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おとなも楽しめる地下鉄博物館

2024年07月05日 | 博物館など

地下鉄東西線・葛西駅の高架下に東京メトロの地下鉄博物館がある。地下鉄の高架下とは変な言い方だが、このあたりは渋谷駅などと同じく、地下でなく地上の高架上を走っている。
平日昼間に行ったので、場内は幼児を連れた母親と外国人観光客ばかり。もちろん子どもは大喜びしている。しかし、大人も十分楽しめる博物館だった。

1927年開業時のポスター(杉浦非水)
日本の地下鉄の始まり(というより東洋初らしい)は、1927(昭和2)年12月30日の上野―浅草間2.2キロの開通(現在の銀座線だった。その背景には、路面電車の混雑があり、地下鉄生みの親・早川徳次が1914年に視察したロンドンの地下鉄があった。1920年に東京地下鉄道を設立し25年工事着工の末の営業開始だった。電車は3分間隔、乗車賃10銭で運転されたが、早朝から超満員、乗客の列がえんえん続き、乗るのに1時間待ちだったという。
その後39年に渋谷まで全通したが、戦争の時代に入り1941年に帝都高速度交通営団に接収される。
戦後の1954年池袋―御茶ノ水(現在の丸の内線 池袋―荻窪全通は62年)、61年に日比谷線開通(南千住―仲御徒町 全通は64年)、64年高田馬場―九段下(現在の東西線、西船橋―中野全通は69年)、69年北千住―大手町(現在の千代田線 北綾瀬延伸の全線開通は1979年)、74年有楽町線、78年半蔵門線、91年南北線、2008年副都心線と路線網が拡大され、民営化の流れで2004年4月、営団から東京地下鉄株式会社に改組され愛称・東京メトロになった(ただし株主は国と都の2者のみの特殊法人)。
一方、1933年に大阪の梅田―心斎橋、57年名古屋の名古屋―栄町、71年札幌の北24条―真駒内、72年横浜、77年神戸、81年京都・福岡、87年仙台、2001年埼玉と大都市に地下鉄が開業していった。
そうはいっても地下鉄は大都市に限られる。館内に「日本と世界の地下鉄」という表示板があり、世界のレベルでみても(地下鉄の定義にもよるが)、アジア(インド以東)では日本、中国、インド、台湾、韓国、北朝鮮、タイ、シンガポールの8か国、アフリカはエジプトとアルジェリアのみ、南米ではベネズエラ、ブラジル、アルゼンチン、チリの4か国に限られる。都市でも中国16、アメリカ12、ロシア・スペイン・韓国各7都市などが多いほうだ。合計100都市を超えるとあったが電車に比べればずっと少ないはずだ。
東京の地下鉄は地中で複雑に交錯しているので、新しい路線ほど深いところにあることはよく知られている。たとえば銀座線や丸の内線は地下10-11mほどと浅いが、千代田線国会議事堂前駅は37.9m、大江戸線六本木駅は42.3mと4倍ほど、普通のビルでフロア高40mというと10階分に当たる。だから地図で駅からの距離を判断するとき、銀座線や丸の内線と違い、大江戸線の駅の場合には地上に出るまで5分くらい余分にみたほうがよい

