*捏造具合がハンパないです。市丸さんが京都出身という設定がおかしいと思う方はご遠慮下さい。また、イヅルが微妙に女装っぽくなっておりますので苦手な方はご注意下さい。(汗)
*無駄に下に長いです。(泣)後編は下にあります。
月に舞う風。
それは、何かに束縛されているかのように、ひどく虚しかった。
イヅルが彼の故郷に足を伸ばしたのは、初めてのことだった。今まで躊躇っていた理由は定かではない。ただ、この地に赴くことで、彼は結局最後まで自分のものにはならないのだと実感させられるのが恐ろしくて仕方がなかったのかもしれなかった。
先程まで隣にいたはずのその人は、もう数歩先を歩いている。久々の故郷が懐かしいのか、とても穏やかな顔をしているのをイヅルが見逃すはずはない。慣れない現世の服に身を包むはずだったが、故郷に帰る時くらいは楽な格好をしたいという彼の要望により、結局はいつも着物姿だ。確かに、現世を離れた死神が、記憶を持たないはずの現世時代の故郷に帰ることを許されるというのは、滅多にない。別段、こんな特別なことがない限りは。
「市丸さん、お足元にお気を付けなさいませ。」
「ああ、ご免なあ。ついはしゃいでもうて、イヅルさん置いて来てしもた。」
―…市丸さん…―
―…イヅルさん…―
呼んでいる名はいつもと何ら変わりはしないのに、その語尾に付いたやたら他人行儀な敬称だけが、たまらなく悲しく、恐ろしかった。もしかしたらこのまま、彼の中に自分の居場所はないのではなかろうかと、激しく妄想する。
市丸ギンが現世に暮らしていた頃以外の一切の記憶を失くしたのは、風も穏やかな、晴れ晴れとした秋の昼下がりのことだった。生誕日も終えたばかりのギンは、さぞありきたりな日々に億劫になっているようでもあった。しかしイヅルは、それだからといってまさかギンが討伐隊で大事を起こすとは露程にも思ってはいなかったし、それに対する心構えなどないに等しかった。
それでも事は起こってしまったのだ。しかもこういう時に限って、イヅルはその場に居合わせなかった。それを後悔しても仕方がないと分かってはいる。例え自分がいたとしても、状況は何ら変化しなかったであろうことも。しかしギンは言った。言ったのだ。
イヅルにその知らせが届いたのは、ギンの生誕日を二人で祝うようになってから数年目の秋のことだった。丁度生誕日を終えて三日後のことだ。ギンと行動を共にした討伐隊がひどく負傷して帰還したと知らせが入った。上位席官を多く伴った隊であったのでイヅルも心配などしていなかったが、いざ負傷者が多数出たと聞くと不安になってくる。しかしその不安がまさか実際のものになろうとは、思ってもみなかった。
「市丸隊長は、部下の一人を庇われました。」
三席の落ち着いた言葉に、イヅルは瞠目する。今までギンが部下を庇ったことなどなかったが、もしかしたらギンにも部下を思う心などがあったのではないかとも思い、そのことは僅かな期待と共に嬉しく思った。
「あの方にも、部下を思うお心があったのだな。」
「いいえ、会ってみれば分かります。あの方は、部下のためにそうされたのではありません。」
一体それはどういうことかと眉をひそめれば、こちらへ、と手で向こうを促される。いささか不信に思いながらも、イヅルはそれに従った。扉の向こうには、夢にまで見た横顔がある。しなやかな体躯もそのままに、四番隊隊舎でその人は傷付いた身体を僅かに起こしていた。傍から見ればどこが悪いのか分からないようにしていたが、三席の話によると背に広い傷が残っているという。
「あァ、イヅルか。」
「市丸隊長、大層ご無理を…。」
顔をしかめるイヅルにも動じる素振りは見せない。むしろいつもよりも飄々としているようにも見えた。そのまま穏やかな表情になり、目を更に細めて言う。
「…イヅル、死なさんかったで。」
「貴方様が名も無き部下を庇われるなど、お珍しいことでございますね。」
「相変わらず口の減らん…イヅルが言うたんやないか。」
「何と?」
「『部下をもっと大事にされて下さい』とか何とか。あの子えらいイヅルが可愛がっとった子ォやないか。あの子死んだら…イヅル泣くやろ?」
「あなたがっ…貴方様を亡くす恐ろしさに比べれば、そのような…。」
