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三重県伊賀市の新大仏寺

2012-10-20 05:43:31 | 古寺(古事)探訪記
10月の晴天のある日、伊賀市大山田の新大仏寺を訪ねた。
さすがに紅葉には、まだ早く訪れる人も少なく、じっとりと汗がにじむ気配に
残暑の名残さえ感じる気候だった。



新大仏寺は、1202年年に源頼朝が後鳥羽法皇の勅願寺として開創した。
開山は俊乗房重源上人で、真言宗の寺である。
門前の案内板には

【本尊の木造如来坐像(4.05m)は、仏師快慶の作で
「阿波の大仏さん」として広く親しまれています】

と案内されている。



1180(治承4)年12月、平重衡の軍勢は、南都を焼討ちし東大寺や興福寺を炎上させ、
夥しい仏閣や仏像を焼失させた。
多くの人々の怨嗟と嘆き中、翌年には早くも大仏復興の動きが現れ、
俊乗房重源が大勧進上人として抜擢された。実に重源上人61歳であったという。



重源上人は、東大寺復興造営のために各地に「別所」と呼ばれる出先機関を設置している。
この伊賀市大山田の新大仏寺も「伊賀別所」と呼ばれ、
重源上人が設置した7つの別所の一つに当たる。
その目的は、多くの山に囲まれた伊賀のこの地から、
東大寺復興の用材を確保することだったされている。
他の別所は、東大寺別所、高野新別所、摂津国渡辺別所、播磨別所、
備中別所、周防別所の6ヶ所である。
7つの別所の本尊は、どこも阿弥陀如来像であるが、
この寺のみ像の高さが約5mと大きな阿弥陀如来立像であったと伝わる。
その後、江戸中期頃に仏師祐慶により今の如来座像に修復された。




このような由緒を持つ新大仏寺であるが、やがて東大寺の復興も終わり重源自身も没すると、
次第に衰退していったようである。1689(貞享5)年旅の途中に、この寺を訪れた松尾芭蕉は、
その荒れ果てた寺の惨状を「丈六に陽炎高し石の上」と嘆きの句を詠んだ事が伝わっている。