日本初の地下鉄車両1001号車(正式名称モハ1000形1001号)が展示されていた。この車両はまさに1927年12月の初運行に使われた車両だ。27年11月に日本車両で製造され68年まで銀座線で使用された。2009年に経産省近代化産業遺産に指定、2017年8月に日本機械学会の機械遺産に認定、9月に国の重要文化財の指定を受けた。
車両は上野駅に停車中という想定で、ホームの壁には大相撲春場所のポスター、地下鉄ストアの「お正月用料理売出し」の宣伝看板、書店とメガネ店の広告入り座椅子があった。なにより「うへの」という旧かな表記の駅名に意表を突かれた。地下鉄開業の杉浦非水の「モダン東京」風のポスターデザインとも合わせ、昭和初期の雰囲気が再現されていた。
1960年ころの出札掛の思い出のパネルがあった。いまは地下鉄に限らず電車はほとんど自動改札・自動券売機だが、かつては改札で駅員がパンチを入れていた。駅ごとにパンチの型が異なっていたそうだ。また券売りでは小さい穴のあいたガラス越しなので、渋谷と日比谷、1枚と7枚の聞き間違いがあったそうだ。いまと違い、駅員の方は大変だった。
車掌は制服制帽に赤い腕章、ズボンのポケットから鍵をたらしていたとか、65年ごろ東西線敷設のため葛西周辺を測量した時、見渡す限りの畑で目立つ高いものは風呂屋の煙突だけ、など60年代の「三丁目の夕日」の時代のなつかしいエピソードだ。
わたしはあまり関心がないが、鉄道ファンは車両への興味が深い人が多い。メトロパノラマというミニチュア電車が東京のジオラマを走り回る。基本的に路線ごとにラインカラーと車両が異なるようだ。たとえば銀座線はオレンジで01系(2017年まで)、丸ノ内線はスカーレットで02系(2024年まで)、日比谷線はシルバーで3000系(1994年まで)といった具合だ。丸の内線の赤をスカーレットと呼ぶことを初めて知った。
1960年代に銀座線で使われていた車両が、その後銚子電鉄や日立電鉄で使われた。また1990年代まで丸の内線で使われていた車両がブエノスアイレス、70-90年代に東西線や千代田線、有楽町線で使われていた車両がインドネシアでいまも使われているそうだ。

シールドマシンのカッターディスク(はてなブログより)
技術的な展示も充実していた。たとえばトンネルを掘りる泥水式3連型シールドの解説展示があった。シールド工法とは、シールド機の先端のカッターディスクを回転させ、圧力をかけた泥水を噴射しながら掘削し、土砂はポンプなどで地上に送る。1リング(1-1.5m)堀り進むと、工場でつくったセグメントをエレクターで組み上げ、鋼鉄ボルトと注入材で地盤と固定しトンネルの壁をつくる工法だそうだ。ディスクが巨大で直径7-8mもある。3連とは、ディスクが横に3つ並び、線路往復2本分と駅のホーム部分の合計3本分の幅のトンネルをつくることができるとのこと。カッターは1分で3/4回転するそうだが、こういう方法で1日6m掘り進めトンネルをつくるそうだ。よくわからないこともあるが、地下が巨大な工事現場になっていることは理解できた。
ただ外環道工事の調布で事故を起こした大深度地下とは違う方式なのかどうか少し気になった。
つまらないことかもしれないが、かつて問題になった地下鉄はどこから車両を入れるのかという「大問題」に似た類だが、シールド機械の出し入れ場所への回答も出ていた。「発進・到達場所は作業スペースがいる」ので開口部が必要だそうだ。
なお副都心線の地形断面図模型があり、これによると渋谷は低く(海抜)25m、明治神宮の北参道では坂を上がり30mに、一度坂を下って新宿三丁目で38mの最高点まで上がる。ここから坂を下り20mの新目白通りを底に雑司ヶ谷、池袋と坂を上がり35mに達する。たしかに東京の街は坂が多いが、渋谷―池袋8.9キロのあいだに20mもの高低差とアップダウンがあるとは思わなかった。

