丸善のカウンターに置いてあって無料でもらえる「學鐙」の、春号の特集は「アカデミズムの現状」です。きっと教育問題に関心ある人や内田樹さんのブログに共感する人にとっても興味深いもの。現状を知るきっかけなんて日常にそうありませんから。医療のことも書いてあります。あらゆる分野の人に読んでほしいです。アカデミズムに限らず社会全体がこれからどうなっていくかが向う側に透けて見えているような感じがあります。どうするべきかのヒントになりそうなこともありますが、この問題は根深くて、小さい子供の教育からつながっていることだし、それはまた大人の社会全体ともつながっています。このままではむこう側に見えるままになっていきそう。そうならないでより良い未来へ進むためには、やはりまずはお金を基準にすることをやめることでしょう。色々なことはこれから派生しています。これを私は二十年近く前から何度も書いているけれど、偉い人が言ってもどうにもならないことを、たいした学歴もなくたいした仕事もせず肩書もない女が辺鄙な狭いところで書いてどれほどの効果があるでしょう。しかし世の中の非常に大勢が共感したり、影響力の強い人が共感してくれたら違ってくるかもしれません。ある意味で私はこれまでそんな存在を通して世の中に影響を与えているようなのですが(いや~どれも偶然の一致さ、と考えた方がよさそうだけど)、お金基準の強さはとてつもないのです。
『正法眼蔵』を読む 存在するとはどういうことか 南直哉
どうやら今話題の本らしくて、私が読んでいる間にリクエストが入っていました。だからもう一度借りるつもりができず、返却日には図書館に行けそうになくて早めに返してしまいました。手元にありません。今回あれこれ起こって落ち着かず、じっくり読めなかったのです。流し読みするつもりがそういう本でもなし。いまどきにしては内容が密な本。これをまだ半分も読んでいないのでまた借りられるようにリクエストしてきました。
これは読み始めから惚れぼれします。誰にもよりかからず自分の脚でがっちり立つ人の正々堂々真正面を向いた責任感強い簡潔明快大胆な言い切りで私はイチコロです。本題に入る前、立場の表明みたいなこの部分で、いいぞー、もっとやれーという気分になりますが、本題の読み方に入ると、私の鈍い頭ではすぐに理解できず、時間がかかります。何度も読み返します。
おそらく物理学に詳しい人が納得して喜びそうな内容です。在ることとは相対的なこと。名前によって在るのではなく、はたらきや関係によって在る。
ニューアカブームの頃を思い出しますね。パソコン通信で私が、難しげな言葉の羅列ばっかりやる風潮は危険だと書いていたら、その文章中の単語に反応したマニア?が出てきて早速羅列を始めていました。私が書いた内容は理解されていなくて、ただきっかけになっただけでした(私も人のことは言えないよ)。単語を記憶することはできる、文章としての体裁に並べることもできる、しかしそれらのはたらきや関係を把握しない。そこに頭を使わないだけにすらすら並べられる。そういう人は今でもいっぱいいるのです。難しい言葉を使っていなくても、普通の言葉でも、それをやっているのです。似たようなことをみんな多少はやってますとも。だから経済が成り立つのでしょう。
そういうことをこの本が言いたいかっておそらくそうじゃないだろうとは思いますが、私は理解しないままただものをいうきっかけとして使いました。
言葉にするということは理解への早道だけど、理解から遠ざかる道でもあるなあと思います。言葉あるいは名前は、はたらき・関係を見えなくしてしまいます。基本的には見えるようにするためにある名前なんですけど。
どうやら今話題の本らしくて、私が読んでいる間にリクエストが入っていました。だからもう一度借りるつもりができず、返却日には図書館に行けそうになくて早めに返してしまいました。手元にありません。今回あれこれ起こって落ち着かず、じっくり読めなかったのです。流し読みするつもりがそういう本でもなし。いまどきにしては内容が密な本。これをまだ半分も読んでいないのでまた借りられるようにリクエストしてきました。
これは読み始めから惚れぼれします。誰にもよりかからず自分の脚でがっちり立つ人の正々堂々真正面を向いた責任感強い簡潔明快大胆な言い切りで私はイチコロです。本題に入る前、立場の表明みたいなこの部分で、いいぞー、もっとやれーという気分になりますが、本題の読み方に入ると、私の鈍い頭ではすぐに理解できず、時間がかかります。何度も読み返します。
おそらく物理学に詳しい人が納得して喜びそうな内容です。在ることとは相対的なこと。名前によって在るのではなく、はたらきや関係によって在る。
ニューアカブームの頃を思い出しますね。パソコン通信で私が、難しげな言葉の羅列ばっかりやる風潮は危険だと書いていたら、その文章中の単語に反応したマニア?が出てきて早速羅列を始めていました。私が書いた内容は理解されていなくて、ただきっかけになっただけでした(私も人のことは言えないよ)。単語を記憶することはできる、文章としての体裁に並べることもできる、しかしそれらのはたらきや関係を把握しない。そこに頭を使わないだけにすらすら並べられる。そういう人は今でもいっぱいいるのです。難しい言葉を使っていなくても、普通の言葉でも、それをやっているのです。似たようなことをみんな多少はやってますとも。だから経済が成り立つのでしょう。
そういうことをこの本が言いたいかっておそらくそうじゃないだろうとは思いますが、私は理解しないままただものをいうきっかけとして使いました。
言葉にするということは理解への早道だけど、理解から遠ざかる道でもあるなあと思います。言葉あるいは名前は、はたらき・関係を見えなくしてしまいます。基本的には見えるようにするためにある名前なんですけど。
大修館の「言語」という雑誌は図書館の閉館の音楽を聴きながら表紙をちらっと見るか、手に取っても目次だけ、たまにぱらっとあわただしくめくってみる程度です。部分でもじっくり読んだのは十数年ぶりかも知れません。昔のざらっとした表紙が好きだったなあと思いながら。
6月号の「バベルの呼び声」という連載の今回のタイトルは「学校教育が聴覚障害児にもたらすもの(一)」。慌ただしく目を通した時は内容がさらっと流れていきました。しかしほかに読んでないものがまだあるのにもう一度。今度は困りました。大勢の知らない人の居る中でひとりこっそり、涙をどうやって止めたらいいかわからず。
聴覚障害の人は私の身近には居なくて、どんなふうに大変なのか想像することさえなかったのですが、いちいちそれが挙げてあります。いかに理解されず配慮されず、当人がどれほど孤独で絶望的になるか。できないこと、非常に困難なことをできるはずだと決めつけられて現状を肯定的に受け入れてもらえない辛さ。それをこれほどまでわかる人が存在するのです。
6月号の「バベルの呼び声」という連載の今回のタイトルは「学校教育が聴覚障害児にもたらすもの(一)」。慌ただしく目を通した時は内容がさらっと流れていきました。しかしほかに読んでないものがまだあるのにもう一度。今度は困りました。大勢の知らない人の居る中でひとりこっそり、涙をどうやって止めたらいいかわからず。
