楠党が自刃した場所については、
- 摂津国楠谷(※01)
- 摂津国由女(夢野)村(※02)
などがあり、いずれも湊川神社(※03)の境内にある「楠木正成戦歿地」にほど近いところです。
※01:兵庫県兵庫区楠谷町。
※02:兵庫県兵庫区夢野町。会下山北。『天正八年摂津国花隈之城図』による。
※03:兵庫県神戸市中央区多聞通。
『梅松論』
申の終正成并弟七郎左衛門以下一所に自害する輩五十余人、討死三百余人、惣じて浜の手以下兵庫湊川にて討死する頸の数七百余人、とぞ聞こえし。是程の戦なれば、御方にも打死手負多かりけり。
『金剛寺古記(釈論第十愚草)』(文観の弟子である僧・禅恵による写しの奥書)
「楠正成以下討死」
堺市立図書館を拠点に和泉、摂津を歩いた時、なぎらはまぬけにも「楠公祭」を失念しており、下車したJR百舌鳥駅に貼られたポスターを見て、あああ、と思い出しました。
2日後にいそいそと出かけたところ、楠公タクシーは走り回っているし、菊水總本店の瓦せんべいは美味いし、楠公まみれになりました。どれだけ楠公か。なんという楠公。
正午前、足利直義軍に白兵戦を挑み、一時は敵将に肉薄した楠党。その様子について描写をひとつ、引用します。
(足利直義)「いったいどうしたのだ、わが馬・・・足を引き始めたぞ。これは、いかん」
直義の馬は鏃(やじり)を踏んでしまい、右足を傷つけてしまったのである。彼をめがけて殺到してくる楠兄弟。足利直義の命は風前の灯火。楠正成、馬を急がせ、一太刀をと、気迫をこめる。
敵方・薬師寺十郎ただ一騎、蓮池の堤(神戸市長田区)の辺から飛び出し、直義をかばう。(薬師寺十郎)「私の馬に、さあ」
(直義)「おう」薬師寺十郎は馬から下りて二尺五寸の小長刀(こなぎなた)の刃と柄の端の双方を使い、接近してくる楠軍の馬の首を叩き、胸にかかる紐を切り、立て続けに七、八人ほど馬から落とした。
その間に、大森彦七盛長が駆けつける。楠正成の太刀が、直義の身に届かんとした一瞬、チャリン・・・。正成の太刀が折れた。大森彦七盛長に受けられてしまっている。次の瞬間、その太刀を見れば、尋常の太刀にあらず。青光りする御神剣であった。「何としたこと。草薙御神剣(くさなぎのみつるぎ)ではないか。汝がなぜ・・・」
その間に、直義は馬を乗り換え、戦場から退却し、危機を脱した。
『聖徳太子の「日本が沈む日」秘書『未来記』の真相』友常貴仁/三五館
・・・いや、予測しないでしょう、さすがの正成も。そんなビックリドッキリメカが飛び出すとは。
メカは大山祇神社(※04)に伝わっていました。あるのか、本当に。
国宝 大太刀拵付 豊後友行 大森彦七奉納
(「国立公園/周遊指定地 大三島」案内より)
宝物館を訪ねてくれた知人によれば、件(くだん)の大太刀は実戦用で正成と闘った時のものと推定され、こんなもの振り回せるのだろうか・・・と感じさせるごっつい代物だそうです。
※04:愛媛県今治市大三島町。
これが熱田神宮に祀られた、八岐大蛇(やまたのおろち)の尾から出たという天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)そのものかどうか、あまり興味はありません。本物だったとしても、フォーマットされてデバイス(device)としての役目は終わっているでしょう。それよりも。
なぜ、正成は草薙御神剣に斬られた、とされたのか。
なんの隠喩か。「南木」が薙ぎ祓われるなんて、ただの洒落とは思えません。
死闘の果てに、正成は弟と刺し交(ちが)えました。
(楠公夫人(敗鏡尼)が守っていた楠家位牌)
「忠徳院大圓龍大居士 楠 河内判官 正成」
そして彼の気魄は脈々と連なって行きます。
毎年4月25日(くすのきさん)に行われる建水分神社の「餅まき」について。
これは社務所などで確かめたのではなく、あくまでもなぎらの想像にすぎないので、然るべき方から異なる由来が教示されたらそれが正しい、と考えてください。カミサマゴトですから。
「餅まき」は、五行の金気に剋つ(餅を食う)ことで木気を扶(たす)ける「咒(しゅ)」ではないでしょうか。
- 五 行:木 ⇔ 金
- 五 色:青 ⇔ 白
- 五 方:東 ⇔ 西
- 五 時:春 ⇔ 秋
- 五 味:酸 ⇔ 辛
- 十二支:寅(生)卯(旺)辰(墓) ⇔ 申(生)酉(旺)戌(墓)
- 十二月:旧一月、二月、三月 ⇔ 旧七月、八月、九月
『陰陽五行と日本の民俗』(吉野裕子/人文書院)を読むと、金気(大、白、辛、円、堅、穀類等)の象徴を用いる日本各地の風習が紹介されており、
- 餅犬(戌)
- 鳥(酉)追い
- 日光強飯式(主食は白飯、副食は生大根、山椒、蓼(たで)、唐辛子)
- 豆腐祭り(大豆⇒豆腐)
- 節分の豆撒き(煎った大豆)
- シモツカレ(煎った大豆、下ろし大根)
は迎春呪術に分類されています。つまり、木気を害する金気を殺して五行相剋の「金⇒剋⇒木」を破るわけです。
建水分神社の「餅まき」が農耕に係わる春事(はるごと)であれば、元は旧一、二月に行われていたのかもしれません。
しかし、「楠木家氏神」を祀る社で正成の生まれた日、彼が自刃した金気の始まりの申刻(15:00~17:00)に合わせて餅をまく、というのは・・・まさに「楠の再生」を願う人々の心の表れのように思えるのです。
永遠の英雄(ヒーロー)、木気の男、楠正成。
あの夏、湊川から彼が帰還することを、河内の人々は待っている。
待っている、ずっと。
参考文献:
『大阪府史』第三巻
『交野市史』
『郷土枚方の歴史』
『摂津市史』
『高槻市史』第一巻
『箕面市史』第一巻
楠家位牌(楠妣庵観音寺調査による)
『新総合国語便覧』(第一学習社/1984年02月01日 八版発行)
参照WEBページ:
【建水分神社ホームページ】