くぐもるような声で、賢明にギンに伝える。それをギンは、親が子を見るような優しい表情で見つめている。まるでそれ以上は何も望まないと言っているかのようで、とても幸福な時間に思えた。
「うん、でも、泣くやろ?」
「…それは…。」
頷くしか術のないイヅルを、ギンが腕を広げて抱き締めてやる。行為の時よりもその腕は優しいとイヅルは感じた。緋色の空気が辺りを包み、まるでそこが一種の聖域であるかのように見せていた。
しかしそれが、正気であるギンが発した数少ない言葉の一つになろうとは、イヅルの知る由もなかった。
「副作用、ですか…?」
「ええ。服用させる前にお伝えした方が宜しいかと思いまして。」
ギンの背に携えられた傷は、思ったよりも深いと聞いた。それを元に戻そうと出来る限りのことはしたが、あとはもう薬を服用するしか手はないのだと卯ノ花が悲しそうに言う。服用、といえば聞こえはいいが、むしろ身体に刃を入れて治療するよりも辛いことかもしれないと言われた。イヅルはその言葉に不信感を隠せなかったが、全てを明かされるとああなるほど、という気になった。薬を服用すれば、何かしらの副作用が出る。それほどに強い薬だ、と。
「しかし、副作用といっても死ぬようなものではないのでしょう?それならば薬の意味もない。」
「それはそうですが…あなたにとっては、身を斬られるようなことかもしれませんよ。」
「構いません。私に何が起こるかは存じませんが、あの方が助かるというのならば。」
決意の固さをひとしきり語ると、卯ノ花は一つ溜息をついて薬の入った瓶を持ってきた。その後、薬についての説明を始める。イヅルは、頭の中を整理するようにして熱心に聴いていた。まるでそれ以外は何の情報も入って来ないとでもいうような素振りだった。
「この薬は、背の骨に直接作用し、骨を復元させることが出来ます。それだけ聴けば何とでもないように思えますが…約九割九分の確立で、副作用なるものを起こします。それは―…。」
卯ノ花の声が、脳に直接響いてくる。イヅルは一瞬世界の全てが終わってしまったかのような錯覚を覚えたが、必死で正気を保った。身を斬られるような、とはそういうことかと。
隊舎へと戻ったイヅルは、いつの間にかやるべき仕事を終えていたことに気が付いた。隊員もまばらになっている。隊員がイヅルへと向けた「お疲れ様でした」という声も届いてはいなかったらしい。これは悪いことをしてしまったな、と少しばかり反省した。
「…三席、悪いが今日は失礼してもいいだろうか。」
ギンのことは、三番隊の隊員全てが知り得る事実だった。しかも薬を投与する日取りは明日だ。三席はそのことも組んで、温かい目で送り出してくれた。
「どうぞ、お仕事はもう終わられておりますから。」
「ありがとう…三席。」
四番隊から三番隊へと移されたギンは、既に自室で休むことを許されていた。もう薬を服用するだけで回復出来るのだから、そうあってもおかしくはない。しかしイヅルは、記憶のあるうちに三番隊での生活を楽しむようにと言われているようにも思えた。
「市丸隊長、失礼します。」
「…イヅルか。」
ギンの自室はいつもながらに薄暗かった。時間の問題もあるが、それにしても灯りなどついてはおらず、やたらギンの青白い顔が目立つ。ぼう、と浮かび上がる白い顔に、イヅルはなぜか痛々しさを感じていた。
「…お薬の件、お聞きになられましたか。」
「当然やろ。まァ別に何てこともないなあ。ぜぇんぶ忘れてまうだけやろ?」
「あなたは…それで宜しいのですか?」
イヅルの悲痛な言葉に、ギンは柔らかく微笑んだ。いつもの飄々とした口唇を上げるような笑みではなく、はんなりとした笑みだ。それがイヅルの問いに対する答えの全てだった。忘れてしまっていいわけがない。しかし今まで通りイヅルの前に立ち続けるためには、そうするしかないのだと。
イヅルの胸が、嗚咽に鳴った。
「僕がもう少し、強ければ…。」
自分が同行していればこのようなことにはならなかったのに、と言えるほどに強い人間ならば良かった。申し訳ありませんという言葉は、既に泣き声に消えていた。
「イヅルの所為やない。」
「しかし…!」
「なァイヅル、ボクが全部忘れてもうても、イヅルはボクのこと忘れへんのやろ?」
「当たり前ではありませんか…。」
「そんならエエやん。イヅルのこと忘れてもうても、ボクは絶対お前んとこに帰ってきたるよ。」
