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京都亀岡市の谷性寺

2012-04-22 06:37:33 | 古寺(古事)探訪記
京都亀岡市の谷性寺(こくしょうじ)に明智光秀の首塚を訪ねた。
別名【桔梗寺】【光秀寺】とも呼ばれている小さな寺だが、境内には明智光秀の首塚がある。
亀山(亀岡)城主だった光秀は、政治の世界では信長を本能寺に襲うという「暴挙」をやったが、
民生においては優れた才能を発揮した。
それゆえ丹波地方の農民の中に、その徳をたたえる者が多かった。
特に亀岡での光秀の善政は、広くゆきわたり、その遺徳を偲び毎年5月3日の
「光秀祭り」(今は亀岡春まつり)に息づいている。

  

 
                                   明智山門

山崎の合戦で討たれた時に、家来の一人が首をこの寺にこっそり持ち帰り葬ったとされている。
また、寺の周辺には明智家の家紋である「桔梗」が植えられ、夏には様々なキキョウが咲き乱れ
桔梗寺と呼ばれ親しまれている。
ただ光秀の首塚は、この寺以外にも京都の「三条白川」と「宮津の盛林寺」にも有る。

  
                                 境内に或る首塚

毎年5月3日の亀岡春まつりの日には、この谷性寺にて明智光秀の追善供養が行われる。
 

探訪!「家康の伊賀越え」

2012-04-08 05:03:05 | 古寺(古事)探訪記
天正10年(1582年)6月2日、家康は大商業都市である堺の見物を終え、信長に拝謁するために京都へ
向かっていた。途中で京都の本能寺にいた織田信長が、家臣の明智光秀に攻められ自害して果てたとの
知らせが伝えられた。この時家康の供の者は、平服の臣下わずか三十数名と家康に従ったばかりの
駿河江尻城主の穴山梅雪(信君)一行の十二名だった。
 信長方だった家康は、身の危険を察知し京都へ攻め上り自決を覚悟するが、家臣本田忠勝らの慰留で
三河への脱出を決意した。
いわゆる徳川家康の三大危機の一つ、「家康の伊賀越え」である。
古来、この「家康の伊賀越え」のルートは、諸説あり定かではない。
まず家康一行が、この訃報に最初に接した場所は、滞在中の堺とする説と既に滞在を終えて上洛の
途中だったとする説がある。ここでは、上洛の途中の飯盛山付近とする。

家康一行は、河内の飯盛山付近でこの訃報に接した。現在の大阪府四条畷市のあたりである。
この訃報に接し、さすがの家康も驚き大きなショックを受け、一時は、信仰する浄土宗の本山である知
恩院で腹を切ろうとさえ決意する。しかし家康は、家臣の進言を受け入れ、主君信長の無念を晴らすた
め一旦自国(岡崎)へ帰り、兵を整えて「弔い合戦」をやり、主君信長の無念を晴らそうと決断する。
ただ、一緒に帰還するはずの穴山梅雪一行は、相談のうえ別行動を取り、ここで家康一行と別れて甲斐
の国をめざす事になるのだが・・・。

このような事情で、昼夜兼行の三河国岡崎への逃走が始められた。
伊賀越えのルートは諸説あるが、ここでは下図のようなルートに沿って紹介する。

尚、今回は大阪府と京都府の主なルートで、且つ地元の方々が記録されている
ポイントを中心に写真と案内文によって紹介していく。



交野市妙見坂付近
訃報に接した6月2日の夜は、星田妙見宮の薮に潜み待機して、方々に斥候を放ち脱出ルートを
探ったと伝えられている。




交野市妙見坂にある案内文      伝 家康ひそみの藪
天正10年6月2日(1582年)織田信長が京都本能寺において明智光秀の反逆によって自害した。
そのとき少人数の近臣を連れて堺に滞在していた徳川家康は、いち早くその情報を入手するや身の
危険を感じ即刻堺を出て本国三河へ帰ることにした。その日の深夜 家康は、この竹やぶにひそみ
村の長、平井氏に連絡して山城方面に出るため道に精通する農民を道案内人として出すよう依頼した。
平井家では、沢山の握り飯を鶴の絵を描いた大皿に盛って提供し、信用のおける二人の農民を選出し
て無事に道案内の大役を果たさせたといわれている。


