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京都大山崎町の宝積寺探訪記

2014-01-13 16:16:31 | 古寺(古事)探訪記
1月の中旬に乙訓郡大山崎町に或る宝積寺を訪ねた。
【宝積寺は寺伝よると、奈良時代(724年)に聖武天皇が僧行基に命じて建立したと
いわれる古寺です。境内は広く、山門から一直線にのびる参道の右側には桃山時代の
建築で重文の三重塔、さらに進むと本瓦葺きの堂々とした本堂があります】
(現地案内板より)




宝積寺は、行基が725年、淀川に「山崎橋」(山崎と対岸の八幡市橋本)を建てた際に、
橋寺として創建した「山崎院」の後身と考える説もあります。
宝積寺は、古くは「宝寺」と呼ばれていました。大正4年にこの地を訪れた夏目漱石が、
「宝寺の隣に住んで桜哉」の句を詠んだ宝寺は、宝積寺の事です。




「大山崎町の案内板」によると
 【戦国時代の終わり、山崎合戦の折には羽柴秀吉が一時当寺を陣所とし、合戦後宝寺も
山崎城の一部として利用されたと伝えられる。】
宝積寺は、貞永元年(1232)の火災で焼失し、現存する建築物や仏像等はこれ以降の
ものである。

 

禁門の変(1864年)では尊皇攘夷派の真木保臣を始めとする十七烈士らの陣地が置かれた。
お寺の途中にある墓には、十七烈士の碑があり、天王山山頂付近には十七烈士の墓が或る。




境内奥からは、天王山の山頂へのハイキング登山口となっていて、多くの家族連れのハイカー
達が、寒さに負けず元気に登って行った。
また、宝積寺の直ぐ横には、有名な「アサヒビール大山崎山荘美術館」が或る。


(十七烈士の墓)



伊賀上野市の「鍵屋の辻」探訪記

2013-12-18 13:54:06 | 古寺(古事)探訪記
秋の深まる11月の末に伊賀上野市の「鍵屋の辻」を訪ねた。

「鍵屋の辻」の事件は、「日本三大仇討ち」に数えられ歌舞伎・講談・小説・映画等で特に有名である。

「曾我兄弟の仇討ち」建久4年(1193年)5月
「(鍵屋の辻)」寛永11年(1634)11月
「忠臣蔵(赤穂浪士の討ち入り)」元禄15年(1703)12月

何でも名数にして数える事が好きな日本人の癖で、この「鍵屋の辻」の
仇討ちも三大の中に数えられている。
 

 

今から380年前の「鍵屋の辻」での事件を後世に伝え残すために
「伊賀越資料館」が建てられ数々の貴重な資料を展示している。
また、辻そのものも当時から、伊勢街道と奈良街道の分岐点だった事もあって
「鍵屋の辻史跡公園」として保存管理されている。


  

この事件のあらましを「鍵屋の辻」に建てられた「案内板」から
抜書きして紹介します。


【事件の発端は、寛永7年(1630)7月11日の夜、備前国岡山藩士河合又五郎が同僚の
渡辺源太夫を殺害して、行方をくらましたことにはじまります。時に又五郎は19歳、源太夫は
17歳でした。藩主池田忠雄候は、又五郎の行方を探させたところ、江戸で直参の旗本安藤
治左衛門方にかくまわれていることが判明したので、身柄の引渡しを申し出ましたがこれに
応じなかったので事件は大名と旗本との対決へと発展しました。
(中略)
諸国を逃げ回っていた又五郎は、武芸の達人河合甚左衛門、桜井半兵衛らに警護され江戸
に下ろうと寛永11年11月6日には、奈良から笠置を越え、その夜、伊賀国島ヶ原に投宿しま
した。これを知った数馬、荒木又右衛門の主従4人は、翌7日、伊賀上野城下西のはずれの
鍵屋の辻にある茶屋萬屋で待ち伏せしていました・・・後略・・・】