いつもよりも穏やかな声色で話すギンは、恐ろしく脆弱で小さく見えた。あんなにも強靭で、大きな人がこんな風に見える時があるとは思えなかったが、どちらも正しく市丸 ギンであった。今のギンは、強いことを言いながらもどこかで何かに怯えている風でもあり、イヅルは流す涙の水量を強めた。
「…約束して、下さいますか?」
「勿論や。ボクの、イヅル。」
その後のことはよく覚えていない。そのまま暫く目を合わせて泣き続けたようでもあるし、唇を重ねたようでもあるし、もしかしたら交わったのかもしれない。何にしろ、何をしようとも、この日のことは誰の記憶にも残ることはないのだ。―…イヅルが覚えていない限りは。
約束をしましょう。いつか必ず、あの日に帰ると。緋色の日差しに、緩やかな空気の波がさざめいていた、あの日に還ると。
ギンが元の姿でイヅルのところへと帰って来たのは、何日か後だった。どうせ自分のことなど覚えてはいないのだからと四番隊へ行くのは控えていたが、その選択は正しかったようだ。今のギンはおそらく混乱している。彼にはもう、尸魂界に来る前の、現世の記憶しか残されていないのだから。
「三番隊…て、ここやんな?」
「市丸様、お待ち申し上げておりました。」
隊長とは呼んでやるなとの達しだった。まだギンは自分が何者であったのか理解していない。だからこそ、誰もまだ彼に隊長であったことは知らせていないらしかった。おぼろげにここがどこであるか、どのようなところであるかを説明しただけだと聞いた。何もかもが信じられない光景であったが、イヅルはあくまでも気丈な態度で接した。
「キミは?」
「申し遅れました。私は三番隊副隊長、吉良イヅルと申します。」
「お偉いさんか。そんなら様付けで呼ぶんやめてや。何やよう分からんけど、外の人皆ボクにヘコヘコ頭下げよるんよ。」
「しかし、そういうわけには…。」
「ボクも吉良さん、て呼ぶしな。様付けで呼ばれるんはどうも苦手やねん。」
「…それならば市丸さん、と。私のことはどうぞ気安くイヅルとお呼び下さい。」
「分かった。イヅルさんな。」
そういう意味で言ったのではなかったのだが、ギンは迷わず「さん」を語尾に付けて呼んだ。その二文字がどれだけ自分を傷付けているのか、ギンは知る由もない。しかし、それを訂正することでギンの立場が知れることを恐れ、あえて訂正することは出来なかった。
「…暫くごゆるりと、おくつろぎ下さいませ。隊員がよしなにどこへでもご案内致します。私は仕事を済ませて参りますので、これで。」
簡潔に言い渡すと、ギンは「またな」と言ってそれを見送った。いつもと変わらない日常にも思えるのに、イヅルを呼ぶ声だけが、その錯覚を邪魔していた。
十番隊隊舎へと続く道は、こんなにも長かっただろうかと思う。それはひとえに、今のギンの状態を最も理解出来るのは乱菊なのだと無意識に思っているからだろうか。しかし今のギンは、乱菊のことすらも覚えてはいない。そのことを、彼女と十番隊長はどう思っているのだろうか、と思った。
暫く歩くと、前方から男性が歩いて来るのが見える。もしかしたら彼も噂を聞きつけ、ギンの様子を見に来たのだろうか。彼もギンとは長い付き合いだ。何かしら思うところがあるのかもしれない。
「…三番隊に何か御用ですか?藍染隊長。」
「ああ、吉良君。奇遇だね。丁度三番隊へ行こうかと思っていたんだ。…市丸はどうだい?」
「どうもこうも…誰のことも覚えてはいらっしゃいません。」
「…そう、か。雛森君も君のことを心配していてね、様子を見て来ると約束して来たんだ。僕も、彼女が悲しむ姿を見たくはないからね。」
「そうでしたか…市丸隊長は隊舎にいらっしゃると思いますので、どうぞお会いになって下さい。」
「ああ、じゃあお言葉に甘えて…。吉良君、君はどうだい?」
「…どう、ということでもありません。大丈夫です。縋るものなら、幾らでもあります。」
幾らでも、と言ったのはただの見栄だ。本当はたった一つしかない。あの日交わした、ただ一つの約束しか、今縋るものなど何もない。
「そうか。安心したよ…身体を大事に。」
「ありがとうございます。」
藍染は、イヅルには何も残されていないと分かっていた。慈しむようにギンに大事にされてきたイヅルだからこそ、失くした代償は大きいだろう、と。藍染はギンのことを理解しているつもりだったが、何の記憶もない彼を前にして何か言葉を発することが出来るのかは自信がなかった。
