えだけど、アダムの系図で最長寿命の人からとったプロジェクト名だったような。
『創世記』第5章
アダム(930歳)―――セツ(912歳)―――エノス(905歳)―――カイナン(910歳)―――マハラレル(895歳)―――ヤレド(962歳)―――エノク(365歳)―――メトセラ(969歳)―――レメク(777歳)―――ノア(950歳)
『旧約聖書』(日本聖書協会/1955年改訳
いや、作り話だろ、人間がそんなに長生きするはずがない、と考えますよ、普通は。生命には限りがある、という体験が思考に刷り込まれていますから。『創世記』では系図が下るにつれて、人間はどんどん短命になり、やがて現代人と変わらなくなる。不死性と人間性が分裂するのです。
なぜか。
その解答を、ゾンビーは地球人類にもたらすために飛来したのですが、なにしろ気持ちが悪いその様態、人類がコントロールできない最大の恐怖、「死」として狩られることになってしまったんですな。
「いいか、ふたりともよく聞け。こいつら気違いどもは、宇宙人がなにをしに地球に来たか理由を知る前に、宇宙人を殺しちまおうとしてるんだ。殺られる前に殺っつけようという国家間の憎悪の論理を、今度は宇宙の規模まで拡大しようとしているんだぞ。もし、宇宙人の連中が地球人より強力で利口で、報復をはじめたらどうなる?」
俊夫はゾンビーなんか知ったことではなく、ドライバーとして再起するための100,000$欲しさに身売りしたので、ゾンビーハンター機関の最高司令官“S”にこう噛みついた。まっとうな論理です。
この人、「山猫が巨大な灰色熊(グリズリー)を倒」すようにCIAの殺し屋を素手でやってしまったり、向こうっ気が強すぎるくらい強いけれど、一度でも懐に入れてしまった人間には非情になれない、病弱な姉を愛し、恋人を愛し、人間が嫌いでそれは好きだから、と、つまり心が華奢だった。殺し屋には向いていません。
それに自分で気づいていなかったのが彼の悲劇で、100,000$と引き換えに、左眼は赤外線から紫外線まで可視領域とする義眼、左腕は核電池で動く義手、ゾンビーに憑依された恋人に姉を惨殺され、己の手で恋人を屠り、俊夫は復讐だけが生きる理由の殺人機械になってゆく。そしてあろうことか、ターゲットの1人である加賀良子と恋に落ちて、復讐すらできなくなってしまいます。ええっ、ゾンビーには心があるのか? あのどろどろに?
過酷な運命に翻弄される俊夫を、密林で4週間を生き延びる生存試験の最中にたまたま出会ったライラ、林はなぜか気にかける。
俊夫は暴力の世界に身を置きながら、
(どうして人間は人間に、そんなに酷いことができるのだろう、どうして?)
という子供のように素直な疑問を抱いていて―――そんな子供が44オートマグナムをぶっ放すから始末に困る―――そのアンバランスが2人の琴線に触れた。まあ、好きになっちゃった。放っておけない、と云った方が正しいかもしれません。
3人を結ぶ細い糸のような絆は、俊夫をかろうじてこの世につなぎ留めているわけです。
しかしライラは、かつての同志「パレスチナ解放人民戦線」の凄惨な拷問によって瀕死。
ベースキャンプはゾンビーに侵入され、加圧水型原子炉(PWR)が暴走、パニックでゾンビーハンター機関はほぼ壊滅。死が充満する中で、
たとえ死ぬにしても、俊夫は人間として死ななければならない、と林は思った。このまま感情のない操り人形として死ぬべきではなかった。人間の心を回復すべきであった。死ぬほど俊夫を叩きのめしてでも、おれがそれをやってやる、と林は思った。
「さあ、いくぞ、俊夫」
いつも飄々として人懐っこいのに、人殺しはばっさり割り切る変な中国人、「プロフェッショナル・キラー」の林石隆が決意する、ここが、
“人類ダメ小説”の終り(※02)
の始まりなんだろう、と思います。
※02:『死霊狩り(ゾンビー・ハンター)』(3)あとがき。
どんなにダメでも、人間を捨てることはできない。自分を否定できない。それは、死だ。だからダメなんだ。
林は激闘の末、俊夫を「死」から奪い返し、ある体験を経て覚醒した俊夫は、ライラをたった一人で惨めに死なせたくない、その一念だけでゾンビー島からの脱出を断念。
林もまた、理念の下で大量殺人も厭わない「人類ダメ」の権化“S”に反逆し、代償として大型ヘリの機銃弾で腹に大穴を開けられますが、俊夫から大量の輸血を受けてまたしても生き延びます。もう呆れるしかない。
無意味なことかもしれない。それは無益であるだろう。外道の殺し屋として生きた無頼の男女が三人、今まさにくたばろうとしている。こわれた機械、スクラップとして見捨てられて・・・(中略)
だが、おれたちはまだ生きている! 俊夫はたぎるような心で思った。もはや、おれたちはSの操り人形ではない。生命が絶える時には殺人機械のゾンビーハンターとしてではなく、人間として死ぬことができるのだ。
ライラよ、待っていろ。おれが今、林をおまえの許へ連れ帰ってやるからな。
自爆装置(中性子爆弾)がカウントダウンする絶体絶命の状況で、俊夫は「ライラ」と再会し、仇敵と信じていたゾンビーの、地球人への深い愛着、コンタクトの目的を知ります。
不死性と融合することで真の人間性が再起する、
人間の本質が甦る、
まさに「人間の再起動」、ルネサンス(復興)という表現がふさわしく思えるクライマックスで―――
いいところで終わってるんですわ、この話。
ゾンビーは中性子線によるダメージをも克服する再生能力を持っていたのか。そうであれば、俊夫とライラは生きている。
致死性神経ガスに満たされたステーションに突入し、自爆装置を止めようとした林は死んでしまったのか。俊夫からの輸血は「濃厚接触」にあたるので、もしかしたら・・・3人の中でもっとも狡猾で人間離れした林が、最後の最後に人間らしく死ぬ、というのもありですが。
林石隆は捉えどころがなくておもしろい。少年の頃から破壊工作員として生きてきた彼は、たぶん、俊夫の「場違い」さに興味を抱き、人間に絶望しつつも希望せずにはいられない業に共感したんじゃないでしょうか。こいつは、同じだ、と。
林は俊夫との心のつながりを「気恥ずかしい」と感じて言語化しないまま、俊夫と別れてしまいますが、それが永遠の別れだったとしても、
(林)「(おれの)死体にとりすがっておいおい泣け。おまえのやりそうなこった。」
と、かつて冗談めかした科白のとおりにはなるだろう、と思うのです。