聴覚障害の人は私の身近には居なくて、どんなふうに大変なのか想像することさえなかったのですが、いちいちそれが挙げてあります。いかに理解されず配慮されず、当人がどれほど孤独で絶望的になるか。できないこと、非常に困難なことをできるはずだと決めつけられて現状を肯定的に受け入れてもらえない辛さ。それをこれほどまでわかる人が存在するのです。
テレビは冬ごろはニュース健康番組バラエティ番組などでやたらと予防接種の必要を訴えていました。そして飲酒運転撲滅、今は温暖化対策。
テレビは何を目的にそれを訴えているのか。
予防接種については、それを受けさせるため。ほかについては、私が用事を優先したりしてじっくりとは見ていないけれど、ちょっと見ただけでも話題はじわじわと規制や監視の強化が必要と思わせる方向へ誘導されているのを感じます。
予防接種が危険であるということは、場所によってはよく言われます。そもそも流行前のインフルエンザの予防接種は型が違って効かないでしょう。なのに。
あれはどこに行ったやら、もう25年ほど前に買った本は所謂陰謀論の本でした。そこに書かれていた今後予定されていることがらというのはかなり実現しています。当時はM&Aやエイズや子供がキレるとか地球温暖化という言葉はありませんでしたが、それに相当する当時の持ち合わせの言葉で表現されていました。
だから「大量監視社会」(山本節子著)を読んで特に驚きはせず、やっぱりそうだったのかと思った程度です。まだ読みかけ。ただ、たとえばETCのように監視カメラの映像を保持するのが憲法違反というのは初めて知りました。国が憲法に違反することにしっかりかかわって推進しているのです。
私は20年くらい前に大学のアルバイトをしていて、外国とやりとりするFAXが乱れがちで、傍受されているんだろうなと感じたことはあります。
監視は個人レベルではどの程度まで進んでいるのか、不明。図書館の貸出の履歴やこのパソコンの中身まで外に漏れていても不思議とは思いません。検索の履歴がしっかりと取られているのはよくわかります。この本によれば国民総背番号制に関する個人データや場所によっては監視カメラ映像が、もしも既にアメリカに保持されていたとしても不思議ではありません。
今は監視を望む人が多いように思えます。そうなるようにメディアが誘導しています。監視カメラがあったために事件がみごとに解決します。あって良かったと思う人がほとんどでしょう。
あまりにタイミング良く存在するもの、タイミング良く起こる事件や自殺は疑うべき。技術は信じられないくらい進んでいます。ありえないと思えることだってできているらしいのです。
自分が間違ったことをしなければ問題ないと思うでしょう。規制と監視が強まった後に何が予定されているかをほとんどの人は知りません。知らない人は読んでもたいして危機感を持たないはず。みんなが知って落ち着いて対応する必要があります。そうすればきっと間に合って止められるのです。
そして、どこまでが嘘か、どこまでが本当かはわからない。多くは嘘の中に本当が、本当の中に嘘が仕込まれているし、言っている人がそれを自覚していない(私も)。何事もそういう覚悟をしておかないといけません。これが一番難しいです。
テレビは何を目的にそれを訴えているのか。
予防接種については、それを受けさせるため。ほかについては、私が用事を優先したりしてじっくりとは見ていないけれど、ちょっと見ただけでも話題はじわじわと規制や監視の強化が必要と思わせる方向へ誘導されているのを感じます。
予防接種が危険であるということは、場所によってはよく言われます。そもそも流行前のインフルエンザの予防接種は型が違って効かないでしょう。なのに。
あれはどこに行ったやら、もう25年ほど前に買った本は所謂陰謀論の本でした。そこに書かれていた今後予定されていることがらというのはかなり実現しています。当時はM&Aやエイズや子供がキレるとか地球温暖化という言葉はありませんでしたが、それに相当する当時の持ち合わせの言葉で表現されていました。
だから「大量監視社会」(山本節子著)を読んで特に驚きはせず、やっぱりそうだったのかと思った程度です。まだ読みかけ。ただ、たとえばETCのように監視カメラの映像を保持するのが憲法違反というのは初めて知りました。国が憲法に違反することにしっかりかかわって推進しているのです。
私は20年くらい前に大学のアルバイトをしていて、外国とやりとりするFAXが乱れがちで、傍受されているんだろうなと感じたことはあります。
監視は個人レベルではどの程度まで進んでいるのか、不明。図書館の貸出の履歴やこのパソコンの中身まで外に漏れていても不思議とは思いません。検索の履歴がしっかりと取られているのはよくわかります。この本によれば国民総背番号制に関する個人データや場所によっては監視カメラ映像が、もしも既にアメリカに保持されていたとしても不思議ではありません。
今は監視を望む人が多いように思えます。そうなるようにメディアが誘導しています。監視カメラがあったために事件がみごとに解決します。あって良かったと思う人がほとんどでしょう。
あまりにタイミング良く存在するもの、タイミング良く起こる事件や自殺は疑うべき。技術は信じられないくらい進んでいます。ありえないと思えることだってできているらしいのです。
自分が間違ったことをしなければ問題ないと思うでしょう。規制と監視が強まった後に何が予定されているかをほとんどの人は知りません。知らない人は読んでもたいして危機感を持たないはず。みんなが知って落ち着いて対応する必要があります。そうすればきっと間に合って止められるのです。
そして、どこまでが嘘か、どこまでが本当かはわからない。多くは嘘の中に本当が、本当の中に嘘が仕込まれているし、言っている人がそれを自覚していない(私も)。何事もそういう覚悟をしておかないといけません。これが一番難しいです。
「こんにちは~。(どさっ。)こっちは返却。(どさっ。)こっちはまた借ります」
「はーい、(ぴっ。)あ、ひとつ予約入ってますね」
返却分から先に手続きしていると、同時に借りている本のことも返却カウンターの職員さんの前の画面に表示されます。
長年図書館を利用してきて、借りていた本に次の人の予約が入っていたというのは初めてでした。
「えーっ、じゃあ返却せずにまだ読みます。今日いっぱいいいんですよね」
「はい」
「宮大工西岡常一の遺言」 山崎 佑次
法隆寺の宮大工に、後世に伝えるために語らせたことがら。惚れ込んだ人の残り少ない命を削っているかも知れない、しかし伝えなくては、という著者の使命感が控え目な中にしっかり貫かれます。
千数百年のものを扱う人は何を、どこを、いつを見ているのか。そしてその目はどう育てられたか。