ただ一筋の希望だけを胸に秘めながら、イヅルと別れた藍染は三番隊隊舎へと歩みを進めた。そういえば何の手土産もなしに、と思ったが、今のギンならばうだうだと言うこともないだろう、と気にしないことにした。
十番隊隊舎には、いつも感じられる穏やかな霊圧が見られなかった。隊舎内からはピリピリとした冷酷な空気ばかりが流され、イヅルは身を凍らせるようだった。
「失礼、します…。」
「吉良!!市丸隊長の様子はどうなの!?」
「ま、松本さん、これは一体…。」
執務室の床には、大量の書類らしきものが無造作にばら撒かれていた。乱菊は執務室の机に腰を下ろし、山のように積まれた書類の中に手を突っ込んでいる。日番谷隊長はどうしたのだろう、とイヅルが思った矢先、乱菊が口を開いた。
「…あたしだって幼馴染なんだもの。心配したのよ、これでも。仕事でもしなきゃやってられないくらいにはね。」
「はあ…日番谷隊長は?」
「今四番隊よ。あたしが随分寝てなかったから…栄養剤か…それとも睡眠薬でも貰って来るんじゃないかしら。」
冗談混じりに乱菊は言うが、それはあながち冗談にはならないかもしれなかった。十番隊長である日番谷は、その外見に反して少々過保護な面を持ち合わせている。幼馴染である桃にもそうだが、副官である乱菊には尚更だ。
「日番谷隊長のことですから、もう帰れとでも言われたんじゃありませんか?」
「まあね。帰ってもどうせ落ち着かないから…。」
「そんなに市丸隊長が心配ですか?」
イヅルが訝しげに言うと、乱菊は一瞬目を丸くしてからすぐ大きく笑みを浮かべた。それは心底喜んでいるようでもあったし、何かからかうような印象をも含んでいた。
「ふふ、家族みたいなもんだからね。アンタが妬くようなことじゃないのよ。」
「やっ…妬くだなんて、そんな!」
「妬いたでしょ?」
再び確認するように言う乱菊に、何も言わずに顔を赤らめた。それだけで彼女には伝わっているだろうと思ったからだ。乱菊はそれを面白そうに眺めていた。イヅルは間が持たなくなり、何かないかと話の種を探した挙句、記憶を失くす前のギンと話したことを語り始めた。
「あまり、面白くない話かもしれませんが…。」
言わばこれは他人の惚気話なのだ。聞いていて面白いはずがない。しかし乱菊は、穏やかな面持ちで「いいわよ、聞かせて?」と椅子に座るよう促した。それに背を押されるように、イヅルは少しずつではあるが控えめに言葉を選びながら語っていく。
一通り終わった後、イヅルはほっと息をついた。話をしている最中、何度も涙を流しそうになったが、必死に堪えて話を進めた。しかし今、また堰を切ったようにそれは流れようとしている。イヅルは再び懸命に涙を押し止めた。
しかし、泣いていたのはイヅルではなく、目の前に座っている乱菊だった。イヅルは瞠目し、どうしたのかと聞きたいと思うがそれも出来ない。乱菊は、ただ静かに真っ直ぐ目の焦点を合わせ、赤銅色の瞳を震わせて涙を流していた。その様は、もらい泣きをしてしまいそうな程に美しかった。
「幸せ、だったのねえ。ギンは…。」
乱菊は、まるで母親のような顔をしていた。成長した息子を想うような、そんな表情をしていた。時たま発されるイヅルや乱菊の声と、二人が息づく音以外には部屋の中はしんとしている。ほろほろと流れる涙の雫が、窓の外の木立の光と対比してふわりと揺れた。
「幸せでいらしたのならば、良いのですが。」
「幸せだったのよ、彼は。…ねえ、吉良。」
「はい?」
「もう一度、幸せにしてやってね…。」
「……はい……。」
頷く時には、既に目の焦点が合っていなかった。朦朧とした意識の中、白濁色の霧が目の前でゆっくりと揺れる。自分が泣いているのだと気付いたのは、随分と経ってからだった。乱菊は、それを慈しむように眺めていた。
「松本さんは今、誰かに幸せにされていますか?」
「勿論よ。今とても幸せだし…誰かを幸せに出来ていればいいとも思うわ。」
「ご心配なさらなくとも、日番谷隊長は松本さんといれば幸せですよ。」
松本さんといる時だけは、雛森君といる時と同じくらい安心なさった顔をされております。そう言うと、乱菊は、「じゃあ雛森に勝てるように頑張らないとね」と言ってさも嬉しそうにして笑った。イヅルはその様を、凄絶なまでに美しいと思った。
