NHK大河ドラマ『太平記』の感想を書こう・・・と思い、おさらいをすることにしました。
まず第1回『父と子』~第3回『風雲児』のあたりを時系列にしましたが、なぎらは「楠正儀一本釣り」に懸けていたので、集めた資料が偏っています。なにより観点がヘンです。まだ正儀は生まれておらず、関係者の生没が中心です。
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*人名の右の()内は数え歳
*引用文と引用文に矛盾(異説)があってもそのまま掲載
*持明院統(北朝)
*大覚寺統(南朝)
1263年(弘長03)
- 楠正玄(1)生まれる。楠正俊の子。河内玉櫛荘の信貴阿門律師金剛別当・橘盛仲女との婚姻を得て「橘」を称するか。
抑も橘氏は、敏達天皇の皇子難波親王の曾孫美努王の子、諸兄公を以って、其の祖となす。美努王、初めは葛城王と稱す。天平勝賓の初め正一位に累進し、左大臣に排せられ、姓橘朝臣を賜ふ。井出左大臣橘諸兄公は、其の子なり。諸兄公十四世の孫を、正遠と云ふ。正遠は「橘氏系図」に「正遠。楠、従五位上」と記せり。正遠は、また正玄に作る。こちらも「マサズミ」と訓ず。正遠の時に至りて、族を楠と稱す。
『高槻町全誌』
昭和20年代後半に八尾の近辺で小文献(”楠家の先祖は若江郡玉串の大領”)が出た。
『私本いばらき風土記』
1275年(文永16-建治元)
- 夢窓疎石(1)伊勢で生まれる。
- 04月25日:改元(後宇多天皇)。
1277年(健治03)
- 赤松則村(1:後の円心)生まれる。赤松茂則の子。村上天皇の皇子・具平親王を祖と称し(村上源氏)、播磨佐用荘を支配する。
1283年(弘安06)
- 卜部兼好(1)生まれる。元徳(1329)-元弘(1333)頃、反古がまとめられて『徒然草』が形になる。
1288年(弘安10-正応元)
- 04月28日:改元(伏見天皇)。
- 10月02日:尊治親王(1:後の後醍醐天皇)生まれる。後宇多天皇の第2皇子。母は五辻(藤原)忠継女・忠子(17)。
1289年(正応02)
- 津守国夏(1)生まれる。住吉大社宮司・津守国冬の子。母は「帥房有盛(そちのぼうゆうせい)」女。
1293年(正応05-永仁元)
- 北畠親房(1)生まれる。権大納言・北畠師重(-1315.4)の子。母は藤原隆重女。師重が出家(1307.7)し、祖父の師親(-1322.1)によって嫡子とされる。播磨の赤松氏と同じく村上源氏を称する。尊治親王の第2皇子・世良親王(母は西園寺実俊女)の養育にあたるが、親王の早世(1330.9.17)で出家。法名は「宗玄」、後に「覚空」。
- 四条隆資(1)生まれる。
- 08月05日:改元(伏見天皇)。
1294年(永仁02)
- 04月25日:楠正成(1)生まれる。楠正玄の子。母は信貴阿門律師金剛別当・橘盛仲女。幼名多聞丸。
1296年(永仁04)
- 万里小路(藤原)藤房(1)生まれる。万里小路宣(のぶ)房の子。石清水八幡宮別当・善法寺宗清女を祖母とする。
- 佐々木高氏(1)生まれる。佐々木氏庶流の京極宗氏(1269-1329.7.16)の子。母は大叔父の京極宗綱(1248-1297.9.20)女。幼名四郎。宗綱の男子(貞宗(1287-1305.5)、他)が絶えたため、「外孫」の高氏が猶子となり家督を継ぐ。出家(1326.3.23)して「導誉」を号する。室町幕府政権下で「評定衆」(1349.1-1367.11?)「引付頭人」「政所執事」などを歴任し、2代将軍・足利義詮を補佐。細川頼之を「管領」に推挙か。
1298年(永仁06)
- 楠正氏(1)生まれる。楠正成の同母弟。幼名七郎。
従五位上楠正玄嫡男俊親、二男大夫判官摂津河内守・多門兵衛尉正成、三男和田和泉守七郎正氏也。
『高槻町全誌』
1299年(永仁07-正安元)
- 04月25日:改元(後伏見天皇)。
1301年(正安03)
- 新田義貞(1)生まれる。上野新田荘の領主・新田氏光の子。母は堀口入道女。幼名小太郎。父が早世し、祖父の朝氏より家督を継ぐ。
