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素人のピザ窯作り

2011-01-30 06:31:45 | ピザ窯奮闘記
ちょっとした趣味人を気取って【ピザ用石窯】を自分で作ってみようと思い立ち、
設計図から材料一覧、見積もり、工程管理表と工事に関る一通りの準備をしました。
まず、耐火煉瓦探しです。
窯の中で一番大事な要素なので、「良い物を」と思い【SK32】のレンガを120個注文しました。
SK32とはゼーゲルコーンの略号で、32は耐火対応温度を表しています。
32ならば約1500度に対応可能です。
基礎と台座作りは、鉄筋を網目に組み頑丈な作りとしました。
台座の奥行き120cm、幅100cm、厚み8cm


窯の形状は、かまぼこ型で、煙突は後部につける形を設計しました。
煙突は、陶芸用の窯は後部に、ピザ窯の場合は前に付けるらしいけど。
台座の上に耐火煉瓦を水平に敷き詰めた。あいた隙間には、
耐火セメントを流し込み固めました。

煙突は、レトロな雰囲気を出そうと思い、昔懐かしい焼き上げた土管を使う事にした。
ところが、今や「土管」を売っている店が見つからない。
仕方なく、口の割れた中古の「土管」を加工し再利用した。



(SK32の耐火レンガ)               (中古の「土管」)

窯内面の広さ:奥行き70cm、幅50cm、高さ:45cm。

窯内の天井部分の作成が難しい。当初は、ドーム型を予定していたが
手間と費用が掛かりそうだったので、急遽設計変更でフラットな天井にした。
天板用にロングサイズ(W:30cm,L:60cm,H:6.5cm)の耐火レンガ(SK34)を2枚注文した。
耐火煉瓦同士の結合が難しい。耐火用モルタルを使っての接着は、困難だった。
まして、耐火セメントも接着には適していない。

一通りの窯組が出来たので、熱を加えてレンガの固定(接着)をするために、
初めての火入れを行った。あくまで耐火用モルタルの活性化が目的なので、500度程度まで熱した。
うーん、初火入れ(レンガの接着)の採点は70点、上手く煙突から煙がもくもくと排出した。
だが、予期せぬ事が、煙突以外、側面や背面からも少しだが煙が出ているではないか!
耐火モルタルのルーズな箇所が有ったみたいだ。(ショック)
早速、補修に取り掛かったが、モルタルの活性後なので、かなり困難、完全に修復は無理みたい。
次に、耐火煉瓦の窯全体をコンクリートブロックで覆う、あらかじめ土台から鉄筋を貫通させてあるので、
上部以外の左右の側面、後部の三面にブロックを積み上げる。
上部は、網目の鉄筋を入れたセメントの平板2枚で覆った。




次は窯口の蓋作り、ここは文字通り玄関口なので、特別に思い入れが有った。
昔の小学校の石炭ストーブの焚口の様な、鋳物を使ったレトロな物を作ろうと苦心したが
理想が高すぎ断念。結果、厚さ5cmの松の木の板に裏面に瓦を張り付け、
木のコブの「取っ手」を付けたものを自作した。重さもあり、少し見映えも良くなった。


      「窯口のふた」                  「ふたの裏面」

窯蓋と同じく、こだわったのが窯口のエプロン部分で、
御影石を使う予定だったが、費用縮小で化粧レンガをテーブル風に貼り付けた。
最後は、前面の見映えを良くするため、化粧レンガを使った仕上げです。
4cm程の薄めのイタリー風のレンガを目地幅を広げて貼り付け、
色は、上部は赤色、下部は濃い茶色とした。
その後、何度かピザ焼きにチャレンジしたが、石窯は雨に弱い事が判明、早速、雨対策を実施。
屋根用のスレート板を買ってきて、側面と屋根、後面の4箇所に貼り付けた。
特に耐火レンガは、水に弱いので雨対策を十分にする必要がある。
本当は、屋根をつけ窯全体を覆うらしいけど。
完成した全体サイズは、幅:100cm、奥行き:130cm、高さ:120cmとなった。







