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兵庫県三田の「花山院」

2011-06-19 06:14:09 | 古寺(古事)探訪記
兵庫県三田市の「花山院」に花山法皇の事跡を訪ねた。
花山法皇は、西国33所観音霊場を中興した第65代天皇である。
西国札所33ヶ寺の中で、花山法皇と由緒深い寺は、
兵庫県の【中山寺】、和歌山県の【青岸渡寺】、
そして札所の番外寺として、京都山科の【元慶寺】とこの【花山院】が在る。
このうち中山寺は、花山法皇が徳道上人の遺志を受け継ぎ、
西国巡礼を発願された寺である。
また【青岸渡寺】は、法皇が笈に納めた十一面観音像を背負って、
この寺から巡礼を始められたと伝わる。

 

京都山科の【元慶寺】は、若き花山天皇が、藤原兼家らの策謀によって在位2年足らずで、
剃髪出家された寺と言われている。(当ブログ4月30日付け)
もっとも、西国三十三札所と3つの番外寺のご詠歌は、全て花山法皇の御作とされている。
しかし、第20番札所の京都西山の善峯寺のご詠歌は、別人の作で後付らしい。
それというのも善峯寺は、花山法皇の没後の長元2年(1029年)に創建された寺であるからだ。
因みに花山法皇の生まれは968年で没年は、1008年と伝わる。


 

さて、そのような花山法皇は、どの様な人物だったのか?
歴史物語『大鏡』やその他の古書に書かれた花山法皇の評判は、残念ながら余りよくない。
花山法皇は、多感多情で感受性の強い激しい性格だったようで、
天皇時代から奇行や複雑な女性関係など、狂気に近い行動が多かったようだ。
しかし、法皇は、和歌や絵画・工芸、作庭など多くの才能を発揮した。
特に歌人として優れた才能を発揮し、ご詠歌もその才能の結実と言える。


  

三田市の花山院は、花山法皇が「秀峰有馬富士を、遠くは播州平野から小豆島まで見渡せる」(花山院の案内文より)
美しい景色を特別に気に入られ西国33ヶ寺巡礼の結願後に隠棲された寺として有名である。
その美しさは、花山法皇御作の寺のご詠歌にも詠まれている。

     【有馬富士 麓の霧は 海に似て 波かと聞けば 小野の松風】
 花山法皇は、自由奔放な生涯を貫き多くの女性に慕われたらしい。
この寺に住み着いてからも、京の都から多くの女官達が、
「法皇を慕って麓まで来たものの当時の戒律で登山を許されなかった女官達が、
みな尼僧となって住みついたと伝わる。それ故、現在もこの麓の村を尼寺(にんじ)村と呼ばれている」(花山院の案内文より)
なお、この案内文によれば法皇は、この地にて崩御されたと書かれている。


 小生のホームページ【西国札所巡礼記】は、ここからアクセスして下さい。span>

和歌山岩出市の根来寺

2011-06-05 01:55:06 | 古寺(古事)探訪記
和歌山県岩出市の根来寺を尋ねた。
根来寺は、岩出市の歴史そのものと言えるかも知れない。
根来寺の駐車場前には、岩出市の民俗資料館があり、
根来寺の歴史や根来塗りの資料を展示している。根来塗の体験工房も有るようだ。
根来寺は、大治元年(1126)空海の再来と呼ばれた学僧、高野山の覚鑁(かくばん)上人が、
紀州の豪族平某より寄進された岩出荘に神宮寺を建立したのが始まりと伝わる。覚鑁上人は、
鳥羽上皇から多くの荘園を寄進されるなどの手厚い帰依を受けた。
しかし、覚鑁上人の名声が上がるにつれて、高野山の僧や衆徒との間に軋轢が生じ対立が深まった。
覚鑁上人は、高野山を下り、根来寺を新義真言宗の根本道場として普及に努めた。


その後の根来寺は、「栄えに栄え、堂塔2700、寺領72万石、境内36万坪」(同寺案内パンフより)の大寺院となり、
また警護の僧兵も常時1万人を超える大軍事集団となった。更に根来寺の僧「杉之坊の津田監物」が、
種子島から伝来したばかりの火縄銃を持ち帰り、鍛冶職人「辻芝清右衛門」に造らせ、
わが国最初の国産火縄銃がこの根来にて誕生した。この鉄砲で武装した僧兵は、「根来衆」と呼ばれ
紀州はもちろん、和泉・河内方面まで影響力を広めた。




こうした根来寺の膨張に危機感を抱いた秀吉は、天正13年(1585)に根来寺に攻め入り、
大塔(国宝)・大師堂などの2~3の堂塔を残して全山を焼き払った。
この時に多くの職人が、根来から各地へ逃げ延びた。
中でも根来塗りの職人が各地に散らばり能登の輪島塗にも、
それらの職人の技術が生かされているとの伝承もある。

現在の根来寺の大部分は、江戸時代に紀州徳川家の庇護を受け復興されたものである。

                                 民俗資料館