列車を運転できるシミュレーターが何台かあった。同様のシミュレーターは鉄道博物館でもみかけたが、大人気で子どもたちがいっぱいでなかなか順番が回ってこない。それに比べれば地下鉄博物館は空いているので、試しに使わせてもらった。右手がブレーキ、左手がアクセル、アクセルにはバネがついていて手を離すと元に戻る(アクセル0に戻る)。予想していなかったが、ゲーム機とは異なり本物のトンネルは意外に左右にカーブしたり、アップダウンがあった。勾配が数字で示されるがマイナスは下りという意味だそうだ。したがって勾配がプラスならどんどんアクセルをかけ、ゼロ(平坦)になったらアクセルははずし(惰行運転)、下りになったらアクセルをゆるめる。そうしないと当たり前だがどんどんスピードが出てしまう。暗いトンネルのなかなので、なかなかアップダウンは実感しにくい。それから路面電車のつもりでスピードは20-30㎞くらいかと思ったら、最高80㎞くらいで運転している。これには驚いた。
また、駅に入ると、クルマのような感じですぐブレーキをかけたくなるが、ホームは意外に長く、あまり早くブレーキをかけすぎると停止線のずいぶん手前で止まってしまいそうになる。ただ銀座線はホームが短く、半蔵門線は長い、など路線による違いもある。指導してくださるのは、遊園地の乗り物スタッフやゲームセンターの係員などと違い、元運転手の方のようで「いったんブレーキをかけ、もう一度アクセルでスピードを上げ再びブレーキをかけると、お客さまがフラつく。一度強くブレーキをかけたあと徐々に解除して調整する」などとプロの技を教えていただき、なるほどと納得した。駅のなかでも微妙な勾配(プラス・マイナス両方ある)が付いている駅もある。ホームの長さや勾配の度合いにより、ブレーキのかけ方もそれに応じた微調整が必要だ。
子どもももちろん面白いだろうが、おとな(高齢者)でも結構楽しめた。貴重な体験だった。
ここ10年でも新駅開業や乗入れ延長は続いている。年表で最近10年くらいの時期をみると、副都心線と東急東横線・横浜みなとみらい線との相互直通運転(2013)、日比谷線虎ノ門ヒルズ駅開業(2020)、銀座線渋谷駅移転・新駅舎(2020)、南北線および副都心線が東急新横浜線・相鉄新横浜線を介して相鉄本線・いずみ野線との直通運転、などが並んでいた。
なおこの博物館は東京メトロのものなので、都営地下鉄についてはあまり出てこない。都営は浅草線(60)を皮切りに、三田線(68)、新宿線(78)、大江戸線(91)と4路線あり、営業キロ数がメトロ195㎞に対し109㎞、他の私鉄との乗入れ直通を含めるとメトロ332㎞に対し都営265㎞とだいたい3:2の一大勢力なので、都営線の博物館もあるとよいと思う。

客は幼児が多いので、おみやげ用にガシャポンが36台も並んでいた。料金は昔と違い300-500円、景品は地下鉄博物館なので当然電車関連のものが多い。電車、プラレール、コンテナ、時刻表、駅名標サインライト、きかんしゃトーマスの踏切、新幹線シューズポーチなどだ。ただイチゴフレンズ、チキンラーメン、スーパーマリオの迷路、ポケモンリングなど、いったいどんな関係があるのかハテナ?と、クイズのようなものも混じっていた(正解はたんに売上が大きいからかもしれない)。

☆地下鉄の父・早川徳次(のりつぐ)の簡単な伝記があったが、かなり波乱万丈の人生である。以下、博物館の説明とウィキペディアから紹介する。
1881(明治14)年山梨県代咲村(現在の笛吹市)生まれ、早大法科を出て後藤新平(当時・満鉄総裁)の秘書になる。鉄道の重要性を認識し政治家の道を断念、現場を経験するため新橋駅で手荷物掛や改札口に立った。1911年、東武鉄道創始者・根津嘉一郎の招きでまず佐野鉄道(現在の東武佐野線)の経営再建をわずか1年で果たし、次に高野鉄道(現在の南海高野線)の再建も手掛けた。1914年ロンドンに視察旅行に行き地下鉄の必要性に目覚め、帰国後、自身で地質・湧水量調査をしたり、銀座交差点などで交通量調査を行った。20年に東京地下鉄を設立した(この件、既述)。自身が東京地下鉄の社長になったのは1940年だったが、渋谷―銀座の東京高速鉄道を率いる後藤慶太との経営権抗争に敗れて、同年相談役に退きその後退陣する。しかし41年には営団への譲渡が決まる。早川も42年11月61歳で病死した。

いずれ、もう少し詳しく伝記を読みたくなる興味が湧く人物である。

地下鉄博物館
 住所:東京都江戸川区東葛西六丁目3番1号(高架下)
 電話:03-3878-5011
 開館日:火曜日~日曜日(臨時休館あり HPで確認) 
 開館時間:10:00~17:00
 入館料:大人 220円、中学生まで 100円

●アンダーラインの語句にはリンクを貼ってあります。


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