続きは下にあります。(ついに前項編に分けるまで長く…!汗)
*無駄に下に長いです。(泣)後編は下にあります。
月に舞う風。
それは、何かに束縛されているかのように、ひどく虚しかった。
イヅルが彼の故郷に足を伸ばしたのは、初めてのことだった。今まで躊躇っていた理由は定かではない。ただ、この地に赴くことで、彼は結局最後まで自分のものにはならないのだと実感させられるのが恐ろしくて仕方がなかったのかもしれなかった。
先程まで隣にいたはずのその人は、もう数歩先を歩いている。久々の故郷が懐かしいのか、とても穏やかな顔をしているのをイヅルが見逃すはずはない。慣れない現世の服に身を包むはずだったが、故郷に帰る時くらいは楽な格好をしたいという彼の要望により、結局はいつも着物姿だ。確かに、現世を離れた死神が、記憶を持たないはずの現世時代の故郷に帰ることを許されるというのは、滅多にない。別段、こんな特別なことがない限りは。
「市丸さん、お足元にお気を付けなさいませ。」
「ああ、ご免なあ。ついはしゃいでもうて、イヅルさん置いて来てしもた。」
―…市丸さん…―
―…イヅルさん…―
呼んでいる名はいつもと何ら変わりはしないのに、その語尾に付いたやたら他人行儀な敬称だけが、たまらなく悲しく、恐ろしかった。もしかしたらこのまま、彼の中に自分の居場所はないのではなかろうかと、激しく妄想する。
市丸ギンが現世に暮らしていた頃以外の一切の記憶を失くしたのは、風も穏やかな、晴れ晴れとした秋の昼下がりのことだった。生誕日も終えたばかりのギンは、さぞありきたりな日々に億劫になっているようでもあった。しかしイヅルは、それだからといってまさかギンが討伐隊で大事を起こすとは露程にも思ってはいなかったし、それに対する心構えなどないに等しかった。
それでも事は起こってしまったのだ。しかもこういう時に限って、イヅルはその場に居合わせなかった。それを後悔しても仕方がないと分かってはいる。例え自分がいたとしても、状況は何ら変化しなかったであろうことも。しかしギンは言った。言ったのだ。
イヅルにその知らせが届いたのは、ギンの生誕日を二人で祝うようになってから数年目の秋のことだった。丁度生誕日を終えて三日後のことだ。ギンと行動を共にした討伐隊がひどく負傷して帰還したと知らせが入った。上位席官を多く伴った隊であったのでイヅルも心配などしていなかったが、いざ負傷者が多数出たと聞くと不安になってくる。しかしその不安がまさか実際のものになろうとは、思ってもみなかった。
「市丸隊長は、部下の一人を庇われました。」
三席の落ち着いた言葉に、イヅルは瞠目する。今までギンが部下を庇ったことなどなかったが、もしかしたらギンにも部下を思う心などがあったのではないかとも思い、そのことは僅かな期待と共に嬉しく思った。
「あの方にも、部下を思うお心があったのだな。」
「いいえ、会ってみれば分かります。あの方は、部下のためにそうされたのではありません。」
一体それはどういうことかと眉をひそめれば、こちらへ、と手で向こうを促される。いささか不信に思いながらも、イヅルはそれに従った。扉の向こうには、夢にまで見た横顔がある。しなやかな体躯もそのままに、四番隊隊舎でその人は傷付いた身体を僅かに起こしていた。傍から見ればどこが悪いのか分からないようにしていたが、三席の話によると背に広い傷が残っているという。
「あァ、イヅルか。」
「市丸隊長、大層ご無理を…。」
顔をしかめるイヅルにも動じる素振りは見せない。むしろいつもよりも飄々としているようにも見えた。そのまま穏やかな表情になり、目を更に細めて言う。
「…イヅル、死なさんかったで。」
「貴方様が名も無き部下を庇われるなど、お珍しいことでございますね。」
「相変わらず口の減らん…イヅルが言うたんやないか。」
「何と?」
「『部下をもっと大事にされて下さい』とか何とか。あの子えらいイヅルが可愛がっとった子ォやないか。あの子死んだら…イヅル泣くやろ?」
「あなたがっ…貴方様を亡くす恐ろしさに比べれば、そのような…。」
くぐもるような声で、賢明にギンに伝える。それをギンは、親が子を見るような優しい表情で見つめている。まるでそれ以上は何も望まないと言っているかのようで、とても幸福な時間に思えた。
