楠一族について、
- 正成(1294~1336)
- 正行(1325~1348)
- 正儀(1330~1391)
を「三代」とする説を見かけます。これは「南北朝(日本)」と呼ばれる、皇統の分裂が内乱に拍車をかけた時代にあって歴史の表舞台に現れた「楠」の棟梁、という考え方に依るのでしょう。
しかし、なぎらは「楠三代」を、
- 正玄(1263~1304)
- 正成(1294~1336)
- 正行(1325~1348)
と考えます。
正儀があまりにも「違う」と感じるからです。ただし、そう感じるのは彼が「父」や「兄」とは異なる生き方をしたがため、ではありません。
1代・楠正玄(くすのきまさはる)。
かなり難しい訓です。資料を探すと、
『尊卑分脈(橘氏系図)』・・・橘盛仲の子・正遠
『群書類従(楠氏系図)』・・・楠正俊の子・正康
『系図纂要(橘氏系図)』・・・楠正俊の子・正澄
「本名正遠。弘長三年生。楠五郎。刑部左衛門少尉。従五上」
『梶川系図』・・・橘盛仲の子・正玄
「四壁に楠を植う、世人呼んで楠殿と謂ふ。後に家號と爲す」
『美作玉林院橘系図』・・・楠正俊の子・正澄
「初の名は正遠、或は正玄。亀山帝弘長三年生」
『観世福田系図(伊賀上野上嶋家本)』・・・正康または正澄、正玄
「小七郎正康又名正澄玉櫛庄大領、左近左衛門入道正玄」
・・・つまるところ、ようわからんのやな、と云いたくなりますね。系図を6つ、参照しただけで名が4つも出てきました。
現代は人の名を正しい漢字で記すことが常識です。訓が同じでも漢字を誤ると失礼、とされることもしばしば。
しかし、中世はまだ音が体(たい)でした。史料でも、同一人物の名に異なる漢字が当てられています。音=名であり、音の意味が大事だったのです。
漢字を調べると、
- 遠:道のりが長い意、ひいて「とおい」「とおざかる」意を表す。①とおい。(ア)はるか。(イ)うとい(疎)。(ウ)おくぶかい。②先祖。[人の名]
- 玄:もと、細いいとの先がのぞいているさまで、かすかで見分けにくい意を表す。転じて、奥深い、「くろい」意に用いる。①くろ。くろい。(ア)黒色。(イ)赤味を帯びた黒色。(ウ)天の色。青黒色。[人の名]くろ・しず・つね・のり・はじめ・はる・はるか・ひかる・ひろ・ふか・ふかし。
- 澄:水が「すむ」(明らかになる)意を表す。①すむ(清)。(イ)空・光・音、あるいは心などがすんでいる。さえている。[人の名]きよし・きよむ・すみ・すめる・とおる。
『福武漢和辞典』(福武書店)
確かに、「初の名は正遠、或は正玄」でも筋は通ります。音が「はる」です。
彼の父として名が見えるのは、
- 楠正俊
- 橘盛仲(信貴阿門律師金剛別当)
なので、正玄は盛仲の女婿となり、「橘姓」を公称するようになったのではないでしょうか。その折に「正澄」と改名したのかもしれません。
正玄の事績はわかっておらず、
『系図纂要(橘氏系図)』
「嘉元二年三ノ四卒于鎌倉四十二」
とあります。鎌倉でいったいなにをしていたのか興味津々ですが、後世から見て正玄の果たした役割は、
- 玉櫛荘(※01)の橘氏女との婚姻
でしょう。
※01:東大阪市玉串元町、八尾市上之島町、同福万寺町付近。1305(嘉元3)年頃には年貢750石で摂関家の宇治平等院領中、最大規模の荘園。河内と大和を結ぶ奈良街道を扼する水陸交通の要衝。
後に「四条縄手合戦」(1348年)で正行の陣となる往生院(東大阪市六万寺町)は、
旧記によれば昔六万寺の一坊であったらしい。前出の如く四條畷敗戦後六万寺と共に北軍に焼かれたが、跡地に草庵が建てられていた。年を経て元和年間(1615)関白信房が再建。同時に正行の墓も修理され、正玄、正成、正行の霊牌を本堂に安置した。
『北河内の今昔100話(第70話)』(富田寅一/新風書房)
とあるように、3人を供養しています。おそらくは、今でも。
参考文献:
『門真市史』
『楠木正成のすべて』(新人物往来社)
『私本いばらき風土記』(高島好隆/「地名を守る会」茨木支部)
『高槻町全誌』
『日本系譜綜覧』(講談社学術文庫)
『八尾・柏原の歴史』(棚橋利光/松籟社)
楠木氏のことを調べている楠七郎と申します。
宜しくお願いします。
私も、正遠=正玄をずっと考えていたのですが、
尼崎市に正玄寺というのがあって、
正玄の菩提寺かなと思ったことがありました(違いましたが)。
正遠が出家して、正玄と号したのかなとも思いましたが、
この記事を読んで納得しました。
「遠」という字に、「はる(か)」とあるのは知りませんでした。
「まさはる」と読めば、正遠=正玄が見えますね。
また色々と教えてくださいませ。
初めまして。柳良諒と申します。
楠木氏に縁のある方からコメントをいただき、大変嬉しく存じます。コメントバックが遅くなり申し訳ありません。
>尼崎市に正玄寺
なぎらめも「知りたい」と思うことは人名でも地名でも手がかりにして求めましたので、このような御見当に共感を覚えます。
御サイト【南木(なぎ)】様を、実は以前から拝見しておりました。よく整理された資料、写真も交えての懇切丁寧な解説、なにより楠木一族のルーツを探求される情熱には敬服しております。
南北朝時代については、来年から調査結果をまとめて掲載する予定です。こちらこそ、どうぞよろしくお願い申し上げます。
ありがとうございました。
>縁のある方
なんの証拠も伝承もありません。
ただ220年ほどまえから楠という名字だったが判明しましたが、
氏神さんの「樟本神社」の信者だったからかなと思ったりしています。
隣接する隣村に正成山西光寺という名称は気になりますが・・・。
>共感を
ありがとうございます。
何か繋がるかなと思っていますが、なかなかヒットしませんね。
>以前から
ありがとうございます。
何度かリニューアルしましたが、なかなか整理できません。
まだ訪問できていない史跡もあって、
時間をかけてゆっくりいこうかなとも思っています。
>まとめて掲載する予定
楽しみにしています。
南北朝時代は奥が深いですね。
---追記---
1305年に、正玄・正成父子が八尾(矢尾)顕幸と戦い、正成の策で楠木勢が勝利し顕幸が臣従したという話、ご存知でしょうか?