現場をよく知らないプライドの高い学者に折れなければ仕事が進まない。しかしそのままを受け入れてはコンクリートは百年しかもたない。宮大工はコンクリートを受け入れながらもずっとずっと先の未来の修復ができるように造るのです。今何と言われようと。今うまくいっていなくても数百年後の宮大工に託すように。信じて人に任せる技量こそ棟梁らしさなのだと思えます。
補強に鉄を入れろと言われた部分は実は入っておらず、実は外側に見えているボルトは飾りでしかないというのです。中に鉄を入れてしまっては長くもたないので。痛快です。
ものをつくる人は観察する人。おじいさんである当時の棟梁から農業学校に行かされたのは、生活の安定のためだけでなく、観察する眼を養うことにもなりました。農業はいきものが条件に応じて展開していくさまを知ることでした。展開の結果をそれぞれふさわしい位置へ。建材も、人も。そして千数百年の木は生き続けます。
著者は今の読者のためだけではなく、もちろん数百年後に法隆寺などの寺院建築を修復する人々のために、またそういう人材を育てる人々のためにもこの本を書いたに違いありません。学者は今後の人材を期待していなかったけれど、現代の宮大工は数百年後の宮大工を信じていました。
あれこれ物色するうちに閉館になり、私は図書館の前の石に座って暗くなっていく空の下でこの本を読み、すっかり闇の中、夜間返却口にその本を入れて帰りました。次の読者さんもきっと気に入ることでしょう。
「はーい、(ぴっ。)あ、ひとつ予約入ってますね」
返却分から先に手続きしていると、同時に借りている本のことも返却カウンターの職員さんの前の画面に表示されます。
長年図書館を利用してきて、借りていた本に次の人の予約が入っていたというのは初めてでした。
「えーっ、じゃあ返却せずにまだ読みます。今日いっぱいいいんですよね」
「はい」
「宮大工西岡常一の遺言」 山崎 佑次
法隆寺の宮大工に、後世に伝えるために語らせたことがら。惚れ込んだ人の残り少ない命を削っているかも知れない、しかし伝えなくては、という著者の使命感が控え目な中にしっかり貫かれます。
千数百年のものを扱う人は何を、どこを、いつを見ているのか。そしてその目はどう育てられたか。
現場をよく知らないプライドの高い学者に折れなければ仕事が進まない。しかしそのままを受け入れてはコンクリートは百年しかもたない。宮大工はコンクリートを受け入れながらもずっとずっと先の未来の修復ができるように造るのです。今何と言われようと。今うまくいっていなくても数百年後の宮大工に託すように。信じて人に任せる技量こそ棟梁らしさなのだと思えます。
補強に鉄を入れろと言われた部分は実は入っておらず、実は外側に見えているボルトは飾りでしかないというのです。中に鉄を入れてしまっては長くもたないので。痛快です。
ものをつくる人は観察する人。おじいさんである当時の棟梁から農業学校に行かされたのは、生活の安定のためだけでなく、観察する眼を養うことにもなりました。農業はいきものが条件に応じて展開していくさまを知ることでした。展開の結果をそれぞれふさわしい位置へ。建材も、人も。そして千数百年の木は生き続けます。
著者は今の読者のためだけではなく、もちろん数百年後に法隆寺などの寺院建築を修復する人々のために、またそういう人材を育てる人々のためにもこの本を書いたに違いありません。学者は今後の人材を期待していなかったけれど、現代の宮大工は数百年後の宮大工を信じていました。
あれこれ物色するうちに閉館になり、私は図書館の前の石に座って暗くなっていく空の下でこの本を読み、すっかり闇の中、夜間返却口にその本を入れて帰りました。次の読者さんもきっと気に入ることでしょう。
誰でもできる手づくり酢
永田十蔵著 農山漁村文化協会
理論なんてどうでもいいから最初にまず柿酢を作らせるのがこの本。読んでいても、臨場感が心地よくて、酢造りがすんなり入ってきます。素晴らしい導入。
かなり専門的なことまで細かく、可能な限り網羅して書いてありますが、それは後から。まずはとっつき易く、そして読者が奥の深い世界へ最大限に安全に入って行きやすいように至れり尽くせりの案内です。
読み終わる頃には著者の旺盛な好奇心探究心、柔軟な考え方、謙虚な心に惚れこんでしまうのです。
だからって私は酢を作る予定など今のところ、なし。「巣」の本についで、通勤電車内では酢の本。読んで良かった。
永田十蔵著 農山漁村文化協会
理論なんてどうでもいいから最初にまず柿酢を作らせるのがこの本。読んでいても、臨場感が心地よくて、酢造りがすんなり入ってきます。素晴らしい導入。
かなり専門的なことまで細かく、可能な限り網羅して書いてありますが、それは後から。まずはとっつき易く、そして読者が奥の深い世界へ最大限に安全に入って行きやすいように至れり尽くせりの案内です。
読み終わる頃には著者の旺盛な好奇心探究心、柔軟な考え方、謙虚な心に惚れこんでしまうのです。
だからって私は酢を作る予定など今のところ、なし。「巣」の本についで、通勤電車内では酢の本。読んで良かった。
クモの網 INAX BOOKLET
蜘蛛の網の、写真集と言えるんだと思いますが、美しさを見せるだけでなく、図鑑的にできるだけ多くの種類を紹介してあります。先週頃図書館でひととおり眺めましたので今手元にはありません。
しかし自然のものは、人間が作り出す芸術作品よりも力が抜けていて、見て楽です。人間は何かを美しく作ろうとすると意志がそれに表れてしまいがちなので、しばしば息がつまりそうになります。また、機械が自動的にものを作る時は単純な規則に従います。それはしばしば状況を無視してでも規則を優先しがちです。自然から離れて生きる人間もそれに近く、現状が見えなくて、現状に合わなくても言葉で頭に入れたするべきことをするだけです。
蜘蛛の作った巣は、人間がこめてしまいがちな力は抜けていて、コンパクトに記憶か何かに収めた規則の柔軟で力強いこと。ノイマン型以外がどういう仕組みなのか知りませんが(ノイマン型だってよくわかってないくせに~)、今時のコンピュータと私みたいな人間にはどうしてもできない臨機応変な規則の守り方はいったいどういうものでしょう。
よく私が言うのは、美は省エネということ。無駄な力を使わないものは美しいのです。たまたまそこにある条件を活かし、最大限にポテンシャルエネルギーを使う。考える必要のないものは考えない(考えるか考えないかはどうやって判断?)。規則には従うけれど、柔軟に状況に応じて変更もする。
たいして頭脳など持たない生き物や自然現象のつくるものを、人間は芸術などを手段にして知らず知らず目指しています。目指すものが何なのか、蜘蛛の巣が教えてくれていそうです。私はそれが語りかけている言葉を知らないだけ。しかし何かが伝わってきます。
蜘蛛の網の、写真集と言えるんだと思いますが、美しさを見せるだけでなく、図鑑的にできるだけ多くの種類を紹介してあります。先週頃図書館でひととおり眺めましたので今手元にはありません。
