大田区久が原の昭和のくらし博物館で企画展「在日のくらし ポッタリひとつで海を越えて」が開催されている。ポッタリとは風呂敷包みのことである。
2階の四畳半の和室での展示なので規模は小さいが、資料やパネルや写真が壁面いっぱい、鴨居の上まで満載されている。聞き取り調査や2年間勉強会を重ねて準備したものなので、説明パネルに充実した文章が並んでいた。とくに女性の目で見た衣食住に関する説明文は、在日の人の生活が合理的であることを理解させるものになっていた。なお写真2点は、特別に撮影許可をいただいた。
展示は「在日朝鮮人」「和服強制のなかで」「冠婚葬祭」「食生活」「ドブロク」「娯楽」「住まい」「お産」「ある在日朝鮮人家族の歴史」の9つのパートで構成されている。
もっとも印象が強かったのは「和服強制のなかで」の衣生活と「ある在日朝鮮人家族の歴史」だったので、その2つを中心に紹介する。
まず、在日の人々はなぜ海を渡ったかという「在日朝鮮人」の歴史が紹介される。ちょうどいまから100年前の1910年8月、日本は大韓帝国を植民地にした。朝鮮人は、土地調査事業で土地を失い、産米増殖計画で貧窮化し、多くの農民が仕事を求め日本に移住した。日中戦争勃発後は、労務動員計画(1939)や国民動員計画(1942)により、募集、官あっせん、徴用などの名目で朝鮮人が集められた。実態は強制連行だった。45年には在留者は230万人に上った。日本の敗戦で、半年間で170-180万人が帰国したが、生活基盤が日本にあったため留まった人が約70万人いた。これが現在の在日の始まりである。
朝鮮の民族服は、上衣が「チョゴリ」、下衣は男性は「パジ」、女性は下着の「ソクパジ」の上に「チマ」を着る。チマはスカートだが、巻きスカートであることをはじめて知った。麻や木綿製で色は白だった。
白さを保つため、洗濯は重要な家事だった。まずオンドルの熱を利用し湯で煮洗いし、洗濯棒を使って叩き洗いし、糊を付けて干し、生乾きのうちに取り入れて砧打ちする。李恢成の「砧をうつ女」という小説があったが、砧の実物をみて、こういう棒でこういうふうに使うことがわかった。針仕事も女性の重要な仕事で、麻や綿の糸を紡ぎ機を織り、服の縫製を行った。
韓国併合後、日本は当初「色服奨励、白衣退散」のスローガンを掲げる程度だったが、1920年代から在日のために各地に協和会ができ、39年に中央協和会が設置されると様相が変わった。協和会幹部は各警察の特高課内鮮係で、朝鮮人には顔写真入りの協和会手帳を持たせ本人確認の手段にした。神社参拝、日本語講習会、勤労奉仕などのほか、和服の着付け教室、和服整理保存、簡易服改造教室も行った。さらに日本式礼儀作法講習会や和食講習会まで開催した。そして民族服を着ていると切符を売らない、水鉄砲で墨をかけるといったいやがらせも行われた。創氏改名や神社参拝、日本語強制などの皇民化については知っていたが、和服・和食など朝鮮人の生活を根こそぎ否定することまでやっていたとは知らなかった。
何枚か写真が展示されていた。1920年代の兵庫県の家族写真、38年の阿寒炭鉱の家族写真では、男性と子どもはスーツや学生服だが女性は民族服を着ている。しかし40年代に入ると秋田県でも女性が和服を着た写真だった。かっぽう着姿で和食を作る講習会の写真もあった。これでは民族抹殺といわれても仕方がない。
食生活では、キムチ、モツ、ドブロクを中心に紹介していた。ドブロク用のかめのふたは木で、キムチ用のふたは金属だった。こういう調理用の道具のなかにイカ焼き器が展示されていた。イカは日本人も普通に食べるので変だなと思ったら、これは作ったのが桑名の廣本鋳造所であるところに意味があった。
廣本というのは創氏改名で付けた姓で、本名は李秀渕、1907年慶尚北道出身の在日1世である。李は24年に渡日し桑名の鋳造工場で働き、26年に忠清北道出身の朴先丹(1911年生まれ)と結婚した。しかし資力がなく、妻を呼び寄せたのは5年後の31年であった。朴先丹はポッタリひとつで海を越えた。翌年長男が誕生、その後7人の子が生まれた(ただし3人は幼児のとき死亡)。48年廣本鋳造所を設立し、ガス器具、マンホールなど家庭用品を製造販売した。5人の子どもは日本の大学を卒業し、うち1人は74年に北朝鮮に帰国した。90歳のときまで工場を経営し97年に工場を閉鎖し、92歳で亡くなった。最後まで質素な生活を続け、スッカラ(スプーン)とチョッカラ(箸)が置いてあった。還暦を祝う写真や、91歳で元気に自転車に乗っている写真が掲示されていた。妻の朴先丹が赤、白、藤色のムクゲの花を朝鮮半島のかたちに刺繍した地図も展示されていた。
