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す ず な り

なかなか辿りつけない辺鄙なブログへようこそ... メールはIDのplinkに続けて@willcom.comです

きのこの本

2006-11-24 00:05:43 | 本など
「名人が教えるきのこの採り方・食べ方」監修:瀬畑雄三、家の光協会
いったいどうしてこんなに様々な色や形になるのか、わけわからなさも魅力です。こんなに違うのにみんなきのこ。一番見たかったキヌガサタケはもちろんありましたし、たまに見かける貧弱なのがキツネタケとわかり何だかすっきりしました。童話の絵本によく出て来る可愛いのがベニテングタケ(毒きのこなので食べ方を知らない人は食べてはいけないとのこと)。イギリスの古い歌の絵本にあった気がするアミガサタケ。今は見かけない、スーパーで昔シメジとして、後にヒラタケシメジとして売られていたバンデル星人みたいなのはこれでは確認できませんでした。好きだったのに。

美しかったりユーモラスだったり、突き破って広がってささくれて粉ふいて乾いてぬめって色が変わって、それぞれが違いすぎて退屈しません。遊びが具現されているかのよう。
料理の仕方も書いてありますが、眺めて楽しいだけでも充分価値のある本です。

それにしても可愛さとは丸いもの、垂直に立つ回転対称のものに感じることが多いのをつくづく思います。球状のものは重力の影響をあまり受けないものに多い形。液体が落下する時の形です。そんな形が命のふるさとの海の中やイデアの世界を思い出させるのかどうかわかりませんが、関係ありそうな予感がします。
立つ回転対称は重さのかかり具合の効率がいい形です。魅力とは、ひとつは負担の軽さを連想させること。体力ないのに大きく重たい楽器を弾いたことと過労を重ねたことから目がいくところです。

きのうは椎茸を買いました。朝干しに出して夕方取込むと生椎茸と干椎茸の中間のすばらしくおいしいところが味わえるのですがこれは私が昔発見したことで本には載っていません。しかし今朝目を覚ますと外で車が残念な音をたてて走っていました。なんとまあ、雨。

アマガエルのヒミツ

2006-09-24 17:10:26 | 本など
 「アマガエルのヒミツ」秋山幸也・文 松橋利光・写真  山と渓谷社

 図書館で手に取って、「まっ、可愛い」。迷わず借りました。電車の中で表紙を開けて「あっ、可愛い」。扉を目にして「あら~可愛い」。口絵写真「ふふっ、可愛い」。目次をぐるりと写真が囲みます。もう言葉になりません。電車の中で声が聞こえないように、普通の表情でページをめくったつもりですが、きっとそれなりな顔をしていたことでしょう。好きなアイドルの写真集を眺める人もこんな気持ちなのかな。
 アマガエルの生態を説明した写真集ですが、写真家がどれだけアマガエルを可愛いと思っているかは一目瞭然です。
 私にとってアマガエルは子供時代の遊び相手であり、過労で失業中の話し相手、辛い時ただ指先にのってくれるだけでほっとする存在でした。そう、私はアマガエルに恩を感じているのです。アマガエルのお陰で乗り切れた苦しい時期がありました。アイドルどころじゃありません。 
 何年か前オタマジャクシが庭に置きっぱなしだった容器に孵っているのを知り、水を替えたり餌をやったりの世話をして懐いたのをきっかけに更に可愛くなりました。
 電車で眺めてから数日経ってアマガエルにかかわる記憶が、感情の部分だけ戻り、おなかを絞るようにして涙が出てきます。当時何を耐えていたのかははっきりしないまま。おそらく一種の同種療法のようなもの。可愛い写真見たついでに何か解決するわけですね、ラッキーです。そして私がアマガエルをこれほど可愛く思える理由も納得できました。