しかし自然のものは、人間が作り出す芸術作品よりも力が抜けていて、見て楽です。人間は何かを美しく作ろうとすると意志がそれに表れてしまいがちなので、しばしば息がつまりそうになります。また、機械が自動的にものを作る時は単純な規則に従います。それはしばしば状況を無視してでも規則を優先しがちです。自然から離れて生きる人間もそれに近く、現状が見えなくて、現状に合わなくても言葉で頭に入れたするべきことをするだけです。
蜘蛛の作った巣は、人間がこめてしまいがちな力は抜けていて、コンパクトに記憶か何かに収めた規則の柔軟で力強いこと。ノイマン型以外がどういう仕組みなのか知りませんが(ノイマン型だってよくわかってないくせに~)、今時のコンピュータと私みたいな人間にはどうしてもできない臨機応変な規則の守り方はいったいどういうものでしょう。
よく私が言うのは、美は省エネということ。無駄な力を使わないものは美しいのです。たまたまそこにある条件を活かし、最大限にポテンシャルエネルギーを使う。考える必要のないものは考えない(考えるか考えないかはどうやって判断?)。規則には従うけれど、柔軟に状況に応じて変更もする。
たいして頭脳など持たない生き物や自然現象のつくるものを、人間は芸術などを手段にして知らず知らず目指しています。目指すものが何なのか、蜘蛛の巣が教えてくれていそうです。私はそれが語りかけている言葉を知らないだけ。しかし何かが伝わってきます。
本屋さんで無料で貰える出版社のPR誌では東京大学出版会の「UP」が一番好きです。UNIVERSITY PRESSの略ですが、あんまり大学のにおいがしないところがいいです。
手にして最初に読むのが「すずしろ日記」という漫画。雑に簡単に少ない線で、ここまで的確に描写された漫画は知りません。3月号はこれまでになく共感する内容でした。携帯電話などの文明の利器を使う便利さとどことなく感じる喪失感のような、はっきりつかみきれないものを非常に具体的に描写されています。最小限の資源で最大限をつくる、やはり作者は芸術家です。
今回「質的心理学はなにをめざすか」という座談会の記録が載っています。質的心理学なんていう文字列を初めて目にしました。新しい分野ができたわけではなく、昔からやってきたことにやっと光が当たるみたいなことを話しておられます。かつては主観を排除しなければならなかったけれど、つきつめていけば主観なしにはやっていけない、どうしても観察者と対象の相互作用はある、それが認められるようになってきた。人間を生きた生身の人間として扱うことが認められる時代になったようだと思えました。「質」を意識するいまどきの傾向についてはきっと茂木おやぶんの働きが大きいのです。心理学はあまりにも幅があって、原始的な知覚から社会的な複雑な心まで扱うのでその端と端はまるで違う学問のようです。この座談会で話される内容から、また、その人々の出版物のタイトルから、質的心理学は社会的な部分を扱うところのようにみえます。
北岡明佳さんの錯視に関する連載が終わって残念でしたが、それに続くのは惹きつける文章を書く福岡伸一さん。やはり楽しみです。
手にして最初に読むのが「すずしろ日記」という漫画。雑に簡単に少ない線で、ここまで的確に描写された漫画は知りません。3月号はこれまでになく共感する内容でした。携帯電話などの文明の利器を使う便利さとどことなく感じる喪失感のような、はっきりつかみきれないものを非常に具体的に描写されています。最小限の資源で最大限をつくる、やはり作者は芸術家です。
今回「質的心理学はなにをめざすか」という座談会の記録が載っています。質的心理学なんていう文字列を初めて目にしました。新しい分野ができたわけではなく、昔からやってきたことにやっと光が当たるみたいなことを話しておられます。かつては主観を排除しなければならなかったけれど、つきつめていけば主観なしにはやっていけない、どうしても観察者と対象の相互作用はある、それが認められるようになってきた。人間を生きた生身の人間として扱うことが認められる時代になったようだと思えました。「質」を意識するいまどきの傾向についてはきっと茂木おやぶんの働きが大きいのです。心理学はあまりにも幅があって、原始的な知覚から社会的な複雑な心まで扱うのでその端と端はまるで違う学問のようです。この座談会で話される内容から、また、その人々の出版物のタイトルから、質的心理学は社会的な部分を扱うところのようにみえます。
北岡明佳さんの錯視に関する連載が終わって残念でしたが、それに続くのは惹きつける文章を書く福岡伸一さん。やはり楽しみです。
松沢哲郎著 チンパンジーから見た世界 東京大学出版会
アイというチンパンジーの名前はかなり前から知っていましたが、AIプロジェクトではどんなことがされているのかはずっとわからず、想像もできませんでした。
この本はチンパンジーと人間は非常に近い生き物であるということがわかったという報告のようなものです。行間のあちこちにチンパンジーへの愛情と敬意。そして、ね、こんなことしたんですよ、可愛いでしょ、というふうな、人に言わずにはいられない気持ち、そっけないアイへの片思いというわけでもないけれど微妙な感じがよく伝わってきます。
一般的にチンパンジーは動物であり、数える時は1頭2頭ですが、ここではひとりふたり3人。行われていることは実験とは書かれません。そして一切強要がなく、何事もチンパンジーの意思でされるように巧みに誘導され、そのうちに報酬なしで学習を楽しむようになってしまったそうです。強要はないけれど、操っているのは事実。でも最大限の配慮と愛情があります。比較対象として彼らと同じ学習をしたのはほとんどが大学院生です。
チンパンジーの認知の特徴で人間と違うのに、逆さになったものでもきちんと把握できるというのがあります。それは環境によるのだろうとのこと。樹にぶら下がって逆さになることが日常によくあるから。これで思い出したのは、私の経験です。昔、家庭教師をするうちに、向かい合った相手が読めるような逆さの字が書けるようになりました。そうすると、何故か裏返しの字も楽々書けるようになりました。あるイベントのうちあげで向かい合った人にその時の話題に上った言葉の漢字を空中に書いて見せ、相手はただ普通に納得していましたが、そばでひとり、次の瞬間にぎょっとしていたのはアナウンサーでした。映像に関係ない、ラジオ専門の人だったと思います。私は家庭教師をしなかったら逆さや裏返しを書けるようになったかどうか。なった可能性は高いでしょうね。普通はそんな条件でも書こうとさえしないから。
日本語は人と動物の数え方、そしてそれらと植物や無生物の存在の言い方がはっきり区別されています。これは日本人の感覚や価値観に影響を与えるでしょうか。科学者が「原子がある」と言わずに「原子がいる」と言う時(原子っていうところが古い記憶らしいとこですね)、それまで冷たく死んでいた宇宙が生命と愛情に満ちあふれるように思えてきます。
猫を飼っていると、自分と同じような生き物に思えてくることがありますが、チンパンジーはその比ではないでしょう。著者にとってはほとんど人間なのです。