- 阿野廉子(1)生まれる。右中将・阿野(藤原)公廉女。母は未詳。洞院公賢の養女。西園寺実兼女の禧子が中宮として入内(1319)する際に従い、後に後醍醐天皇妃となる。
1302年(正安04)
- 06月16日:「尊治親王」(15)、宣旨を受ける。
1303年(正安04-乾元元)
- 渡辺国(1)生まれる。渡辺照(源昭)の子。
- 11月21日:改元(後二条天皇)。
1304年(嘉元02)
- 楠正季(1)生まれる。楠正成の異母弟。幼名七郎(※01)。
- 南江久子(1)生まれる(出生地については河内北部の説あり)。河内甘南備村矢佐利の南江正忠の妹。比佐、または引佐とも。
- 03月04日:楠正玄(42)鎌倉で没。
※01:正澄の四男。「母別腹。和田七郎」(『系図纂要(橘氏系図)』)。
1305年(嘉元03)
- 足利高氏(1:後の尊氏)生まれる。出生地は丹波何鹿(いかるが)郡上杉荘か。下野足利荘の領主・足利貞氏(1272-1331.9)の子。母は上杉重房の子の頼重女・清子(側室)。幼名又太郎。正室(金沢顕時女)と嫡子(高義)が早世したため、家督を継ぐ。上杉重房女(清子の伯母)は「置文」を遺して自害した足利家時の側室。
- 斯波高経(1)生まれる。
上杉氏の始祖重房はもと藤原姓で、建長年間(1249-1256)に鎌倉6代将軍宗尊親王に従っての鎌倉に下ったとき、上杉荘を与えられ、上杉姓とした。上杉氏は室町時代に関東管領として関東に勢威をふるった。重房の子頼重の娘清子は下野の豪族足利貞氏に嫁して尊氏・直義を生んだ。清子は当地(※02)に帰って尊氏を産んだと伝え、寺前に尊氏産湯の井戸があるが、確かなことは不明である。
※02:光福寺(真言宗)。安国寺(臨済宗)に改称したのは康永-貞和年間(1342-1350)か。京都府綾部市安国寺町。『京都府の歴史散歩<下>』(山川出版社)
1306年(嘉元04-徳治元)
- 足利高国(1:後の直義)生まれる。足利高氏(2)の同母弟。
- 12月14日:改元(後二条天皇)。
1307年(徳治02)
- 尊良親王(1)生まれる。尊治親王(20)の第1皇子。母は権大納言・二条(冷泉)為世女の「贈従三位」為子(-1311,または1312.8.12)。「歌道師範」二条(御子左)家当主を外祖父とする。乳父は吉田定房(33)。
1308年(徳治03-延慶元)
- 護良親王(1:後の大塔宮。「尊邦」を称したことも)生まれる。尊治親王(21)の第3皇子。母は亀山院(尊治親王の祖父)女房の日野経光女「三品藤原経子」か。梨本門跡。天台座主として比叡山延暦寺に入り、尊雲法親王を称する。
- 10月09日:改元(花園天皇)。
1309年(延慶02)
- 篠塚重広(1)生まれる。上野佐貫荘の篠塚城主・篠塚重徳(秩父平氏-畠山重忠から五代)の子。幼名八郎、または五郎左衛門。
1311年(延慶04-応長元)
- 04月28日:改元(花園天皇)。
- 08月12日:宗良親王(1)生まれる。尊治親王(24)の第4皇子。尊良親王(5)の同母弟。妙法院門跡。天台座主として比叡山延暦寺に入り、尊澄法親王を称する。
1312年(応長02-正和元)
- 03月20日:改元(花園天皇)。
1313年(正和02)
- 安満正頼(1:後の了顕)生まれる。楠正晴(俊親)の子で楠正成の甥か。
浄誓寺は字安閑田にあり、安満山と号し、真宗西本願寺末にして阿弥陀仏を本尊とす。寺記によれば、安満了願の開基なり。安満了願は橘正玄の三男・正頼にして、観応元年本願寺三世覚如法主に帰依し、剃髪して其の直弟となり、姓を阿間と改め、了願と法名せり。
『大阪府全志』
(正玄の)嫡子の俊親は「橘氏系図」に「俊親。亦曰正晴。阿間」と記せり。・・・(中略)・・・俊親の長子は正頼にして、即ち阿間了願なり。
『高槻町全誌』
・・・了願は俊親の子であって、名を正頼というた。父子ともに正成と行動を同くし、湊川戦に俊親は正成と戦死し、正頼は郷里(河内)に帰り、ときの到るを待ち、正行の四条畷の戦には正行とともに吉野行宮に祗候し、塔尾陵を拝し如意輪堂に氏名を録したが、後醍醐天皇の召により、御念持仏の阿弥陀如来を賜わり、紀州に隠れ、天野に住み最後島上郡安満に入り、剃髪して僧となったとある。・・・(中略)・・・また後醍醐天皇から念持仏を賜わったという同様の話が、紀州和歌浦性応寺にもあって、ここでは了願の名を明武と伝えている。