「うん、でも、泣くやろ?」
「…それは…。」
頷くしか術のないイヅルを、ギンが腕を広げて抱き締めてやる。行為の時よりもその腕は優しいとイヅルは感じた。緋色の空気が辺りを包み、まるでそこが一種の聖域であるかのように見せていた。
しかしそれが、正気であるギンが発した数少ない言葉の一つになろうとは、イヅルの知る由もなかった。
「副作用、ですか…?」
「ええ。服用させる前にお伝えした方が宜しいかと思いまして。」
ギンの背に携えられた傷は、思ったよりも深いと聞いた。それを元に戻そうと出来る限りのことはしたが、あとはもう薬を服用するしか手はないのだと卯ノ花が悲しそうに言う。服用、といえば聞こえはいいが、むしろ身体に刃を入れて治療するよりも辛いことかもしれないと言われた。イヅルはその言葉に不信感を隠せなかったが、全てを明かされるとああなるほど、という気になった。薬を服用すれば、何かしらの副作用が出る。それほどに強い薬だ、と。
「しかし、副作用といっても死ぬようなものではないのでしょう?それならば薬の意味もない。」
「それはそうですが…あなたにとっては、身を斬られるようなことかもしれませんよ。」
「構いません。私に何が起こるかは存じませんが、あの方が助かるというのならば。」
決意の固さをひとしきり語ると、卯ノ花は一つ溜息をついて薬の入った瓶を持ってきた。その後、薬についての説明を始める。イヅルは、頭の中を整理するようにして熱心に聴いていた。まるでそれ以外は何の情報も入って来ないとでもいうような素振りだった。
「この薬は、背の骨に直接作用し、骨を復元させることが出来ます。それだけ聴けば何とでもないように思えますが…約九割九分の確立で、副作用なるものを起こします。それは―…。」
卯ノ花の声が、脳に直接響いてくる。イヅルは一瞬世界の全てが終わってしまったかのような錯覚を覚えたが、必死で正気を保った。身を斬られるような、とはそういうことかと。
隊舎へと戻ったイヅルは、いつの間にかやるべき仕事を終えていたことに気が付いた。隊員もまばらになっている。隊員がイヅルへと向けた「お疲れ様でした」という声も届いてはいなかったらしい。これは悪いことをしてしまったな、と少しばかり反省した。
「…三席、悪いが今日は失礼してもいいだろうか。」
ギンのことは、三番隊の隊員全てが知り得る事実だった。しかも薬を投与する日取りは明日だ。三席はそのことも組んで、温かい目で送り出してくれた。
「どうぞ、お仕事はもう終わられておりますから。」
「ありがとう…三席。」
四番隊から三番隊へと移されたギンは、既に自室で休むことを許されていた。もう薬を服用するだけで回復出来るのだから、そうあってもおかしくはない。しかしイヅルは、記憶のあるうちに三番隊での生活を楽しむようにと言われているようにも思えた。
「市丸隊長、失礼します。」
「…イヅルか。」
ギンの自室はいつもながらに薄暗かった。時間の問題もあるが、それにしても灯りなどついてはおらず、やたらギンの青白い顔が目立つ。ぼう、と浮かび上がる白い顔に、イヅルはなぜか痛々しさを感じていた。
「…お薬の件、お聞きになられましたか。」
「当然やろ。まァ別に何てこともないなあ。ぜぇんぶ忘れてまうだけやろ?」
「あなたは…それで宜しいのですか?」
イヅルの悲痛な言葉に、ギンは柔らかく微笑んだ。いつもの飄々とした口唇を上げるような笑みではなく、はんなりとした笑みだ。それがイヅルの問いに対する答えの全てだった。忘れてしまっていいわけがない。しかし今まで通りイヅルの前に立ち続けるためには、そうするしかないのだと。
イヅルの胸が、嗚咽に鳴った。
「僕がもう少し、強ければ…。」
自分が同行していればこのようなことにはならなかったのに、と言えるほどに強い人間ならば良かった。申し訳ありませんという言葉は、既に泣き声に消えていた。
「イヅルの所為やない。」
「しかし…!」
「なァイヅル、ボクが全部忘れてもうても、イヅルはボクのこと忘れへんのやろ?」
「当たり前ではありませんか…。」
「そんならエエやん。イヅルのこと忘れてもうても、ボクは絶対お前んとこに帰ってきたるよ。」