 
                                          茶屋萬屋

見事本懐を遂げた数馬と又右衛門は世間の耳目を集めた。
特に、助太刀の身で仇討ちを主導した荒木又右衛門は賞賛を浴びた。

俗に又右衛門の「36人斬り」と言われるが、実際に荒木又右衛門が斬った
のは2人だったと伝わる。

後の世の歌舞伎や講談、読み本が史実を面白く描き、膨張に膨張を重ねた思われる。


  
          伊賀越資料館

奈良の西大寺

2013-09-14 07:04:31 | 古寺(古事)探訪記
夏の暑い盛りに奈良の西大寺を訪ねた。
西大寺の創建は奈良時代の天平宝字8年(764)と伝えられ、奈良時代の末期、京都に都が
遷る30年ほど前の時代とされている。
創建当初の寺域は東西11町、南北7町、面積31町(約48ヘクタール)に及ぶ広大なもので、
実に甲子園球場が12個分の広さだった。
東の東大寺に並び西の大寺にふさわしい官立の寺であっため、完成までに15年余の歳月が
費やされた。
この東西両寺の考えは、その後、平安京の東寺と西寺に受け継がれた(京都の西寺は、
建立後400余年ほどで衰退、再建されることなく現在は、礎石のみ)

  

南都七大寺の1つとして奈良時代には壮大な伽藍を誇った、わけても寺域に東西2つの五重の
塔(東塔・西塔)が聳えて、威風堂々としていたらしい。
今の薬師寺の西塔、東塔の五重の塔のようなものだったろうか?
残された記録では、東西の2つの塔とも、現存する薬師寺の東塔よりも10メートルも高い、
約46メートルもあったらしい。しかし、壮大な2つの塔の西塔は、平安時代に落雷により焼失、
東塔も室町時代に兵火によって焼失した(現地案内板より)
今は、東塔の跡の基壇だけが残されている。

  

その後平安時代になり、再三の火災や災害に遭い衰退し、奈良興福寺の支配下になっていたが、
鎌倉時代中期(1238年)になって、稀代の名僧叡尊上人が、西大寺の復興に尽力した。
西大寺と言えば叡尊、叡尊と言えば西大寺と言われるほど、西大寺復興に果たした叡尊上人の役割は、
大きかったようだ。

  

稀代の名僧叡尊

叡尊上人は、西大寺に住み精力的に復興に尽くしながら、多くの貧者、病者などの救済に奔走し、
今日で言う社会福祉事業にも力を尽くした。
また宇治橋の架橋や泉橋の復興などで、多くの土木事業にも尽力し、住民の困窮の救済に努めた。
更に、弟子忍生と共にハンセン氏病患者の更生施設「北山十八間戸」を作り、多くの病者・貧者の
救済に努めると共に、仏教の真の姿を広めた。

  

叡尊上人によって復興された西大寺は、その後、再び室町時代(1502年)に火災で壊滅的な被害を
受け、現在の建物はすべて江戸時代以降に再建したものである。

毎年10月第2日曜に開催される、秋の大茶盛式は、西大寺復興の祖、叡尊上人の茶儀を今日に
伝え残すものとして、多くの参拝者で賑わう。


  

奈良 秋篠寺探訪記

2013-08-10 05:10:17 | 古寺(古事)探訪記
秋篠寺は伎芸天のおわす寺として有名である。
こ寺は、秋篠という語感の響きに多くの女性たちに好まれ、女性の拝観が多いことで有名である。
秋篠の語感もさることながら、本堂に安置された伎芸天(ぎげいてん)像の美しい魅力が多くの
女性を惹きつけているようだ。作家の堀辰雄が、かつてこの伎芸天像を指して「東洋のミューズ」と
呼んで称賛した事で、一躍有名になった。
更に平成2年の「礼宮さま・紀子さま」の結婚後の宮家が、この地の地名である「秋篠宮」と号され
た事も、人気に拍車を掛けた。

  