『高槻通史』
1314年(正和03)
- 07月09日:量仁親王(1:後の光厳天皇)生まれる。後伏見天皇の第1皇子。母は左大臣の藤原公衡女・寧子(後の広義門院)。
1316年(正和05)
- 夢想礎石(42)、甲斐で長禅寺(臨済宗)を開く。
1317年(正和06-文保元)
- 02月03日:改元(花園天皇)。
1318年(文保02)
- 北畠顕家(1)生まれる。北畠親房(26)の子。
- 02月26日:尊治親王(31)践祚。
- 03月29日:後醍醐天皇、即位。
1319年(文保03-元応元)
- 後醍醐天皇(32)の生母・談天門院(48:五辻忠子)没。
- 04月28日:改元(後醍醐天皇)。
1321年(元応03-元亨元)
- 02月23日:改元(後醍醐天皇(34))。
1323年(元亨03)
- 南江久子(20)、松尾季綱の媒酌により楠正成(30)に嫁す(※03)。
※03:『大楠公夫人絵伝』および楠妣庵観音寺の取材による。
1324年(元亨04-正中元)
- 09月19日:「正中の変」。後醍醐天皇(37)の倒幕計画が露見する。
- 12月??日:後醍醐天皇の勅願により、堺に澄円を開基として大阿弥陀経寺(浄土宗)が建立される。
- 12月09日:改元(後醍醐天皇)。
参考資料:
『茨木の歴史』
『邑楽町誌』上
『大阪府全志』
『門真市史』第二巻
『加茂町史』第一巻
『郷土いばらき』
『摂津市史』
『高槻通史』
『楠妣庵観音寺案内』
『大阪の歴史と文化』(井上薫/和泉書院)
『楠木正成』(植村清二/中央公論社)
『楠木正成』(大谷晃一/河出書房新社)
『楠木正成のすべて』(新人物往来社)
『佐々木道誉』(森茂暁/吉川弘文館)
『聖徳太子の「日本が沈む日」秘書『未来記』の真相』(友常貴仁/三五館)
『図説 鎌倉歴史散歩』(河出書房新社)
『図説 太平記』(毎日新聞社)
『太平記の群像-軍記物語の虚構と実像-』(森茂暁/角川書店)
『永井路子の方丈記・徒然草』
『内乱のなかの貴族-南北朝と『園大暦』の世界-』(林屋辰三郎/角川書店)
『新田義貞四天王 篠塚伊賀守重広』(細谷清吉/群馬出版センター)
『日本歴史『古記録』総覧 古代・中世篇』(新人物往来社)
『室町軍記総覧』(古典遺産の会/明治書院)
『臨時増刊 歴史と旅「太平記の100人」』(秋田書店)
よくお調べになられていますね、さすがです。
>昭和20年代後半に八尾の近辺で小文献(”楠家の先祖は若江郡玉串の大領”)が出た。
『私本いばらき風土記』
この記事は気になります。
玉櫛荘にある津原神社の由緒や、
同地区にあったとされる楠木館?(橘館)や、
正儀の子孫の方が住んでいる事等も合わせて、
玉串は、私も注目しております。
こんばんは。いらっしゃいませ。
いつでも、気になる時にお越しいただいて結構です(^_^)。
>津原神社の由緒
同じく気になりましたので、実際ににうかがったことがあります。
付近に正儀の子孫の方が住んでいらっしゃるのですね。
当方、さすがに足繁く通うわけにはまいりませんので、このような「地元」の情報に接すると嬉しくなります。ありがとうございます。
>楠木館?(橘館)
東高野街道や旧大和川を行き来する物流の拠点として橘館が立ったのかもしれませんね。ハブ(hub)だったのでしょうか。だとすると、相当の規模ではないかと・・・玉串には想像をかき立てられます。
実は、毎日見に来ております。
>「地元」の
正儀の子正平が当地にやって(戻って)来たと伝わっております。
私の拙サイトに、グーグルを利用した史跡マップを作りましたが、そこに、関連した史跡をマークしております。
>玉串
この「くし」は「奇すしき」の意味もあるとか?
樹木のクスノキの名も、「奇すしき」から来ているそうですから、
なんか楠木氏も関係があるのかな??
毎日!
ありがとうございます!