いつもよりも穏やかな声色で話すギンは、恐ろしく脆弱で小さく見えた。あんなにも強靭で、大きな人がこんな風に見える時があるとは思えなかったが、どちらも正しく市丸 ギンであった。今のギンは、強いことを言いながらもどこかで何かに怯えている風でもあり、イヅルは流す涙の水量を強めた。
「…約束して、下さいますか?」
「勿論や。ボクの、イヅル。」
その後のことはよく覚えていない。そのまま暫く目を合わせて泣き続けたようでもあるし、唇を重ねたようでもあるし、もしかしたら交わったのかもしれない。何にしろ、何をしようとも、この日のことは誰の記憶にも残ることはないのだ。―…イヅルが覚えていない限りは。
約束をしましょう。いつか必ず、あの日に帰ると。緋色の日差しに、緩やかな空気の波がさざめいていた、あの日に還ると。
ギンが元の姿でイヅルのところへと帰って来たのは、何日か後だった。どうせ自分のことなど覚えてはいないのだからと四番隊へ行くのは控えていたが、その選択は正しかったようだ。今のギンはおそらく混乱している。彼にはもう、尸魂界に来る前の、現世の記憶しか残されていないのだから。
「三番隊…て、ここやんな?」
「市丸様、お待ち申し上げておりました。」
隊長とは呼んでやるなとの達しだった。まだギンは自分が何者であったのか理解していない。だからこそ、誰もまだ彼に隊長であったことは知らせていないらしかった。おぼろげにここがどこであるか、どのようなところであるかを説明しただけだと聞いた。何もかもが信じられない光景であったが、イヅルはあくまでも気丈な態度で接した。
「キミは?」
「申し遅れました。私は三番隊副隊長、吉良イヅルと申します。」
「お偉いさんか。そんなら様付けで呼ぶんやめてや。何やよう分からんけど、外の人皆ボクにヘコヘコ頭下げよるんよ。」
「しかし、そういうわけには…。」
「ボクも吉良さん、て呼ぶしな。様付けで呼ばれるんはどうも苦手やねん。」
「…それならば市丸さん、と。私のことはどうぞ気安くイヅルとお呼び下さい。」
「分かった。イヅルさんな。」
そういう意味で言ったのではなかったのだが、ギンは迷わず「さん」を語尾に付けて呼んだ。その二文字がどれだけ自分を傷付けているのか、ギンは知る由もない。しかし、それを訂正することでギンの立場が知れることを恐れ、あえて訂正することは出来なかった。
「…暫くごゆるりと、おくつろぎ下さいませ。隊員がよしなにどこへでもご案内致します。私は仕事を済ませて参りますので、これで。」
簡潔に言い渡すと、ギンは「またな」と言ってそれを見送った。いつもと変わらない日常にも思えるのに、イヅルを呼ぶ声だけが、その錯覚を邪魔していた。
十番隊隊舎へと続く道は、こんなにも長かっただろうかと思う。それはひとえに、今のギンの状態を最も理解出来るのは乱菊なのだと無意識に思っているからだろうか。しかし今のギンは、乱菊のことすらも覚えてはいない。そのことを、彼女と十番隊長はどう思っているのだろうか、と思った。
暫く歩くと、前方から男性が歩いて来るのが見える。もしかしたら彼も噂を聞きつけ、ギンの様子を見に来たのだろうか。彼もギンとは長い付き合いだ。何かしら思うところがあるのかもしれない。
「…三番隊に何か御用ですか?藍染隊長。」
「ああ、吉良君。奇遇だね。丁度三番隊へ行こうかと思っていたんだ。…市丸はどうだい?」
「どうもこうも…誰のことも覚えてはいらっしゃいません。」
「…そう、か。雛森君も君のことを心配していてね、様子を見て来ると約束して来たんだ。僕も、彼女が悲しむ姿を見たくはないからね。」
「そうでしたか…市丸隊長は隊舎にいらっしゃると思いますので、どうぞお会いになって下さい。」
「ああ、じゃあお言葉に甘えて…。吉良君、君はどうだい?」
「…どう、ということでもありません。大丈夫です。縋るものなら、幾らでもあります。」
幾らでも、と言ったのはただの見栄だ。本当はたった一つしかない。あの日交わした、ただ一つの約束しか、今縋るものなど何もない。
「そうか。安心したよ…身体を大事に。」
「ありがとうございます。」
藍染は、イヅルには何も残されていないと分かっていた。慈しむようにギンに大事にされてきたイヅルだからこそ、失くした代償は大きいだろう、と。藍染はギンのことを理解しているつもりだったが、何の記憶もない彼を前にして何か言葉を発することが出来るのかは自信がなかった。
