10月の晴天のある日、伊賀市大山田の新大仏寺を訪ねた。
さすがに紅葉には、まだ早く訪れる人も少なく、じっとりと汗がにじむ気配に
残暑の名残さえ感じる気候だった。
新大仏寺は、1202年年に源頼朝が後鳥羽法皇の勅願寺として開創した。
開山は俊乗房重源上人で、真言宗の寺である。
門前の案内板には
【本尊の木造如来坐像(4.05m)は、仏師快慶の作で
「阿波の大仏さん」として広く親しまれています】
と案内されている。
1180(治承4)年12月、平重衡の軍勢は、南都を焼討ちし東大寺や興福寺を炎上させ、
夥しい仏閣や仏像を焼失させた。
多くの人々の怨嗟と嘆き中、翌年には早くも大仏復興の動きが現れ、
俊乗房重源が大勧進上人として抜擢された。実に重源上人61歳であったという。
重源上人は、東大寺復興造営のために各地に「別所」と呼ばれる出先機関を設置している。
この伊賀市大山田の新大仏寺も「伊賀別所」と呼ばれ、
重源上人が設置した7つの別所の一つに当たる。
その目的は、多くの山に囲まれた伊賀のこの地から、
東大寺復興の用材を確保することだったされている。
他の別所は、東大寺別所、高野新別所、摂津国渡辺別所、播磨別所、
備中別所、周防別所の6ヶ所である。
7つの別所の本尊は、どこも阿弥陀如来像であるが、
この寺のみ像の高さが約5mと大きな阿弥陀如来立像であったと伝わる。
その後、江戸中期頃に仏師祐慶により今の如来座像に修復された。
このような由緒を持つ新大仏寺であるが、やがて東大寺の復興も終わり重源自身も没すると、
次第に衰退していったようである。1689(貞享5)年旅の途中に、この寺を訪れた松尾芭蕉は、
その荒れ果てた寺の惨状を「丈六に陽炎高し石の上」と嘆きの句を詠んだ事が伝わっている。
さすがに紅葉には、まだ早く訪れる人も少なく、じっとりと汗がにじむ気配に
残暑の名残さえ感じる気候だった。
新大仏寺は、1202年年に源頼朝が後鳥羽法皇の勅願寺として開創した。
開山は俊乗房重源上人で、真言宗の寺である。
門前の案内板には
【本尊の木造如来坐像(4.05m)は、仏師快慶の作で
「阿波の大仏さん」として広く親しまれています】
と案内されている。
1180(治承4)年12月、平重衡の軍勢は、南都を焼討ちし東大寺や興福寺を炎上させ、
夥しい仏閣や仏像を焼失させた。
多くの人々の怨嗟と嘆き中、翌年には早くも大仏復興の動きが現れ、
俊乗房重源が大勧進上人として抜擢された。実に重源上人61歳であったという。
重源上人は、東大寺復興造営のために各地に「別所」と呼ばれる出先機関を設置している。
この伊賀市大山田の新大仏寺も「伊賀別所」と呼ばれ、
重源上人が設置した7つの別所の一つに当たる。
その目的は、多くの山に囲まれた伊賀のこの地から、
東大寺復興の用材を確保することだったされている。
他の別所は、東大寺別所、高野新別所、摂津国渡辺別所、播磨別所、
備中別所、周防別所の6ヶ所である。
7つの別所の本尊は、どこも阿弥陀如来像であるが、
この寺のみ像の高さが約5mと大きな阿弥陀如来立像であったと伝わる。
その後、江戸中期頃に仏師祐慶により今の如来座像に修復された。
このような由緒を持つ新大仏寺であるが、やがて東大寺の復興も終わり重源自身も没すると、
次第に衰退していったようである。1689(貞享5)年旅の途中に、この寺を訪れた松尾芭蕉は、
その荒れ果てた寺の惨状を「丈六に陽炎高し石の上」と嘆きの句を詠んだ事が伝わっている。