「楠三代」を、
- 正玄(1263~1304)
- 正成(1294~1336)
- 正行(1325~1348)
と仮定して、同じ頃、楠一族と係わる和田一族はなにをしていたのでしょうか。
うっかり和田(わだ)と訓じそうになりますが、資料を読むと和田(にぎた)、和田(みぎた)です。
まず「大中臣姓」和田一族。
- 和泉国大鳥郡和田郷(和田荘)を本貫とする御家人で、笠験(※01)は菱唐草
- 同族に三木、岸和田、高木など(『和田系図裏書』『和田文書』)
泉北高速鉄道には2つの地名を「・」で繋いだ珍しい駅名、「栂(とが)・美木多(みきた)」(※02)があります。
付近の美多彌(みたみ)神社は「南北朝時代には楠木正成の守護神」であり、戦国時代に兵火を被ったところを和田道讃が再建した、とか。
「にぎた」が「みぎた」に転訛したのであれば、本体は「ぎ(き)」です。それにしても「みたみ(御民)」とは・・・美称で名を伏せたのでしょうが、いかにも誇り高い由緒です。
※01:笠標。鎧につける家紋。
※02:大阪府堺市南区。
それから「橘姓」和田一族。
- 楠左兵衛尉成康の次男である太郎親遠が「和田」を号し、その女が橘四郎高遠に嫁して橘五郎正遠を産む(『群書類従(楠氏系図)』『泉州志』)
橘盛仲――――女
∥
楠正俊――――楠正玄(1263~1304)―正成(1294~1336)
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楠左兵衛尉成康―和田太郎親遠――女 女(正成妹)
∥ ∥
橘四郎高遠―――五郎正遠(????~1338)
・・・うーん。
同じ時期に橘氏と婚姻を結んだのは偶然か、よくあることだったのか、必然か。
なお、五郎正遠が正成の妹婿だというのは『興福寺実厳僧正紀』。彼の三男があの新発意顕秀(????~1348)で、
- 八尾別当顕幸の養子(『系図纂要(橘氏系図)』)
- 俗名は和田正興
という説があります。
「大中臣姓」と「橘姓」の和田一族の関係はわかりません。
感じるのは、楠一族よりも「橘姓」和田一族の方が熱いというか、士気が高く執念があるというか、楠正儀が北嚮した後もあくまで吉野方に筋を通し、どうも「その一族」はこちらが本流じゃないのか、という気がするのです。
- 和:口(音声の意)と、音を表す禾(カ:よくあう意)とで、音が調和する意を表す。
一
①やわらぐ(やはらぐ)。(ア)調和する。まるくまとまる。「用和為貴(ワをもってたっとしとなす)」[論語・学而](イ)なごむ。なごやか。おだやか。かどだたない。「温和・和気藹藹」(ウ)安らか。仲よくする。「平和・講和」
②ほどよい。過不足がない。「中和」「発而皆中節謂之和(ハッしてみなセツにあたるこれをワという)」[中庸]
③車につける鈴。「和鸞(カラン)」
④加えた数。「総和」
二
①声を合わせる。「唱和」
②他人の詩と同じ韻を用いて詩を作る。「和韻」
③調子を合わせる。「付和雷同」
④ととのう(調)。まぜ合わせる。
《国語》
①日本のこと。「大和(やまと)の国」の略。「和文」
②なぎ。海上の風波がおだやかになる状態。 - 凪:
①なぐ。風がやむ。波が静まる。
②なぎ。風波がないこと。
『福武漢和辞典』(福武書店)
おおう、とっても良い意味。
中国大陸の古代王朝・周の時代(B.C.11~3世紀頃)には歌われていた詩歌を編集したとされる『詩経』に、
『樛木』((国)風/周南)
南有樛木(南に樛木(きゅうぼく)あり)
葛藟纍之(葛藟(かつるい)、これに纍(まと)ふ)
楽只君子(楽しき君子)
福履綏之(福履(ふくり)これを綏(やす)んず)
:『字統』(白川静/平凡社)を調べてくださった知人より
という詩があります。
「樛木」は枝垂れ木のこと。
「葛」は繊維を祭祀の服に用い、木にまとう姿を祝頌の発想に用いる、とのこと。
子々孫々の繁栄を言祝(ことほ)ぐ詩で、『太平記』を読んだ人は、ああ・・・と思うかもしれません。