音の生態学

2006-09-21 23:41:26 | 本など
 岩宮眞一郎著  「音の生態学-音と人間のかかわり-」コロナ社

 図書館に行きそびれて、やっと行けた時にはリクエストの期限切れで棚に戻され貸し出されたらしく、またリクエスト、手にしたのは最初に申込書を出して一月以上経ってからでした。
 タイトルにしては非常に柔らかい本で、上品な茶目っ気が魅力です。
 最も印象的なのは「しずけさ」について。「しずけさ」とは音の無いことではなく、それなりな音がする状態だということが検証されています。非常に意外でした。
 「残したい福岡の音」の落選した候補という福岡市の深夜のゴミ収集車の音は私にも非常に気になるし有り難さを感じる音です。更に、「あ~っ、また出しそびれた!」という焦り又は「良かった。今回ちゃんと出せた」という安堵の音でもあります。「残したい」かというとそうでもないような。きっとうんと歳を取ってよそへ行くと聴きたい音になる可能性もあり。長年馴染んで親しみのある音です。
 数年前公団に居た頃、ゴミ収集車の音がぱたりと止むと間もなく救急車の音がしてゴミ置場付近で止まることがよくありました。よく、というのは、おそろしいことです。掴んだゴミ袋から突き出た何かが手に刺さったのでしょう。なんという危険な仕事。ひどい住民。あれ以来怖さと有難みと心配がちょっと増しました。
 文中に出て来るマリー=シェーファーの「世界の調律」は翻訳が出てすぐタイトルに惹かれて買いましたが、長年読まないままです。当時話題だったジョン・ケージの音楽にもサウンドスケープにもスケプティカルでした。
 合奏は好きなのに、その頃音楽を聴くことがどちらかというと楽しみとは反対で、街中で耳にする音楽は苦痛であり、流行中の音楽をわざわざ聴きたいとは思いませんでした。豊かなハーモニーの美しい音でもないのを聴こうとする態度が納得できませんでした。
 こんなことを書くからって私は耳がいいわけじゃありません。合奏を楽しむ為には鍛えられていますが。
 音を減らしたい。いつ頃からかそう思っていました。今も音を減らしたいつもりでいますが、そういえば鳥や蛙の歌や虫の音雨音などを楽しんでいる自分に気付くこともあります。よく感じるのは耳にピーともシーンともつかないような音が止まないことです。もしかしたら屋内に限らず外にも張り巡らされたそこらじゅうの配線から聴こえているんだろうかと不思議に思います。田舎になるほど少ない音なので。
 音楽は聴こうと思う時以外は流したくありませんでした。思考を支配するからです。自分なりの考え方をするには音楽が邪魔です。帰宅して音楽も何もないぼーっとする時間がどうしても必要でした。すると音楽を聴く時間などほとんどありません。すすんで音を楽しもうとすることも。
 昔、音楽なしでは過ごせないという人が居て、それを自慢するかのような話もよく耳にしましたが、そういう話には恐怖を感じます。自分なりの考え方をする意志や能力がないという意味に私には取れてしまうので。
 外から来る考え方を受け入れるばかりにならない、自分で考えることを促すような、音の環境。それは社会全体の問題でもあるけれど、何よりも当人と家庭の問題です。
 不思議なのは、自分ひとりしかいない時は、ぼーっとする時間以外は音が欲しくなる傾向があり、離れた部屋であっても誰か居れば人工の音を消したくなるのです。音楽はやりとりであり、存在自体がやりとりなのかも知れません。
 音楽が多分好きで楽しみたいけれどあんまり楽しめない。音楽と騒音(ピー、シーン)の無い時間が欲しい。こんな私も存在します。1人みかけたら20人居ると思え。あ、駆除しないで保護をお願いします。
 「音の生態学」は、音を愛する立場で書かれたあたたかい本でした。

「反日」以前

2006-09-16 22:12:10 | 本など
水谷尚子著 「『反日』以前  中国対日工作者たちの回想」 文藝春秋

 日中戦争中に中国で反戦活動に尽力した日本人女性や日本に留学した後に対日工作に関わった人々のインタビュー集。
 日本人捕虜の色々な職種の技能は中国で重宝されていたらしく、地域にもよるようですが、現地人よりも優遇されるなど私の知らなかった捕虜の待遇を知りました。そんな彼等と同じ場所で仕事をした日本に留学経験のある中国の人々がどんなふうであったか。戦後に元捕虜と来日した元看守が当時の派閥も関係なく和気藹々の同窓会を開いたそうですから、なるほどと思えます。日中間でお互いに恩人が存在したのは、非常にあり得ることではありますが、今頃のメディアに慣らされた状態からは思い付くことではありません。
 良くも悪くもスケールの大きい中国のこと、日本に関わったというだけで文革時代には想像を絶する惨たらしい目に遭うようなこともあったようですが、そんな中を耐え、両国に愛情を持ち続けた中国人の存在を、反日行動の報道のイメージが定着しつつある今だからこそ知ることができて良かったと思います。