京都長岡京の乙訓寺

2011-01-16 07:19:35 | 古寺(古事)探訪記
 

京都長岡京の乙訓寺に空海の事跡を訪ねた。
延暦3年(784)桓武天皇は、平城京から長岡京に遷都した際、新都の地鎮として乙訓寺を増築・拡張された。
そのため当時この寺は、かなり広大な寺域を誇るに至った。
この乙訓寺は、歴史上2つの大きな事跡を今に伝える。

1つは、建設中の長岡京の普請現場で、造宮使の「藤原種継」が何者かに暗殺される事件が起こった。
早良(さわら)親王(桓武天皇の弟)に、事件の首謀者の一人として嫌疑が掛かり、桓武天皇は、
弟の早良親王を捕らえ、この寺に幽閉した。
早良親王は、幽閉中、食を絶ち無実を訴え流刑地への途中死亡する。
その後の桓武天皇は、数々の異変や疫病の広がりを、この早良親王の祟りと怖れ、
早々に長岡京を捨て平安京に遷都を行なった。その後この寺も次第に衰退した。

 
                                    「早良親王の供養等」
2つは、平安京への遷都があってから、すっかり荒廃した乙訓寺の別当に、唐から密教(真言)を学び
帰国していた空海(弘法大師)が任命され、一年の短い期間だったが、この寺の修復・復興にあたった。
この時期、最澄(伝教大師)が、空海が在住するこの寺に真言の法を学びに訪れ交流を深めた。
また空海は、境内に実った千個もの蜜柑を嵯峨天皇に詩を添えて献上したと伝わる。
境内には、本山の長谷寺から移植した牡丹が二千株余りあり、季節には「ぼたんの寺」としても有名である。
(参考文献:司馬遼太郎「空海の風景」)span>

                                    「空海が献上したとされる蜜柑の木」

日本最古の病院【北山十八間戸】

2011-01-08 07:34:15 | 古寺(古事)探訪記
  
奈良坂の【北山十八間戸】(きたやまじゅうはちけんと)を訪ねた。
日本最古の病院、それも「ハンセン氏病」患者の病院だったと伝わる。
十八の小部屋(一部屋は2畳ほど)からなり、多くの患者が常時入室しており、
衣食住が与えられ、日本における最初の弱者のための医療活動がなされた。
仏間も造られ、信仰による魂の救済と共に、薬石での治療が行われた。
もともとは、この地より600mほど北にある、般若寺の寺域にあったと伝わる。
般若寺を再建した僧叡尊と弟子の僧忍性は、庶民救済の文殊会を頻繁に開き
多くの貧民を助けた。中でも僧忍性は、ハンセン氏病に苦しむ下層の人々に
救助の手を差しのべ、それらの人々をこの建物に収容し手厚い施策をこうじた。
ただ、般若寺の寺域にあったそれらの施設が、今の場所に移設された時期や経緯は、
諸説あり定かでない。
法華寺の光明皇后の救済施設である阿閦寺(あしゅくじ)を移設したとする説もある。
奈良県教育委員会名の由緒書きには、以下のように書かれている。(下の写真(左))


鎌倉時代の中頃、僧忍性が、不治患者救済のため、北山(奈良の北の山という意)に
宿舎を設けたもので、はじめ、般若寺の東北に建立されたが、永禄10年に焼けたため、
寛文年間に東大寺、興福寺の堂塔を南に眺められて、不幸な人々の養生にふさわしい
今の地へ、鎌倉時代の遺風を承け継いで建てられたものである。
建物は、十八の間数のほかに仏間をつけ、裏戸に「北山十八間戸」と縦に刻書がある。
大正12年3月3日慈善事業遺跡として史跡に指定された。
                       奈良県教育委員会