枚方市尊延寺付近  

  

京田辺市普賢寺付近
   

京田辺市飯岡付近
穴山梅雪一行の死
飯岡地区の共同墓地には、穴山梅雪の墓があり、2つの案内板が立てられている。
それによると穴山梅雪の従者が、同行の道案内人を斬り殺し、その太刀の銀の鍔を奪った。
そのために怒った土着民らが蜂起し、梅雪一行を草内村で襲い殺害したというもの。
一説では、家康と間違えられて、殺害されたとの説もある。
 

   

      天正10年(1582)に織田信長が明智光秀に殺された本能寺の変が
      起こったとき、泉州堺に滞在していた徳川家康は、京都を避けて
      急いで?城の三河(愛知県)の岡崎城に帰るため、堺から、飯盛山、
      枚方市尊延寺を経てえて京田辺市に入り、普賢寺、興戸、草内の
      コースで木津川を渡り、宇治田原から朝宮、加太、白子、大浜に
      出て帰城する。
      一日少しおくれて、家康の武将の穴山梅雪は同じコースをたどり
      帰城しようとしたが、河内の土民に追い詰められて、木津川を
      渡る前に主従十二名と共に自刃したと古文書は伝えるが、
      殺害されたとの説もある。(後略)

                京田辺市教育委員会
                京田辺市文化財保護委員会 



草内の渡し付近
  


 
草内の渡しで無事に木津川を渡りきった家康一行は、市野辺出雲守の領地である
市野辺村(現在の城陽市市辺)から応援に駆けつけた数十人の村人に護られて宇治田原の
山口城を目指した。


宇治田原町山口城址付近

   

  

       史跡 山口城址(家康伊賀越えの道)
    山口城は、織田信長の命で山口甚助秀康が築いた城でした。 (中略)
    天正10(1582)年6月2日本能寺の変に堺にいた徳川家康は、急いで帰国するため河内より
    尊延寺越えに田辺、草内を経て木津川を渡り、田原郷に入り山口城に3日の巳の刻(午前10時)
    に着きました。昼食をとり乗馬を替え、申の刻(午後4時)信楽へと向かいました。
    途中奥山田の遍照院で休んで、多羅尾光俊の侍に引き継がれ、無事多羅尾に入り一泊したと
    伝えられています。
    山口氏は関が原の戦いで亡び、城はその後廃城となりました。
    城址の東にある極楽寺は、山口氏一族の菩提寺で、その山門は城の裏門であり、
    境内の石灯籠一基も城のものと伝えられています。     (後略)
  
        平成5年2月   宇治田原町商工会


  

宇治田原町奥山田遍照院付近

  


  

    徳川家康が伊賀越えの時休んだ遍照院 

    天正10年(1582)6月2日未明、京都本能寺に止宿中の織田信長が、
    家臣明智光秀に襲われ自刃した。(本能寺の変)
    この時家康は信長のすすめで堺見物をしていたがそれも終り引き返そうと
    していた矢先、本能寺の変の急報をうけた。 驚いた家康は、とにかく本国
    三河へ帰る事にし、危険は多いが伊賀越えの道を選んだ。
    守口、枚方と不眠の行動で尊延寺を経て草内で木津川を渡り郷之口の山口城へ
    入った。ここで昼食をとり、案内人を得て物見の者と連絡をとりながら進み、
    街道沿いの遍照院へ着いた。
    ここで新しい案内人も出来、朝宮を通る頃には日もとっぷり暮れていたが無事
    多羅尾へ着いた。
    ここで夕食をとり一睡の上伊勢の白子浜をめざして出発した。
                     (後略)
                 平成6年3月   宇治田原町商工会