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浜松市の「気賀関所」探訪記

2013-01-19 20:46:45 | 古寺(古事)探訪記
所用が有って静岡浜松市まで自家用車で行った。
途中、浜松市細江町に在る「気賀関所」の復元館を訪ねた。
気賀関所は、慶長6年(1601)に徳川家康によって創建されたと伝わる。




江戸時代の関所は、幕府の所在する江戸の防備を目的として設置された。
一般に「入り鉄砲に出女」といわれるように、鉄砲が江戸に持ち込まれることや、
人質として住まわせていた大名の妻子などが国元へ逃げ帰ることを防ぐための監視を中心に、
往来する人々や荷物の取調べを行った。
こうした関所業務は、以後明治2年(1869)の関所廃止まで、実に260余年もの間、続けられた。



気賀関所の関守は、旗本の近藤家が代々拝命したが、それは明治2年の関所廃止まで続いた。
気賀関所の約550坪の敷地内は、冠木門、本番所、向番所(牢屋)、遠見番所、町木戸等の
建物で構成されていた。
変わったところでは、享保14年(1729)中国の清朝から8代将軍吉宗に献上された「象」が、
京都から江戸へ向かう途中に、この気賀宿に泊まった。多くの沿道の百姓たちは、仕事をやめて
初めて見る「ゾウ」の大きさに、大変驚いたと「案内リーフレット」に書かれている。


  

浜松市の案内板に、以下のように書かれていた。

     【江戸時代、細江町を東から西に横切っていた街道を、東海道本坂越又は
     本坂道・本坂街道・姫街道などと呼んでいた。姫街道の要衝地であった気賀上村に、
     徳川家康は早くから関所を設けて、「入り鉄砲と出女」の監視を中心に、
     通行する人々や荷物の取り調べを行った。
     その後、箱根にも関所が造られ気賀関所は、箱根関所・今切(新居)関所とともに、
     東海道の3関所といわれ明治2年まで続いた(後略)】
     現在の気賀関所は、平成元年の「ふるさと創生事業」として、
     現存する資料に基づいて再建、再現されたものである】


  

★冠木門(かぶきもん)
  今で言うなら「正面玄関」で、ずいぶん立派な門である。

★本番所(ほんばんしょ)
  上の間、中の間、女改めから成り、「入り鉄砲」、「出女」の取調べが行なわれた。
  番頭2名、平番4~5名が交替で勤務した。

★向番所(むかいばんしょ)
  関所としては珍しく、牢屋があった。

★遠見番所(とおみばんしょ)
  火の見櫓のような建物、上に釣鐘が掛けてあり、下には大砲一門が設置されていた。