正遠=正玄説はあるな思っているのですが、
1304年に鎌倉で没なら、八尾氏との戦いの年代が間違っているのか、
もともと無かった話か^^;
そもそも8歳か9歳の正成の策略で勝利したっていうのもねぇ。
いろいろ勝手な書き込みをいたしまして、失礼しました。
今後とも宜しくお願いします。
文章がおかしいところがいくつかありますね^^;
正成の年齢も、もう少し上ですね(;´∀`)
こんばんは。いらっしゃいませ。
>1305年に、正玄・正成父子が八尾(矢尾)顕幸と戦い、
はい。本でこのエピソードを読んだことがあります。ただし、典拠とされる史料を直接見たことがないので、
(1)正成の父として「楠」「正○」某などと名が見える
(2)ただ、正成の父、とのみ記述
のあたりを自分はわかっていません。(2)なら「この親父、誰?」(実父?養父?義父?)という可能性もあるでしょう(^^;)。あくまでも可能性ですが。
いずれにせよ、数え12歳で非凡な才能、というのは話としておもしろいですね。
>縁
血にかかわらず、「楠」にかかわる方々は「楠」と縁がある、と考えています。「惹かれる時代があるのなら、それは時代が呼んでいるのだ」と云われたこともあります。
史蹟を訪ねた時は一期一会でお話をうかがいました。
そうして辿りついたキーワードが「南木(なぎ)」だったのですが、それをサイト名にされたWEBページを発見した時はエラく驚きました。ヒット、というやつですね。
こちらこそ、これからもよろしくお願いいたします。
ありがとうございました。
>南木
先祖の村名が、南木の本なんですが、
これって、「南木」の本、って読めるやん!
っていう発想もありましたので^^
ところで、拙サイトの楠木正遠のページに、
ここの、【楠正儀】「楠三代」について考える(1)の記事をリンクしたいのですが、
よろしいですか?
さらによろしければ、
南木のリンク集で、御サイトのブログのリンクをはりたいのですが、
よろしいですか??
こんばんは!
御宅の「楠木久子(敗鏡尼)」の記事を拝見しました。楠妣庵観音寺の由来についてまとめてくださりありがとうございます。こちらにはお話を伺いに訪ねたこともあり、写真1枚1枚が懐かしいです。
>「南木」の本
そのまんまですね、「The origin of NAGI」ですね。大当たりかも・・・(^^〃)。
リンクの件、当方は問題ありませんのでお繋ぎくださいませ。現状ではあまりご満足いただけない情報量ではございますが、徐々に充実させていこうと考えております。よろしくお願い申し上げます。
リンクの件、ありがとうございます。
近日中に、させていただきます。
>楠妣庵観音寺
非理法権天の板があったり、
逆?菊水紋があったりと、見所も多いですよね。
でも、母の墓がある空間と、観音寺がある空間と空気が違うきがします。
あと、山門の下あたりも^^;
後世の人の想いで作られた空間なのかなとも思いました。
近くには楠母神社というのがありまして、
そこへは今回行きませんでしたが、
整備されていないところです。
またそこへも行ってみますね。
おはようございます。
>逆?菊水紋
これはとても興味があります。別の機会に見たことがあります。楠妣庵観音寺は静かで落ち着ける場所でした。
>楠母神社
庫裏か、どこからか「目印の樹」を教えていただいて遠望しました(^∇^)。行きでがありそうです。行かれたらまた様子をお聞かせくださいませ。
左右を逆の向きにするというのを聞いたことがあります。
>楠母(なんも)神社
跡地には以前行ったのですが、
また別の機会に行ってきますね。
もともとは、久子さまの育ったところにあったという説明をうけましたょ。