元弘元年八月二十七日、主上笠置へ臨幸成って、本堂を皇居となさる。(中略)少し御まどろみありける御夢に、所は紫宸殿の庭前と覚えたる地に、大きなる常磐木(ときはぎ)あり。緑の陰茂りて、南へ指したる枝、殊(こと)に栄え蔓(はびこ)れり。その下に、三公・百官位によって列座す。南へ向いたる上座に、御座の畳を高く敷き、いまだ座したる人はなし。主上、御夢心地に、たれを設けんための座席やらんと、怪しくおぼしめして立たせたまひたるところに、鬟(びんづら)結うたる童子二人、忽然として来たつて、主上の御前に跪き、涙を袖に掛けて、「一天下の間に、暫くも御身を隠さるべき所なし。ただしあの樹の陰に、南へ向へる座席あり。これ御ために設けたる玉扆(ぎょくい)にて候へば、暫くこれに御座候へ」と申して、童子は遙(はるか)の天に上り去(さん)ぬと御覧じて、御夢はやがて覚めにけり。(巻三)
『現代語訳 日本の古典13 太平記』(永井路子/学研)
で、なにかを感得した御醍醐帝が、「木に南」と書いて「楠」という武士はいないか、と楠正成を召し出すドラマティックな件(くだり)。なんだか似ていますねえ。
『太平記』のここのところの作者が『樛木』をネタにしたのか、確かめる術(すべ)はありません。しかし、この軍記物語を著すにはそれなりの教養を要したはず、『五経』くらいは押さえていたと思います。
「常磐木」は常緑樹のこと。クスノキや栂(つが)のような。
その樹(みき)から枝まで葛が繁衍(はんえん)しているわけですから、まさに一心同体です。
ただね、この葛ね、生命力が強いのはいいんですけど蔓延(はびこ)り過ぎるとコントロールが利かず、頼みとする樹を枯らしてしまうこともあるそうな。
葛は「ふぢ」とも読み、「藤」のこと。「葛藤(かっとう)」という言葉がありますが、根っこは同じのウラオモテでしょうか。
ちょっと脱線しましたが、なぎらは「楠」も「和」も「木の南」、「南木(なぎ)」のアナグラム(Anagram)ではないかと推測しています。なにしろ正成その人が、
《摂社》[南木神社]
大楠公を祀る。延元元年(1336)五月正成卿が湊川で戦死されるや、御醍醐天皇悼惜限りなく、翌二年(1337)四月御親らその像を刻ませ給い、卿と縁故深き当地に祀り、その誠忠を無窮に伝えしめ給うた。第九十七代後村上天皇より「南木明神」の神号を賜わった(※03)。
(建水分神社の参拝案内より)
なので。
ただし。単純に「ク・ス」=「ナ・ギ(キ)」とは考えていません。それがややこしい。わざとややこしくしたな?
※03:摂社の南木神社は正成湊川に戦死の後、後醍醐天皇は楠公を惜しまれ、お自ら楠公の木像を刻み、南木明神の神号を賜り、その忠誠を無窮に伝えられたという。また一説には、後村上天皇が正行に命じて、楠公の像を二軀造らせ、その一つは金剛寺に、一軀は当社に納めて永く父の冥福を祈らしめられた。また一説には、神号も同天皇より賜ったという(『千早赤阪の史跡』千早赤阪楠公史跡保存会)。
参考文献:
『楠木正成』(大谷晃一/河出書房新社)
『楠木正成のすべて』(新人物往来社)
『八尾・柏原の歴史』(棚橋利光/松籟社)
楠家位牌(楠妣庵観音寺調査による)
参照WEBページ:
【大阪百樹】
和田一族、興味深いですね^^
「なぎ」の話ですが、樹木の「梛」はいかがでしょうか?
ご神木にしている神社もありますもんね。
石清水八幡宮さんにも本殿の横にありました。
こんばんは(^∇^)。
焦点が人から樹へずれそうになったので、あえて梛(なぎ)の話を避けたのですが、わかる方にはわかるようで・・・(_ _〃)。
お導きいただきましたので、ささやかながら梛についてまとめたものを別途掲載いたします。お待ちくださいませ。
ありがとうございました。
楽しみにしております^^
>梛
楠氏の研究には、チャンネルを多くもっておくと、
何かの発見があるかな~と思っております。
あと、家紋なんですが、
「なぎ」の家紋は見るのですが、
「くすのき」の家紋を、まだ見たことが無いのです。
古代から大切に護られ、人間生活にも密接に関連している「くすのき」、
なんで、家紋でいまだ見たことがないのか、
以前から考えております^^;
こんばんは。梛についてはいずれまとめたかったので、良い機会です。ありがとうございます。
>チャンネル
仰るとおりです。チャンネルとチューニングとボリュームは大事ですね(^^〃)。
>家紋
おおお。『家紋事典』(大隈三好/金園社)をぱらぱらと捲ってみましたが、確かにありません。その観点はまったくありませんでした。憚るところがあるのでしょうか。おもしろいです。