「技芸天像」は、頭部のみが「脱乾漆」で体は「寄木作り」と言う珍しい形として残されている。
頭部の脱乾漆は、天平時代の作で、焼け残った頭部だけを鎌倉時代に寄木作りの体部に
付け足したものと言われている。

秋篠寺の創建は古く、宝亀7年(776)と伝わる。光仁天皇の勅願とされているが、異説も多く定かでない。
元はこの地の豪族、秋篠氏の氏寺だったとする説もある。


  

駐車場に車を止め南門から境内に入ると直ぐに、苔蒸した林が目に入ってきた。その苔もよくよく手入れが
行き届いていて、美しい苔庭を作り出している。まさに緑の絨毯を敷き詰めたような美しさ、セミが鳴き競う
喧騒も苔に吸収されるような錯覚を感じた。
おおよそ苔などが密生している庭は、陽も差さない鬱蒼たる空間を想像するが、この秋篠寺は明るい清楚な
佇まいで清々しかった。


  

緑の絨毯の奥に、受付が在り「拝観料500円」を支払った。
目の前に在る国宝の本堂は、無駄な装飾もなく簡素で均整のとれた安定感のある建物だった。本堂の
周りは「基壇」が廻らされ、内部は床がなく土間となっている。その土間に、基壇を設け仏像を安置している。


  

受付でもらった案内書では、本堂について

「・・・創建当初講堂として建立されたが金堂の焼失以後鎌倉時代に大修理を受け、
以来本堂と呼ばれてきたもの。
事実上鎌倉時代の建築と考えるべきであるが、様式的に奈良時代建築の伝統を
生かし単純素朴の中にも均整と落ちつきを見せる純和様建築として注目される」

・・・と書かれている。

  

創建当時は、金堂や東西両塔など主要伽藍を備えた大寺院だったため、南に位置する西大寺との間に、
何度も寺領をめぐって争った事が記録に残っている。
平安時代は真言密教道場として栄えに栄えたが、1135年に兵火に遭い伽藍の大部分を焼失してしまった。


しかし、今に残る秋篠寺は、小さいながらも往年の「勅願寺」としての寺格の雰囲気は、
佇まいの美しさと威厳の中に守り伝えられているようだ。


  

兵庫県加西市の一乗寺探訪記

2013-07-15 15:15:31 | 古寺(古事)探訪記
兵庫県加西市の一乗寺を訪ねた。
西国33観音霊場第26番札所の一乗寺の開基とされる法道仙人は、
インドから紫の雲に乗って飛来したとされる伝説的人物である。
第25番の播州清水寺も法道仙人の開基とされている。




創建は何と、白雉元年(650年)と伝えられている。
あの有名な「大化の改新」の直後の時代で、実に1360余年も前。
この寺で有名なのは、何と言っても国宝の三重塔であろう。
日本全国で国宝に指定されている三重塔は僅か13基、その中の一基が
、この一乗寺のものだ。



特に、この寺の三重塔は、塔の屋根裏の銘から承安元年(1171年)の
建立と判明していて、建立年代の明らかな塔として日本でも珍しいとされている。




訪ねてみてもう一つの疑問が、寺の山門が見当たらない。
確か宗派は「天台宗」の筈なのだが・・?
拝観受け付けの婦人の方に、その疑問を聞いてみると、
「これより東と西にそれぞれ500m程の所に、小さいが寺の山門が東門・西門として
2つ在ります」との回答だった。早速、車で2つの山門を探しに行った、
幾ら小さい山門とは言え、これほど小さいとは驚いた。
これでは、車で走りながら探していては、見逃すのも無理はない。
ただ、かつては、東西両門に挟まれて1Km以上の地域が
境内であったと考えられるので、相当に広大な寺域を有する大寺であった事が偲ばれる。




小生が訪ねた初夏の頃、多くの西国札所巡礼の方たちが、白衣に菅笠、金剛杖の
いでたちで「ご朱印所」前で長蛇の列をつくっておられた。