「儀礼と神観念の起原」

2006-03-04 17:53:50 | 本など
「儀礼と神観念の起原 ディオニューソス神楽からナチス神話まで」
石塚正英 論創社 2005年

 神が物そのものだったというのは意外でした。古い神社などを思い出して、言われてみればそのようだなあと思えます。西洋の受売り知識詰込み教育によって物が神ならば偶像、でなければ象徴、よりしろとしか思わなかったのです。そのものと象徴の境目が非常に難しそうではあります。

 神は遠い昔、物そのものだったが、文明が進むにつれて抽象概念としての神があらわれてきた、ということでした。人間は自分の都合で神としての物を選び、それを虐待し、殺し、祀っていたが、概念や情報である神は神の都合で人間を支配する。古い時代には概念がなく、からだは意識しても頭や顔は重視されなかったようです。

 顔は個人を区別するのにまず見るほど、個人が表れる部分ですが、文明つまり情報量が極端に表れる部分でもあります。私の場合それはテレビのあまり普及してなかった頃の人の顔や当時の都会と田舎の顔の違い、古い時代の写真にある教育を受けた人とそうでない人の顔の違いなどで実感しました。古代の儀礼で仮面をつけるということは、神が変容する過渡の特徴かもしれません。

 神は時代とともに具体性を失っていきました。日常の実用から抽象へ。概念、情報へ。人間と共存するものから人間を支配するものへ。神が物だった時代には無かった、絶対的な善と悪が区別されました。物よりも情報が偉いのです。実質よりも名前やいわれが大事。物から離れて一人歩きする情報は検証を受けないまま支配力を持ち、更に力を増幅させます。そしてある時現実との食い違いが明らかになったときその神話が崩壊。

 環境保護やファシズムなど、どの立場にも価値観を持ち込まずに公正に並べて見比べる著者には好感が持てます。そして(ある意味で饒舌)ある意味で寡黙なこの本の存在自体がこれからの社会のあり方への問題定義です。

 神に限らず政治や科学技術の安全神話など、多くの崩壊を目の当たりにした人間は、物から離れずに常に検証しながら進むことを目指そうとしています。ただ、あまりにも情報が多くやりとりが高速化して追い付かず、物から離れる傾向はそのまま、検証は徹底し、検証の方法が現実から離れて一人歩きしそうでもあります。

 ここで私はまた十数年来の主張を繰り返してしまいそうです。発育に合わせた教育が大事ということを。長い歴史の中の初期に抽象概念が無かったように、子供も抽象概念なしで生きていいのです。情報処理の要領がしっかり確立されていないそんな時期に無理に押し付けると危険。具体的な検証なしにただ言葉の操作を思考と勘違いするおそれがあります。それだけに現実の観察(例えば遊びやお手伝いなどを通しての経験)は大事にするべきだと思うのです。実際に大人の世界は物と情報の乖離がもたらした弊害だらけ。おそらく発育段階の適切でない時期に適切でない情報を取り込んでしまったか検証の習慣が身に付かなかった人が多いのです。私もそういう時代の教育を受け、教育に頭の発育が追い付いてない実感がありました。

 ものづくりが重視されるなど、教育は昔より良い傾向になってきたと思えます。しかし抽象概念を扱わせる時期について配慮されているのかどうかは心配です。ここら辺も未来の神話に繋がるのですから。