ポッタリ(風呂敷包み)
住まいでは、豊島区要町や調布の集住地域の地図が掲示され、井戸、水道、便所の位置が図示されていた。調布では35戸に対し便所が2か所しかない。それはヨガン(おまる)を利用していたからだ。とても彩色が美しく、花でも生けるような壺だった。
お産のコーナーでは、産後にワカメスープを飲む習慣が紹介されていた。はじめの1週間はワカメスープだけ、その後サケ缶や牛肉を入れた。ワカメには出血を止め子宮を収縮させる成分が含まれており理にかなっているそうだ。
冠婚葬祭では、葬儀の喪服が白であることを知った。婚礼は赤、還暦では赤いチョッキを着用、女性はチマチョゴリに赤い布を付けた。赤いチョッキは日本と同じだ。
娯楽では、チャンゴが展示されていたがかなり大きいものだった。1948年犬山城でのチャンゴサークルの写真が展示されていた。また1938年4月大阪朝日会館で新協劇団が上演した「春香伝」のポスターがあった。演出・村山知義、装置・河野鷹思である。わたくしは村山が2度目に保釈された33年から3度目の検挙を受ける40年までの7年のことをまったく知らないので、そのうち新協劇団の歩みを読んでみたいと思った。
☆解説書を購入した(1000円)。200pもある立派なものだ。80歳前後の在日の方への聞き書きが多く入っている。たとえば「ドブロクづくりを始めた背景」「誰に作り方を教わったか」「ドブロクの作り方」と「売り方」、「酒粕の処理」、お産について「会津若松で日本人の産婆に頼んだケース」「一人で出産したケース」「広尾の日赤病院で出産したケース」、結婚の「経緯」「式の様子や料理」など、ディテールまで詳しく聞き取っていて史料としても貴重だ。巻末には150冊に及ぶ参考文献と多くの参考サイトの一覧まで付いている。
☆昭和のくらし博物館は、1951年に住宅金融公庫融資を受けて建築された家をそのまま使った博物館だ。建坪は18坪(約60平方メートル)で、当時使っていた生活用品がそのまま展示されている。わたしはこれで4回目の訪問になるが、2階の子ども部屋に上がりガラス窓から庭を見下ろすと、なぜかいつもホッとする。
住所:東京都大田区南久が原2-26-19
電話:03-3750-1808
開館日:火曜日~日曜日
開館時間:10:00~17:00
入館料:大人500円、高校生以下300円
2階の四畳半の和室での展示なので規模は小さいが、資料やパネルや写真が壁面いっぱい、鴨居の上まで満載されている。聞き取り調査や2年間勉強会を重ねて準備したものなので、説明パネルに充実した文章が並んでいた。とくに女性の目で見た衣食住に関する説明文は、在日の人の生活が合理的であることを理解させるものになっていた。なお写真2点は、特別に撮影許可をいただいた。
展示は「在日朝鮮人」「和服強制のなかで」「冠婚葬祭」「食生活」「ドブロク」「娯楽」「住まい」「お産」「ある在日朝鮮人家族の歴史」の9つのパートで構成されている。
もっとも印象が強かったのは「和服強制のなかで」の衣生活と「ある在日朝鮮人家族の歴史」だったので、その2つを中心に紹介する。
まず、在日の人々はなぜ海を渡ったかという「在日朝鮮人」の歴史が紹介される。ちょうどいまから100年前の1910年8月、日本は大韓帝国を植民地にした。朝鮮人は、土地調査事業で土地を失い、産米増殖計画で貧窮化し、多くの農民が仕事を求め日本に移住した。日中戦争勃発後は、労務動員計画(1939)や国民動員計画(1942)により、募集、官あっせん、徴用などの名目で朝鮮人が集められた。実態は強制連行だった。45年には在留者は230万人に上った。日本の敗戦で、半年間で170-180万人が帰国したが、生活基盤が日本にあったため留まった人が約70万人いた。これが現在の在日の始まりである。
朝鮮の民族服は、上衣が「チョゴリ」、下衣は男性は「パジ」、女性は下着の「ソクパジ」の上に「チマ」を着る。チマはスカートだが、巻きスカートであることをはじめて知った。麻や木綿製で色は白だった。
白さを保つため、洗濯は重要な家事だった。まずオンドルの熱を利用し湯で煮洗いし、洗濯棒を使って叩き洗いし、糊を付けて干し、生乾きのうちに取り入れて砧打ちする。李恢成の「砧をうつ女」という小説があったが、砧の実物をみて、こういう棒でこういうふうに使うことがわかった。針仕事も女性の重要な仕事で、麻や綿の糸を紡ぎ機を織り、服の縫製を行った。