ただ一筋の希望だけを胸に秘めながら、イヅルと別れた藍染は三番隊隊舎へと歩みを進めた。そういえば何の手土産もなしに、と思ったが、今のギンならばうだうだと言うこともないだろう、と気にしないことにした。
十番隊隊舎には、いつも感じられる穏やかな霊圧が見られなかった。隊舎内からはピリピリとした冷酷な空気ばかりが流され、イヅルは身を凍らせるようだった。
「失礼、します…。」
「吉良!!市丸隊長の様子はどうなの!?」
「ま、松本さん、これは一体…。」
執務室の床には、大量の書類らしきものが無造作にばら撒かれていた。乱菊は執務室の机に腰を下ろし、山のように積まれた書類の中に手を突っ込んでいる。日番谷隊長はどうしたのだろう、とイヅルが思った矢先、乱菊が口を開いた。
「…あたしだって幼馴染なんだもの。心配したのよ、これでも。仕事でもしなきゃやってられないくらいにはね。」
「はあ…日番谷隊長は?」
「今四番隊よ。あたしが随分寝てなかったから…栄養剤か…それとも睡眠薬でも貰って来るんじゃないかしら。」
冗談混じりに乱菊は言うが、それはあながち冗談にはならないかもしれなかった。十番隊長である日番谷は、その外見に反して少々過保護な面を持ち合わせている。幼馴染である桃にもそうだが、副官である乱菊には尚更だ。
「日番谷隊長のことですから、もう帰れとでも言われたんじゃありませんか?」
「まあね。帰ってもどうせ落ち着かないから…。」
「そんなに市丸隊長が心配ですか?」
イヅルが訝しげに言うと、乱菊は一瞬目を丸くしてからすぐ大きく笑みを浮かべた。それは心底喜んでいるようでもあったし、何かからかうような印象をも含んでいた。
「ふふ、家族みたいなもんだからね。アンタが妬くようなことじゃないのよ。」
「やっ…妬くだなんて、そんな!」
「妬いたでしょ?」
再び確認するように言う乱菊に、何も言わずに顔を赤らめた。それだけで彼女には伝わっているだろうと思ったからだ。乱菊はそれを面白そうに眺めていた。イヅルは間が持たなくなり、何かないかと話の種を探した挙句、記憶を失くす前のギンと話したことを語り始めた。
「あまり、面白くない話かもしれませんが…。」
言わばこれは他人の惚気話なのだ。聞いていて面白いはずがない。しかし乱菊は、穏やかな面持ちで「いいわよ、聞かせて?」と椅子に座るよう促した。それに背を押されるように、イヅルは少しずつではあるが控えめに言葉を選びながら語っていく。
一通り終わった後、イヅルはほっと息をついた。話をしている最中、何度も涙を流しそうになったが、必死に堪えて話を進めた。しかし今、また堰を切ったようにそれは流れようとしている。イヅルは再び懸命に涙を押し止めた。
しかし、泣いていたのはイヅルではなく、目の前に座っている乱菊だった。イヅルは瞠目し、どうしたのかと聞きたいと思うがそれも出来ない。乱菊は、ただ静かに真っ直ぐ目の焦点を合わせ、赤銅色の瞳を震わせて涙を流していた。その様は、もらい泣きをしてしまいそうな程に美しかった。
「幸せ、だったのねえ。ギンは…。」
乱菊は、まるで母親のような顔をしていた。成長した息子を想うような、そんな表情をしていた。時たま発されるイヅルや乱菊の声と、二人が息づく音以外には部屋の中はしんとしている。ほろほろと流れる涙の雫が、窓の外の木立の光と対比してふわりと揺れた。
「幸せでいらしたのならば、良いのですが。」
「幸せだったのよ、彼は。…ねえ、吉良。」
「はい?」
「もう一度、幸せにしてやってね…。」
「……はい……。」
頷く時には、既に目の焦点が合っていなかった。朦朧とした意識の中、白濁色の霧が目の前でゆっくりと揺れる。自分が泣いているのだと気付いたのは、随分と経ってからだった。乱菊は、それを慈しむように眺めていた。
「松本さんは今、誰かに幸せにされていますか?」
「勿論よ。今とても幸せだし…誰かを幸せに出来ていればいいとも思うわ。」
「ご心配なさらなくとも、日番谷隊長は松本さんといれば幸せですよ。」
松本さんといる時だけは、雛森君といる時と同じくらい安心なさった顔をされております。そう言うと、乱菊は、「じゃあ雛森に勝てるように頑張らないとね」と言ってさも嬉しそうにして笑った。イヅルはその様を、凄絶なまでに美しいと思った。
続きは下にあります。(ついに前項編に分けるまで長く…!汗)