「美しい演奏の科学」

2006-03-04 17:51:52 | 本など
「美しい演奏の科学  生きたリズムの表現のために」
藤原義章 春秋社 2006年

 なるほどアマチュアの指導をしていたらこういうことが書きたくなるのもよくわかると思いました。
私はプロの気持ちはよくわかりません。プロだけの世界で生きる人にはおそらくアマチュア特有の苦労はわからないだろうとよく思っていましたがもしかしたら共通するものも多いかもしれません。苦労した分意識できることがあります。ある程度の年数やっていたらそれなりに身に付くことがあります。身に付かない人もいます。身に付いてない人や年数の少ない人に、わかってもらえない場合が多いけれどわかってもらえると仮定してどう説明したらいいか。この本には自分のやっていたこととして思い当たることや、なんとなく感じていながら言葉にしたことがないことがたくさん書かれていました。だから読んで非常に納得がいきます。アマチュアの苦労が理解されているという嬉しさがあります。もちろん気付かなかったことも書かれています。

 著者はリズムを形として捉えています。時間や音量が作る形。そこらでまず図が出てきて、あら~この本はハズレだったかと思ったのですが、実は私にとって気に入らなかったのはその図だけで全体としては大当たりでした。人間の意識やからだが作る形(リズム)の、きっちり割り切れるものではない自然のあり方に沿う美しさ。その一方、幾何学的な法則にはまることで生じる美しさ。人間がどこら辺までを意識しどこら辺は意識しにくいかなどを、具体的な言葉にしてあります。そう確かに私もそれは学生時代などに考えた、という記憶があり、懐かしくなります。長く経つとそういう演奏が当たり前になって、楽譜そのままの棒読みのような演奏がどういうものだったかさえ忘れてしまいがちです。長らく棒読みに出会わなければ意識しなくなります。おそらく著者はプロの演奏も棒読みも日常に耳にしているのです。

 私は聴く人にあまり意識されない音を弾くパートだっただけに、高音パートや聴衆に全体の変化を意識させるのに楽譜通りではないやり方をすることもありました。錯覚を利用して、結果としては楽譜通りに感じさせるため。本に書いてあることが思い当たるのは嬉しいものです。身近にわかってくれる人が少ないなら尚更。
低音は音を出す動きを始めてから音が鳴り認知されるまでに時間がかかるのでその差をどう調節するか。曲の性格によってはタイミングをずらすのが重要だったりします。もしも著者が低音楽器の奏者だったらその辺りの面白さを書いたに違いないです。ダンスや民族に特有の動作や体格が影響したリズムについても盛り込んだらもっと納得し易いのにと思いました。著者はそういうことを感じ取り易い人のようですから。これだけの内容であと少し惜しいという気分。

 ずっと前から思っていますが、こんな本を読むとますます、感覚や時間について考える人は楽器を演奏するべき、複数の人と一緒に合奏するべき、できることなら低音楽器を選ぶべき、と思います。やっぱり自分が最初に馴染んだ楽器は大きいです。ものすごくたくさん教えてくれました。ほかの楽器がメインだった人はどう思うでしょう。

図書館へ

2006-03-04 17:42:14 | 本など
 仕事帰りに図書館へまっしぐら。まず新刊の棚。金曜日が最も充実しています。本屋さんの中でも自分だったらまず行かないような棚に置かれる本で、しかも本屋さんの新刊の棚にあるものとはほとんど違います。ちょっとでも関心があるような気がしたら手に取ってみて、目次が興味深そうで本文が読み易そうだったらしっかり抱きかかえます。日によってはこうして何冊も抱えてしまい、読みたかった本探しもリクエストするのも忘れて帰ります。
 CDの棚にたまに「寄贈」と書かれたものがありますが、これはまずハズレと思っていいでしょう。買うほどまではないけれどちょっとは関心あるものがたまに大アタリ。図書館がきっかけで関心を持つようになった分野もあります。
 本やCDとのこういう出会い方もいいと思います。知っている人たちの書いた本は本屋さんで買った方が手取り早いです。最近ではリクエストが殺到してなかなか読めないはずだということにしておきましょうか。実際にそうなっていそうです。新刊の棚は望む本は置いてないと思っていい、まさに掘出し物の場所。
 本が読めるほど、それも何冊も借りられるほど、うつの症状がかなり良くなりました。
 今度の引越でずっと図書館に行き易くなります。