もうかなり昔になりますが、京都大学でのオランウータンの研究の様子をテレビで観ました。最後の場面は路上でオランウータンが手を伸ばし、白衣の人が当たり前のようにその手を取る様子。そのしあわせな様子といったらありませんでした。涙が出ました。あの先生はオランウータンが死んだらどうなってしまうんだろうと思ったのです。その方がこの著者かどうかはわかりません。
アイというチンパンジーの名前はかなり前から知っていましたが、AIプロジェクトではどんなことがされているのかはずっとわからず、想像もできませんでした。
この本はチンパンジーと人間は非常に近い生き物であるということがわかったという報告のようなものです。行間のあちこちにチンパンジーへの愛情と敬意。そして、ね、こんなことしたんですよ、可愛いでしょ、というふうな、人に言わずにはいられない気持ち、そっけないアイへの片思いというわけでもないけれど微妙な感じがよく伝わってきます。
一般的にチンパンジーは動物であり、数える時は1頭2頭ですが、ここではひとりふたり3人。行われていることは実験とは書かれません。そして一切強要がなく、何事もチンパンジーの意思でされるように巧みに誘導され、そのうちに報酬なしで学習を楽しむようになってしまったそうです。強要はないけれど、操っているのは事実。でも最大限の配慮と愛情があります。比較対象として彼らと同じ学習をしたのはほとんどが大学院生です。
チンパンジーの認知の特徴で人間と違うのに、逆さになったものでもきちんと把握できるというのがあります。それは環境によるのだろうとのこと。樹にぶら下がって逆さになることが日常によくあるから。これで思い出したのは、私の経験です。昔、家庭教師をするうちに、向かい合った相手が読めるような逆さの字が書けるようになりました。そうすると、何故か裏返しの字も楽々書けるようになりました。あるイベントのうちあげで向かい合った人にその時の話題に上った言葉の漢字を空中に書いて見せ、相手はただ普通に納得していましたが、そばでひとり、次の瞬間にぎょっとしていたのはアナウンサーでした。映像に関係ない、ラジオ専門の人だったと思います。私は家庭教師をしなかったら逆さや裏返しを書けるようになったかどうか。なった可能性は高いでしょうね。普通はそんな条件でも書こうとさえしないから。
日本語は人と動物の数え方、そしてそれらと植物や無生物の存在の言い方がはっきり区別されています。これは日本人の感覚や価値観に影響を与えるでしょうか。科学者が「原子がある」と言わずに「原子がいる」と言う時(原子っていうところが古い記憶らしいとこですね)、それまで冷たく死んでいた宇宙が生命と愛情に満ちあふれるように思えてきます。
猫を飼っていると、自分と同じような生き物に思えてくることがありますが、チンパンジーはその比ではないでしょう。著者にとってはほとんど人間なのです。
もうかなり昔になりますが、京都大学でのオランウータンの研究の様子をテレビで観ました。最後の場面は路上でオランウータンが手を伸ばし、白衣の人が当たり前のようにその手を取る様子。そのしあわせな様子といったらありませんでした。涙が出ました。あの先生はオランウータンが死んだらどうなってしまうんだろうと思ったのです。その方がこの著者かどうかはわかりません。
平島達司著
ゼロ・ビートの再発見 技法篇
-「古典音律」の解釈と実践のテクニック- (復刻版)
株式会社ショパン
音程は本来相対的なものだから、合う音で決めて演奏していれば、食い違いが出てくることがあります。どの程度妥協して食い違いをどこらへんに押しやるかが調律の問題なんだろうと思いますが、私はどの程度わかっているのかいないのか不明です。
この本は調律の仕方にどういう種類があり、どういう手順で音を決定していくのかを説明した本です。具体的に周波数やセント値を挙げてあるので壮観。なんだかわくわくします。
昔マウスも無い時代のBASICでは周波数を指定して音を出して遊べました。同時に複数の音は出せませんでしたが。今はそんなコマンドは無いようです。音声ファイルを作って再生するしかありません。音声ファイルの作り方がわかればいいのです。この本にある周波数を使っていずれ何かをほったらかしてでもやらなくては。と言いながらこれは図書館で借りてきて返却してしまいました。買うかどうか迷います。
平均律が考案される前にどうやって鍵盤楽器の音程を決めていたかなど思いもよりませんでしたが、なんとまあ有難いめぐり合わせで、私は弦楽器を長らく扱ったおかげで、何もしなかったよりははるかに理解できるのです。弦の長さと押さえる位置をいつも目にしていたことも、調弦で複数の近い音が重なってできる唸りを聴いていたことも、今のこの時のためでもあったのです。
調弦はいつも許容範囲内の妥協でした。「これでよし」と断言できたことがなく、「これでいいことにしておこう」がいつもの私のセリフでした。自分の楽器の癖は自分が一番知っています。どこをきっちり合わせるとどこが違ってくるか。しかし実はある程度は癖、ある程度は癖ではありませんでした。美しい法則に従っているように見せておいて、実は割り切れないのが音楽。それがこの世の現実。もしかしたら発展する生命のもと。それを受け入れて、やはり聴かせどころで活躍する音を優先しないと。鍵盤楽器の調律もどうやらそういうもののようです。
フレットがあっても可能な範囲で指の圧力を変えたり横に引っ張ったりして音の高さをわずかなら融通できましたが、本当に気持ちだけ。満足のいく程度ではありませんでした。高くする方が簡単ですが、それは演奏中に調弦が狂って合わせられない時くらい。低くしたい場合がほとんどです。メロディーは気にならないのに長く伸ばす和音でよく高すぎる自分の音に悩んでいたのは、低音を受け持つ私がピタゴラス的なハーモニーを作ろうとしていたのだと今ごろ納得しています。
ゼロ・ビートの再発見 技法篇
-「古典音律」の解釈と実践のテクニック- (復刻版)
株式会社ショパン
音程は本来相対的なものだから、合う音で決めて演奏していれば、食い違いが出てくることがあります。どの程度妥協して食い違いをどこらへんに押しやるかが調律の問題なんだろうと思いますが、私はどの程度わかっているのかいないのか不明です。
この本は調律の仕方にどういう種類があり、どういう手順で音を決定していくのかを説明した本です。具体的に周波数やセント値を挙げてあるので壮観。なんだかわくわくします。
昔マウスも無い時代のBASICでは周波数を指定して音を出して遊べました。同時に複数の音は出せませんでしたが。今はそんなコマンドは無いようです。音声ファイルを作って再生するしかありません。音声ファイルの作り方がわかればいいのです。この本にある周波数を使っていずれ何かをほったらかしてでもやらなくては。と言いながらこれは図書館で借りてきて返却してしまいました。買うかどうか迷います。
平均律が考案される前にどうやって鍵盤楽器の音程を決めていたかなど思いもよりませんでしたが、なんとまあ有難いめぐり合わせで、私は弦楽器を長らく扱ったおかげで、何もしなかったよりははるかに理解できるのです。弦の長さと押さえる位置をいつも目にしていたことも、調弦で複数の近い音が重なってできる唸りを聴いていたことも、今のこの時のためでもあったのです。
