毛唐もすなるブログといふものを

日本男児もしてみむとてするなり

国益を騙るうつけ

2005-03-29 03:10:25 | 日本男児
若手の政治家を中心に【国益(the national interest)】という言葉が日常的に使われるようになりました。それとともに【平和】という言葉の神通力もなくなり憲法改正を討議できるようになりましたし、集団的自衛権についての議論も可能になりました。【国益】の追求が何かとてつもなく悪いことかの如く言われ、【平和】の名の下に憲法改正を言い出すことすら難しいような、ある種のマインドコントロールされていた時代からすれば、今は相当正常化されたということでしょう。

しかし、わたしは政治家はじめとする連中が【国益】という度に違和感を覚えるのです。この違和感の正体は何かと考えてみて、はたと気付きました。そうか、そういうことだったのか。

気付いてみれば何のことはない、多くの政治家やジャーナリズムが【国益】の語る場合、そこにあるのは《裸の利益追求》だからだったからなのです。これでは日本民族の共感を呼ぶことはできません。誰しも損はしたくないし儲かるなら儲かるに越したことはありません。その点は世界共通です。しかし、単なる利益損得のみで終わることを少なくとも日本民族は好まないのです。支那人、朝鮮人とは違うのです。更に言えば欧米人のように《神の意思》の名の下に自分らの利益追求を正当化することもできないのです。日本民族にはお天道様あるのみ。そう、日本民族の【国益】はお天道様とともにあるはずで、またそうでなければなりません。

戦後、占領軍のプレスコードに始まる圧政や、その延長に乗っかるサヨクによって、その顔を拝むことすら難しくなっていた我がお天道様。お天道様信者の日本常民は《隠れキリシタン》のように信仰を守ってきたとは言い難く、お天道様のことを忘れて堕落の一途。時代が移りようやく雲の切れ間からお天道様を拝めるようになってきたのに、若手政治家はその顔すら忘れて支那人や朝鮮人や毛唐みたいに【国益】を語るじゃなかった騙るうつけばかり。さて、どうしたものか(談)。