gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

京都府木津川市の泉橋寺

2013-02-02 20:15:54 | 古寺(古事)探訪記
1月の小春日和の日、木津川市の泉橋寺を訪ねた。
この寺は、天平12(740)に僧行基によって、木津川に架けられた橋の管理や
木津川で命を落とした人々の供養や救済をする寺院として建立された。(当初は泉橋院)
創建時の泉橋寺は七堂伽藍を備えた立派な寺院だったが、
平安時代後期の平重衡の南都攻めの際に大半を焼失してしまった。
更に1470年前後の応仁の乱でも、大きな打撃を受けた。


  

  

今では、この寺の前にある大きな地蔵像が有名で山城大仏と呼ばれ、
古寺巡りのコースとなっている。
このお地蔵さんは、高さ4.85mにもなる大きなもので、
案内板には
   
  泉橋寺は、奈良時代の高僧行基によって、木津川に架けられた泉大橋を
  守護・管理するために建立された寺院である。
  その門前にある地蔵石仏は、永仁3年(1295)に石材が切り
  始められて、その13年後の徳治3年(1308)に地蔵堂が上棟・
  供養されたもので、またその願主は般若寺の真円上人であった。
          (中略)
  1470年頃から応仁の乱の影響が南山城地域にも及び、
  文明3年(1471)に大内政弘の軍勢が木津や上狛を攻めて焼き払った際に、
  泉橋寺地蔵堂も焼かれて石仏も焼損、それ以来地蔵石仏は露座のままとなっている。
  現在にみる地蔵石仏の頭部と両腕は、元禄3年(1690)に補われたものである。


と書かれている。
確かに、お地蔵さんの周りには、地蔵堂の礎石のみが整然と並んでいた。


  

また泉橋寺は、平安時代中頃に流行した「初瀬詣で」(長谷寺詣で)で京都の貴族の婦人たちが、
京都から奈良の長谷寺へ詣でる旅の途中、この寺で一夜の宿を取ったといわれている。
中でも、「蜻蛉日記」の作者藤原道綱母は、その日記に、
朝早く舟で賀茂川を下った一行は、宇治院(藤原師氏の別荘)で昼食、奈良街道を下って夕方、
この泉橋寺に到着し、この寺で一泊したと書かれている。
この泉橋寺の夕食に出された「きざんだ大根に柚子の汁の和えもの」を旅先の田舎料理として、
大変印象深かったとも書いている。(上巻)
「蜻蛉日記」の作者藤原道綱母が、この寺に泊まった968年頃は、
七堂伽藍、宿坊も備わった大寺院だったと思われる。(この時、推定32歳)

「蜻蛉日記」の作者である藤原道綱母は、夫である藤原兼家との結婚生活を嘆き悲しんで作った、
次の歌が百人一首に集録されている。


  【嘆きつつ ひとり寝る夜の 明くる間は いかに久しき ものとかは知る】

  

当時木津川の水量は、今よりも比較にならないくらい多く、この川に橋を架ける工事は、
大事業で難事業でもあったようだ。併せて難工事につきものの多くの工夫たちの犠牲も伴った。
泉橋寺は、小さいお寺だが宇治橋(646年架橋)の橋寺と同じように、
橋の守護と犠牲者の供養のため1200余年の間、法灯を守り今に伝えている。