調弦はいつも許容範囲内の妥協でした。「これでよし」と断言できたことがなく、「これでいいことにしておこう」がいつもの私のセリフでした。自分の楽器の癖は自分が一番知っています。どこをきっちり合わせるとどこが違ってくるか。しかし実はある程度は癖、ある程度は癖ではありませんでした。美しい法則に従っているように見せておいて、実は割り切れないのが音楽。それがこの世の現実。もしかしたら発展する生命のもと。それを受け入れて、やはり聴かせどころで活躍する音を優先しないと。鍵盤楽器の調律もどうやらそういうもののようです。
フレットがあっても可能な範囲で指の圧力を変えたり横に引っ張ったりして音の高さをわずかなら融通できましたが、本当に気持ちだけ。満足のいく程度ではありませんでした。高くする方が簡単ですが、それは演奏中に調弦が狂って合わせられない時くらい。低くしたい場合がほとんどです。メロディーは気にならないのに長く伸ばす和音でよく高すぎる自分の音に悩んでいたのは、低音を受け持つ私がピタゴラス的なハーモニーを作ろうとしていたのだと今ごろ納得しています。
時津裕子著 鑑識眼の科学 認知心理学的アプローチによる考古学者の技能研究
青木書店 2007年12月
やっぱり記憶です、見る目というのは。ただ記憶ではなく、分類したりまとまりとして捉えたりする力を伴った効率良い記憶の参照。そして、ここでも言葉が見え方に関わっていました。タイミングよく近いことを考えていた私にはそういうふうに読めました。とりあえず斜読みした私にはこれが印象的でした。もっと大事なこともあるかもしれませんが、自分の言いたいことを言うには好都合だったので特にそこらへんを拾いました。
鑑識の熟達者は言葉に支配されないようです。そして言葉で言い表しにくい特徴をよく把握します。言葉で言い表すと、漏れが出やすいのです。彼らはまとまりとして捉えながらもその中の小さな違いは見逃さない。
ほらね、言葉というのは難しいんです。だから20年近く前から私が、あんまり小さいうちから言葉を記憶する性格の教育は危険、抽象的な言葉を教えるのは危険じゃないかと言っているんです。子供のうちから視界の中にことばが作った輪郭ばっかり見えて、その間にあるものを見落としてしまいはしないかと心配なのです。
言葉を早いうちに習得しても見る目に影響を受ける人とそうでない人とありそうです。私は長らく抽象的な言葉を受け付けませんでした。だから大学では苦しくてしょうがなかったです。大学を卒業してやっとそんな言葉の入った文章が読めるようになりました。大学生になってもせいぜい児童文学。それ以外はあんまり読みませんでしたが読むしかない場合は苦しんで読みました。からだによくなさそうに感じた現実離れした言葉は今でもあんまり好んで受けつけはしませんが昔ほどではありません。
抽象的な言葉を受け入れる時期とある程度の情報をひとまとまりとして効率よく扱う時期はほぼ一致するのでしょう。私はまとめて大量の情報が扱えるようになって、理解できることが大幅に増えました。人並みには程遠い、自分なりの大幅でしたが。
鑑識眼を持つ人は、大量の情報を効率よく扱います。きっと、情報がその人の中で構造化されているけれど、状況に応じて崩して使えるような柔軟さがあるのです。というのは生き物ならば当たり前ですが、いまどきのオフィス機器に囲まれて生活する元情報処理技術者(といったってほんの数年間)はうまい働きに感心してしまいます。いけませんね、基準が不自然になっては。もっと日常に自然に親しもう。
青木書店 2007年12月
やっぱり記憶です、見る目というのは。ただ記憶ではなく、分類したりまとまりとして捉えたりする力を伴った効率良い記憶の参照。そして、ここでも言葉が見え方に関わっていました。タイミングよく近いことを考えていた私にはそういうふうに読めました。とりあえず斜読みした私にはこれが印象的でした。もっと大事なこともあるかもしれませんが、自分の言いたいことを言うには好都合だったので特にそこらへんを拾いました。
鑑識の熟達者は言葉に支配されないようです。そして言葉で言い表しにくい特徴をよく把握します。言葉で言い表すと、漏れが出やすいのです。彼らはまとまりとして捉えながらもその中の小さな違いは見逃さない。
ほらね、言葉というのは難しいんです。だから20年近く前から私が、あんまり小さいうちから言葉を記憶する性格の教育は危険、抽象的な言葉を教えるのは危険じゃないかと言っているんです。子供のうちから視界の中にことばが作った輪郭ばっかり見えて、その間にあるものを見落としてしまいはしないかと心配なのです。
言葉を早いうちに習得しても見る目に影響を受ける人とそうでない人とありそうです。私は長らく抽象的な言葉を受け付けませんでした。だから大学では苦しくてしょうがなかったです。大学を卒業してやっとそんな言葉の入った文章が読めるようになりました。大学生になってもせいぜい児童文学。それ以外はあんまり読みませんでしたが読むしかない場合は苦しんで読みました。からだによくなさそうに感じた現実離れした言葉は今でもあんまり好んで受けつけはしませんが昔ほどではありません。
抽象的な言葉を受け入れる時期とある程度の情報をひとまとまりとして効率よく扱う時期はほぼ一致するのでしょう。私はまとめて大量の情報が扱えるようになって、理解できることが大幅に増えました。人並みには程遠い、自分なりの大幅でしたが。
鑑識眼を持つ人は、大量の情報を効率よく扱います。きっと、情報がその人の中で構造化されているけれど、状況に応じて崩して使えるような柔軟さがあるのです。というのは生き物ならば当たり前ですが、いまどきのオフィス機器に囲まれて生活する元情報処理技術者(といったってほんの数年間)はうまい働きに感心してしまいます。いけませんね、基準が不自然になっては。もっと日常に自然に親しもう。
「日本語オノマトペ語彙における形態的・音韻的体系性について」
図書館でみつけて斜読みしてさっと返却してしまい、著者名も出版社もわかりません。貸出票をみてタイトルを書きました。
最後が「こ」で終わる擬音語や擬態語は、通常4モーラか、ある条件つきで5モーラだそうです。その条件とは2番目のモーラが「っ」「ん」であること。なるほど。「どんぶらこ」。「ぎっちらこ」。「どんぶらがっさいぎっこっこ」は「がっさい」で区切れていると思われます。おや、「ころりんこ」とかあり得そうですが。この本ではラ行の音もその特殊な性格に注目されていました。
ある分野について詳しく調べられていて当然とは思っていましたが、こうして目の前に分量的迫力をもって現れると衝撃が大きいのです。
オノマトペにも真正オノマトペや擬似オノマトペなどもあって、本来はオノマトペだったのが漢字で表記されるなど変化が加わって、らしさを失ったものもあるそうです。
こうなると、オノマトペの範囲が広がりすぎてしまいそうでなんだか不安。そもそも言語はオノマトペから始まったんじゃないんですか。そうでしょ?違う?
