1月の中旬に乙訓郡大山崎町に或る宝積寺を訪ねた。
【宝積寺は寺伝よると、奈良時代(724年)に聖武天皇が僧行基に命じて建立したと
いわれる古寺です。境内は広く、山門から一直線にのびる参道の右側には桃山時代の
建築で重文の三重塔、さらに進むと本瓦葺きの堂々とした本堂があります】
(現地案内板より)

宝積寺は、行基が725年、淀川に「山崎橋」(山崎と対岸の八幡市橋本)を建てた際に、
橋寺として創建した「山崎院」の後身と考える説もあります。
宝積寺は、古くは「宝寺」と呼ばれていました。大正4年にこの地を訪れた夏目漱石が、
「宝寺の隣に住んで桜哉」の句を詠んだ宝寺は、宝積寺の事です。

「大山崎町の案内板」によると
【戦国時代の終わり、山崎合戦の折には羽柴秀吉が一時当寺を陣所とし、合戦後宝寺も
山崎城の一部として利用されたと伝えられる。】
宝積寺は、貞永元年(1232)の火災で焼失し、現存する建築物や仏像等はこれ以降の
ものである。

禁門の変(1864年)では尊皇攘夷派の真木保臣を始めとする十七烈士らの陣地が置かれた。
お寺の途中にある墓には、十七烈士の碑があり、天王山山頂付近には十七烈士の墓が或る。

境内奥からは、天王山の山頂へのハイキング登山口となっていて、多くの家族連れのハイカー
達が、寒さに負けず元気に登って行った。
また、宝積寺の直ぐ横には、有名な「アサヒビール大山崎山荘美術館」が或る。
(十七烈士の墓)
【宝積寺は寺伝よると、奈良時代(724年)に聖武天皇が僧行基に命じて建立したと
いわれる古寺です。境内は広く、山門から一直線にのびる参道の右側には桃山時代の
建築で重文の三重塔、さらに進むと本瓦葺きの堂々とした本堂があります】
(現地案内板より)


宝積寺は、行基が725年、淀川に「山崎橋」(山崎と対岸の八幡市橋本)を建てた際に、
橋寺として創建した「山崎院」の後身と考える説もあります。
宝積寺は、古くは「宝寺」と呼ばれていました。大正4年にこの地を訪れた夏目漱石が、
「宝寺の隣に住んで桜哉」の句を詠んだ宝寺は、宝積寺の事です。


「大山崎町の案内板」によると
【戦国時代の終わり、山崎合戦の折には羽柴秀吉が一時当寺を陣所とし、合戦後宝寺も
山崎城の一部として利用されたと伝えられる。】
宝積寺は、貞永元年(1232)の火災で焼失し、現存する建築物や仏像等はこれ以降の
ものである。


禁門の変(1864年)では尊皇攘夷派の真木保臣を始めとする十七烈士らの陣地が置かれた。
お寺の途中にある墓には、十七烈士の碑があり、天王山山頂付近には十七烈士の墓が或る。


境内奥からは、天王山の山頂へのハイキング登山口となっていて、多くの家族連れのハイカー
達が、寒さに負けず元気に登って行った。
また、宝積寺の直ぐ横には、有名な「アサヒビール大山崎山荘美術館」が或る。