韓国併合後、日本は当初「色服奨励、白衣退散」のスローガンを掲げる程度だったが、1920年代から在日のために各地に協和会ができ、39年に中央協和会が設置されると様相が変わった。協和会幹部は各警察の特高課内鮮係で、朝鮮人には顔写真入りの協和会手帳を持たせ本人確認の手段にした。神社参拝、日本語講習会、勤労奉仕などのほか、和服の着付け教室、和服整理保存、簡易服改造教室も行った。さらに日本式礼儀作法講習会や和食講習会まで開催した。そして民族服を着ていると切符を売らない、水鉄砲で墨をかけるといったいやがらせも行われた。創氏改名や神社参拝、日本語強制などの皇民化については知っていたが、和服・和食など朝鮮人の生活を根こそぎ否定することまでやっていたとは知らなかった。
何枚か写真が展示されていた。1920年代の兵庫県の家族写真、38年の阿寒炭鉱の家族写真では、男性と子どもはスーツや学生服だが女性は民族服を着ている。しかし40年代に入ると秋田県でも女性が和服を着た写真だった。かっぽう着姿で和食を作る講習会の写真もあった。これでは民族抹殺といわれても仕方がない。
食生活では、キムチ、モツ、ドブロクを中心に紹介していた。ドブロク用のかめのふたは木で、キムチ用のふたは金属だった。こういう調理用の道具のなかにイカ焼き器が展示されていた。イカは日本人も普通に食べるので変だなと思ったら、これは作ったのが桑名の廣本鋳造所であるところに意味があった。
廣本というのは創氏改名で付けた姓で、本名は李秀渕、1907年慶尚北道出身の在日1世である。李は24年に渡日し桑名の鋳造工場で働き、26年に忠清北道出身の朴先丹(1911年生まれ)と結婚した。しかし資力がなく、妻を呼び寄せたのは5年後の31年であった。朴先丹はポッタリひとつで海を越えた。翌年長男が誕生、その後7人の子が生まれた(ただし3人は幼児のとき死亡)。48年廣本鋳造所を設立し、ガス器具、マンホールなど家庭用品を製造販売した。5人の子どもは日本の大学を卒業し、うち1人は74年に北朝鮮に帰国した。90歳のときまで工場を経営し97年に工場を閉鎖し、92歳で亡くなった。最後まで質素な生活を続け、スッカラ(スプーン)とチョッカラ(箸)が置いてあった。還暦を祝う写真や、91歳で元気に自転車に乗っている写真が掲示されていた。妻の朴先丹が赤、白、藤色のムクゲの花を朝鮮半島のかたちに刺繍した地図も展示されていた。
ポッタリ(風呂敷包み)
住まいでは、豊島区要町や調布の集住地域の地図が掲示され、井戸、水道、便所の位置が図示されていた。調布では35戸に対し便所が2か所しかない。それはヨガン(おまる)を利用していたからだ。とても彩色が美しく、花でも生けるような壺だった。
お産のコーナーでは、産後にワカメスープを飲む習慣が紹介されていた。はじめの1週間はワカメスープだけ、その後サケ缶や牛肉を入れた。ワカメには出血を止め子宮を収縮させる成分が含まれており理にかなっているそうだ。
冠婚葬祭では、葬儀の喪服が白であることを知った。婚礼は赤、還暦では赤いチョッキを着用、女性はチマチョゴリに赤い布を付けた。赤いチョッキは日本と同じだ。
娯楽では、チャンゴが展示されていたがかなり大きいものだった。1948年犬山城でのチャンゴサークルの写真が展示されていた。また1938年4月大阪朝日会館で新協劇団が上演した「春香伝」のポスターがあった。演出・村山知義、装置・河野鷹思である。わたくしは村山が2度目に保釈された33年から3度目の検挙を受ける40年までの7年のことをまったく知らないので、そのうち新協劇団の歩みを読んでみたいと思った。
☆解説書を購入した(1000円)。200pもある立派なものだ。80歳前後の在日の方への聞き書きが多く入っている。たとえば「ドブロクづくりを始めた背景」「誰に作り方を教わったか」「ドブロクの作り方」と「売り方」、「酒粕の処理」、お産について「会津若松で日本人の産婆に頼んだケース」「一人で出産したケース」「広尾の日赤病院で出産したケース」、結婚の「経緯」「式の様子や料理」など、ディテールまで詳しく聞き取っていて史料としても貴重だ。巻末には150冊に及ぶ参考文献と多くの参考サイトの一覧まで付いている。
☆昭和のくらし博物館は、1951年に住宅金融公庫融資を受けて建築された家をそのまま使った博物館だ。建坪は18坪(約60平方メートル)で、当時使っていた生活用品がそのまま展示されている。わたしはこれで4回目の訪問になるが、2階の子ども部屋に上がりガラス窓から庭を見下ろすと、なぜかいつもホッとする。
住所:東京都大田区南久が原2-26-19
電話:03-3750-1808
開館日:火曜日~日曜日
開館時間:10:00~17:00
入館料:大人500円、高校生以下300円