何年も前にKAORUさまのBBSで、計算機の話題の時に compute と calculate がどう違うか書いたのがきっかけで calculate が計算に使われた小石を意味する言葉に由来すると知りました。私はその小石を表す言葉はきっとそれらがぶつかって鳴る音からきていると思っています。
高校の仏教の先生の影響で私は語源に少しばかり関心があります。それで気づいたのは、自然の豊かな地域の言葉は物そのものがリアルに想像しやすい傾向があり、人名も例えば現実に存在する動植物から取られていたりするけれど、中東辺りの砂漠地帯出身の言葉は具体的に思い浮かべるのが難しく、そこらの言葉で書かれた聖書から取られた人名ももちろん物を意味するのもありますが、観念的な名前が多かったりします。動詞を含む文が名前の起源だったり。このようなことを断言するにはアラビア語やヘブライ語でも使えるくらいに覚えないといけませんが私はちっともできません。しかし漠然とした印象としてはそういうものがあります。
身の回りに物が豊かにあるほど、それを表現する言葉は多いでしょう。今の時代の感覚でいう物の豊かさの意味ではなく、自然の豊かさのことです。オノマトペの多さはその土地の自然の豊かさにある程度比例していることでしょう。
モーラ数から考えても、日本語は4拍子が基本で、弱起があったり次の音が出るまでに休みがあったりで調整しています(とは書いたものの、後で考えてみると弱起が思い当たりません。失礼しました)。この4はどこから来るんだろうという疑問が起こります。からだに染みついたリズムが偶数なのはきっと脚2本を交互に動かして歩くから。偶数は人間や動物が大部分左右対称という事実から来ていて、それはまた地球の引力も関係ありそう。歩くには繰り返さないといけないので、その繰り返しの最少単位が4だからでしょうか。あんまり範囲を広く考えるとウィンナワルツなどつきつけられて悩みそうです。日本はある時期から騎馬民族に支配されたけれど、リズムにはあんまり乗馬のイメージはありません。
電車の中で本を開いていると、ページによっては、「かちゃかちゃ」とか「どっしり」とかいう例ばっかり延々と載っていて、近くの乗客がちらっと見てしまったら何て変な本読んでいるんだと思うだろうなと気になりました。文章なら適度なランダムネスがあって何書かれていても目立たないのに、ずらずら並ぶオノマトペはそれなりな見た目です。ありとあらゆる感覚を呼び起こす壮観なページを眺めながらにたあ~/へらぁ/くすっとしてしまいそうになりました。
図書館でみつけて斜読みしてさっと返却してしまい、著者名も出版社もわかりません。貸出票をみてタイトルを書きました。
最後が「こ」で終わる擬音語や擬態語は、通常4モーラか、ある条件つきで5モーラだそうです。その条件とは2番目のモーラが「っ」「ん」であること。なるほど。「どんぶらこ」。「ぎっちらこ」。「どんぶらがっさいぎっこっこ」は「がっさい」で区切れていると思われます。おや、「ころりんこ」とかあり得そうですが。この本ではラ行の音もその特殊な性格に注目されていました。
ある分野について詳しく調べられていて当然とは思っていましたが、こうして目の前に分量的迫力をもって現れると衝撃が大きいのです。
オノマトペにも真正オノマトペや擬似オノマトペなどもあって、本来はオノマトペだったのが漢字で表記されるなど変化が加わって、らしさを失ったものもあるそうです。
こうなると、オノマトペの範囲が広がりすぎてしまいそうでなんだか不安。そもそも言語はオノマトペから始まったんじゃないんですか。そうでしょ?違う?
何年も前にKAORUさまのBBSで、計算機の話題の時に compute と calculate がどう違うか書いたのがきっかけで calculate が計算に使われた小石を意味する言葉に由来すると知りました。私はその小石を表す言葉はきっとそれらがぶつかって鳴る音からきていると思っています。
高校の仏教の先生の影響で私は語源に少しばかり関心があります。それで気づいたのは、自然の豊かな地域の言葉は物そのものがリアルに想像しやすい傾向があり、人名も例えば現実に存在する動植物から取られていたりするけれど、中東辺りの砂漠地帯出身の言葉は具体的に思い浮かべるのが難しく、そこらの言葉で書かれた聖書から取られた人名ももちろん物を意味するのもありますが、観念的な名前が多かったりします。動詞を含む文が名前の起源だったり。このようなことを断言するにはアラビア語やヘブライ語でも使えるくらいに覚えないといけませんが私はちっともできません。しかし漠然とした印象としてはそういうものがあります。
身の回りに物が豊かにあるほど、それを表現する言葉は多いでしょう。今の時代の感覚でいう物の豊かさの意味ではなく、自然の豊かさのことです。オノマトペの多さはその土地の自然の豊かさにある程度比例していることでしょう。
モーラ数から考えても、日本語は4拍子が基本で、弱起があったり次の音が出るまでに休みがあったりで調整しています(とは書いたものの、後で考えてみると弱起が思い当たりません。失礼しました)。この4はどこから来るんだろうという疑問が起こります。からだに染みついたリズムが偶数なのはきっと脚2本を交互に動かして歩くから。偶数は人間や動物が大部分左右対称という事実から来ていて、それはまた地球の引力も関係ありそう。歩くには繰り返さないといけないので、その繰り返しの最少単位が4だからでしょうか。あんまり範囲を広く考えるとウィンナワルツなどつきつけられて悩みそうです。日本はある時期から騎馬民族に支配されたけれど、リズムにはあんまり乗馬のイメージはありません。
電車の中で本を開いていると、ページによっては、「かちゃかちゃ」とか「どっしり」とかいう例ばっかり延々と載っていて、近くの乗客がちらっと見てしまったら何て変な本読んでいるんだと思うだろうなと気になりました。文章なら適度なランダムネスがあって何書かれていても目立たないのに、ずらずら並ぶオノマトペはそれなりな見た目です。ありとあらゆる感覚を呼び起こす壮観なページを眺めながらにたあ~/へらぁ/くすっとしてしまいそうになりました。
「音痴」克服の指導に関する実践的研究 小畑千尋 多賀出版 2007
音痴は能力の問題以前にいかに心理的なダメージによって定着する可能性が高いか。方法や手順などと一緒に心理面の変化が書かれていますが、それが実は最重要点であるという著者の考えが感じられます。そんな印象を持ったのは私が長年小さい声しか出せなかったことと事例がどこか似ているせいでもあるでしょう。
音痴克服の訓練を受けている人の記録の中の、自己否定の言葉が痛々しかったです。そんな考え方の習慣をかなり小さいうちにつけられてしまい、ある時音痴と言われて歌うことも少なくなるために、歌っているうちに幾らか良くなる場合もあるものをその機会自体殆ど無くなるのです。
この種の訓練に関する文書は心理的な面に着目したものがほとんどないそうです。人間の心を科学が扱うのが普通の時代になってきたのだなという実感がこんなところにもありました。
音痴は能力の問題以前にいかに心理的なダメージによって定着する可能性が高いか。方法や手順などと一緒に心理面の変化が書かれていますが、それが実は最重要点であるという著者の考えが感じられます。そんな印象を持ったのは私が長年小さい声しか出せなかったことと事例がどこか似ているせいでもあるでしょう。
音痴克服の訓練を受けている人の記録の中の、自己否定の言葉が痛々しかったです。そんな考え方の習慣をかなり小さいうちにつけられてしまい、ある時音痴と言われて歌うことも少なくなるために、歌っているうちに幾らか良くなる場合もあるものをその機会自体殆ど無くなるのです。