休みの日にもたもたしながらの更新ですが、NHK大河ドラマ『太平記』のレビューも始めましたので、今後もよろしくお願いいたします。
>正儀の子正平が当地にやって(戻って)来たと伝わって
改めて、マークのついたGoogleマップを拝見いたしました。
彼の子孫についてはいずれ触れることになりますが、付近で気になるスポットといえば、美具久留御魂神社(下水分社、下折方宮、和爾宮)です。
手もとの記録を見ると、七郎さんもすでに取材されたように、
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1396(応永03)年
南朝廟所、白雲宮(上宮)創祀。
美具久留御魂神社(大阪府富田林市宮町)境内。南木神社もある。
現存の御霊代は楼町天皇(1735-1746在位)の勅封。
後亀山院の皇子尊泰親王の御末は当社の神宮寺金蔵院の坊中に身を上せられ、歴代天皇はこゝに南朝の遺臣を召されて再起を計られたという。
現今其の記録となるべき何等の古文書もないが、下之坊秘系なる南朝の系図一巻を蔵している(『富田林市誌』)。
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>「くし」は「奇すしき」
関係があるというか、彼らは“そのもの”ではないかと・・・(^^〃)。
知人の話では、「く・す」の「く」は「す」を発音するための音だそうです。「す」と「そ」の中間、「すぉ」という感じではないでしょうか。
漢字なら「素」だな、と思っておりまして、『福武漢和辞典』を引くと、
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①しろいと(白糸)
②しろぎぬ(白絹)。染めていない絹。「素衣」
③しろし(しろし)。無地の。染めていない。
④ありのままの。生地のまま。飾りのない。天性の。「素朴・素質」
⑤とぼしい。そまつな。むなしい。実のない。[同]粗。「粗餐」
⑥位がない。徳はあるが地位がない。「素王」
⑦いやしい。身分の低い。「素門」
⑧もと。
(ア)始め。
(イ)本来のもの。性質。
(ウ)もとになるもの。原料。原質。「元素」
⑨もとより。
(ア)以前から。はじめから。
(イ)つねづね。平生。「平素」
《国語》
①す。何もつけていない状態。「素肌」
②「素人」は、本職でない者。[対]玄。
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『古事記の暗号』(藤村由加/新潮社)を読むと、漢字には、
・景(光)⇔影
のように正反対の意味を同字で表す相対性があり、ものごとを「どちらから見るか」という視点の問題である、とのこと。
赤ちゃん、赤ん坊、赤裸々、素手=赤手など、「素」は白だけでなく赤を暗示し、
・...{素 {白⇔赤} ⇔ 玄}⇔...
こんな関係でしょうか。
↑の本は「第二章 いなばのしろうさぎ」で易の卦により、素兎は赤土(はに)の象徴である、と解いています。美具久留御魂神社に大国主大神は祀られて・・・いますよね。
ああ、長々とすみません。
以前、「梛」にお付き合いいただいたので、つい・・・(-_-;)ゞ。
「楠三代」の続きもぼちぼちやらなければ、と実は焦っているのでがんばります。
コメント、ありがとうございました。
素の話、興味深いです。
こんばんはー。
「ナ・ギ」の話をすると「ク・ス」が、
「ク・ス」の話をすると「ナ・ギ」が、
ぐるぐる回っちゃうんですよ、なぜか・・・(^_^;)これも「どちらから見るか」ということなんでしょうか。
でも、難しいです^^;
前にも書いたかもしれませんが、
私の家の家紋が、柏の違い重ねで、
梛の家紋に似ております^^;
手もとの『家紋事典』(金園社)によれば、柏紋は大別して、
A,一葉のもの
一葉柏
B,二葉のもの
(イ)対柏 (ロ)抱柏 (ハ)違柏
C,三葉のもの
(イ)三枚立柏 (ロ)三枚柏 (ハ)柏巴 (ニ)追柏 (ホ)剣柏
D,四葉のもの
(イ)四蔓柏 (ロ)輪違柏
E,五葉のもの
五葉柏
F,六葉のもの
六葉柏
G,九葉のもの
九葉柏
七郎さんの一族は、Bの(ハ)でしょうか。
残念ながら「柏の違い重ね」紋は載っていませんが、「違い梛の葉」紋は載っています。これを柏の葉に置き換えればいいのかな、と思って眺めています。
それよりも、梛紋の項にこのようなものが。
(梛の)漢名は竹柏という。
・・・いやいやいや^^
そうなんですか^^いやいやいや^^
七郎さんには通じるかと・・・^^
違い柏
http://www.otomiya.com/kamon/plant/kashiwa.htm
ここに図が載っておりました。
>竹柏
わぁ~知らなかったです。
誠にありがとうございます。
何かがつながっていきそうです。
こんばんは。URL、ありがとうございました。
思ったとおり、梛の葉を柏の葉に置き換えた紋ですね。なるほど~^^
(柏は)松とともに節操の堅いことにたとえられる(『福武漢和辞典』)。
だそうです^^
ちょっと調べものをしたら、かしわ餅が食べたくなって、昨日食べました。つぶ餡が好きです(^∇^)。
柏の葉は古代、食べ物を盛る皿だったそうですね。
神社にお参りする際は「二拝二拍一拝」が作法ですが、柏手(拍手)を打つ、とも云いますね。
なぜ「白+木」なのでしょう。白は素、変わらないもの、それゆえにあらゆるものに変わり(染まり)得るもの、素の木・・・ん?