この種の訓練に関する文書は心理的な面に着目したものがほとんどないそうです。人間の心を科学が扱うのが普通の時代になってきたのだなという実感がこんなところにもありました。
「生命のセントラルドグマ」武村政春 講談社 2007
あれこればらばらに読んでばかりいないで分野を絞るんだ!そうは思うけど、つい。そうして手にしたのはRNAについての最新情報の一部を含めて説明した本でした。
感心したのは例えのうまさでした。仕組みをイメージするのに効率のいい説明の仕方です。そしてその例えが可愛らしくて楽しいからすんなり受け入れたくなります。
ただ、私がこんな本を読んだからって理解したわけじゃありません。出てきた言葉は片っ端から忘れていくし。でも全部すっかり忘れたわけじゃなし、読まなかったのに比べたら次回同じ情報が来た時の受け入れ易さが違います。そういえば最初私が教えてあげたのに自分で発見したと思い込んでいる人がいるけど、私もそろそろそうなっているのかなあと気掛かりです。その人たちは若かったりするので年齢のせいではなく普通にそういうものみたいでした。とにかくある程度理解できることなら二度目に言われた時憶えやすいということです。一度目を忘れてもどこか受入れ易い。だからわからなくても一応読む。
何年前だったか、昔のOSで使っていた漢字コードの仕組みがどんなものでどういうトラブルが起こりえたかをメーリングリストで書いたら、ある人が遺伝子も似たようなところがあると言っていました。その人はプログラミングはしなかったようですが、言っていたことのひとつはBASICという言語のGOSUBという出張命令みたいなコマンドに相当するのまであって興味深かったという記憶があります。
昔学校で教わったことや本で読んだことはどんどん変化して新しい発見がされています。
生命はうまく構造化して効率を図っているけれど状況に応じてそれを崩して融通を利かしているということがますますわかってきたというふうに見えます。
あれこればらばらに読んでばかりいないで分野を絞るんだ!そうは思うけど、つい。そうして手にしたのはRNAについての最新情報の一部を含めて説明した本でした。
感心したのは例えのうまさでした。仕組みをイメージするのに効率のいい説明の仕方です。そしてその例えが可愛らしくて楽しいからすんなり受け入れたくなります。
ただ、私がこんな本を読んだからって理解したわけじゃありません。出てきた言葉は片っ端から忘れていくし。でも全部すっかり忘れたわけじゃなし、読まなかったのに比べたら次回同じ情報が来た時の受け入れ易さが違います。そういえば最初私が教えてあげたのに自分で発見したと思い込んでいる人がいるけど、私もそろそろそうなっているのかなあと気掛かりです。その人たちは若かったりするので年齢のせいではなく普通にそういうものみたいでした。とにかくある程度理解できることなら二度目に言われた時憶えやすいということです。一度目を忘れてもどこか受入れ易い。だからわからなくても一応読む。
何年前だったか、昔のOSで使っていた漢字コードの仕組みがどんなものでどういうトラブルが起こりえたかをメーリングリストで書いたら、ある人が遺伝子も似たようなところがあると言っていました。その人はプログラミングはしなかったようですが、言っていたことのひとつはBASICという言語のGOSUBという出張命令みたいなコマンドに相当するのまであって興味深かったという記憶があります。
昔学校で教わったことや本で読んだことはどんどん変化して新しい発見がされています。
生命はうまく構造化して効率を図っているけれど状況に応じてそれを崩して融通を利かしているということがますますわかってきたというふうに見えます。
妻倉昌太郎「書道心理学」啓明出版 1989
驚きました。書道についてだけで心理学がこんなにも説明できるとは。まるで教科書みたいです。大学の一般教養程度の教科書にするにはもしかしたらまだ必要なことはあるのかもしれませんが、よくこれだけ書けたものです。
長らく自分の字がきれいでないなと思っていましたが最近ひどすぎ。それで練習もしないといけないけど、まずは美しい字を目にすることから始めようと思っている時、能書名筆を集めた手軽な本を市の図書館で(見つけてというよりは)見かけて借りました。それには前に借りた人の貸し出しリストが挟まったまま。そこにあったひとつの本の名が「書道心理学」でした。その珍しい取合わせでできた書名に惹かれて、何度か忘れて借りそびれながらも忘れられずとうとう借りました。
ゲシタルト心理学、錯視、Semantic Differential Methodによる因子分析、そして性格判断の試み。やはり性格を科学的に見分けるのは非常に困難らしく、クレッチマーの分類に従って実験参加者のグループが分けられ、筆圧の推移だけ測定されていました。これによって有名な書家がどういう性格だったかの推測もありました。
著者は書道を長年続けた人らしく、実感としては書に性格が表れるのは確か、しかし断言はできないのも確かという立場なのです。私も人の動きやその結果にはその人の性格が出るけれど断言できないと思います。それはやはり音を出し動き形づくるようなことをいくらかしてきたからです。原因と結果の間を実感しつつ考える習慣があります。そういうことから私はやはり、趣味やお稽古事に、特に理屈の通りには必ずしもいかないフィジカルな実感のあることに打込んだ人に、共感も信用もできる人が多いと思います。そしてこれもまた断言はできないのです。
この本が完成した時はいたずらがうまく仕込めた時と同じような気分だったのではないかと感じました。いたずらとはまるでレベルが違いますが、読む人の驚きがさぞ楽しみだったことでしょう。
驚きました。書道についてだけで心理学がこんなにも説明できるとは。まるで教科書みたいです。大学の一般教養程度の教科書にするにはもしかしたらまだ必要なことはあるのかもしれませんが、よくこれだけ書けたものです。
長らく自分の字がきれいでないなと思っていましたが最近ひどすぎ。それで練習もしないといけないけど、まずは美しい字を目にすることから始めようと思っている時、能書名筆を集めた手軽な本を市の図書館で(見つけてというよりは)見かけて借りました。それには前に借りた人の貸し出しリストが挟まったまま。そこにあったひとつの本の名が「書道心理学」でした。その珍しい取合わせでできた書名に惹かれて、何度か忘れて借りそびれながらも忘れられずとうとう借りました。
ゲシタルト心理学、錯視、Semantic Differential Methodによる因子分析、そして性格判断の試み。やはり性格を科学的に見分けるのは非常に困難らしく、クレッチマーの分類に従って実験参加者のグループが分けられ、筆圧の推移だけ測定されていました。これによって有名な書家がどういう性格だったかの推測もありました。
著者は書道を長年続けた人らしく、実感としては書に性格が表れるのは確か、しかし断言はできないのも確かという立場なのです。私も人の動きやその結果にはその人の性格が出るけれど断言できないと思います。それはやはり音を出し動き形づくるようなことをいくらかしてきたからです。原因と結果の間を実感しつつ考える習慣があります。そういうことから私はやはり、趣味やお稽古事に、特に理屈の通りには必ずしもいかないフィジカルな実感のあることに打込んだ人に、共感も信用もできる人が多いと思います。そしてこれもまた断言はできないのです。
この本が完成した時はいたずらがうまく仕込めた時と同じような気分だったのではないかと感じました。いたずらとはまるでレベルが違いますが、読む人の驚きがさぞ楽しみだったことでしょう。