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京都山城町の「蟹満寺」

2010-11-27 07:02:25 | 古寺(古事)探訪記

                                 縁起を伝える扁額

京都木津川市山城町の「蟹満寺」を訪ねた。
この寺は、国宝の釈迦如来坐像と「今昔物語集」巻16に収められた、
蟹満寺縁起で有名な真言宗智山派の古刹である。
しかし、創建した者や年代が定かでない、謎の多いお寺でもある。
国宝の釈迦如来坐像は、初唐様式の2.6mの堂々とした仏像だが、
人間味を帯びたお顔で親しみ易く感じられた。
平安時代に大きな火災に遭い創建時の金堂が焼失し、同時にこの像も被害を受けたらしい。
平成2年、蟹満寺本堂の西側で調査が行われ、創建当初は広大な寺院だった事が判明した。
現在は本堂と観音堂などを残すだけの小さなお寺となっている。
今昔物語集等に書かれている「蟹満寺縁起」は、蟹の恩返しによって救われた娘さんの
お話で仏教説話として有名で広く伝わっている。

またこの寺は、毎年4月の蟹供養放生会でも有名で、カニ業者や一般の方々が参列して、
沢カニを放生し、その年のカニの豊魚と商売繁盛を祈願する。
本堂には、蟹と蛇の彫刻に彩色された額が掲げられている。


寺の門内横に立てられた、次の「報恩の教え」が印象的だった。

悟无(さとりな)き蟹だに 猶(なほ) 恩を受くれば 恩を返報(かえ)す
豈(あに) 人にして 恩を忘る應(べ)からむや




京都二条公園の【鵺(ぬえ)池】と【鵺大明神】

2010-11-20 07:08:56 | 古寺(古事)探訪記
 

京都の二条城とNHK京都支局の間に「二条公園」があり、その北端に【鵺池】と【鵺大明神】が祀られている。
大明神と冠されているが、祠と鳥居が有るだけの小さな神社である。
平安時代この地域は、内裏や大極殿等があり国家の中心地だった。
平家物語によると平安時代後期の頃、内裏に怪しい鳥(鵺)が夜毎に現れて天皇を悩ませていた。
退治を命じられた近衛兵の源頼政は、屋根上にいた鵺を自慢の弓矢によって射殺した。
この鵺は、頭が猿、体は狸、四肢は虎、尾が蛇という姿をしていたと伝えられている。
その時、血の着いた鏃(やじり)を洗った池が【鵺池】で、また鵺を祀った祠が【鵺大明神】と言われている。
退治された鵺のその後については、平家物語や謡曲に次のような説話がある。

都の人々は鵺の祟りを恐れて、鵺の屍骸を小船に乗せて桂川に流した。
桂川から淀川に流れ出た屍骸は、流域の村々に疫病を蔓延させて大阪都島区に漂着した。
都島の人々は、疫病の流行が鵺の崇りと考え、この屍骸をねんごろに葬り【鵺塚】を造って弔ったとされる。

この【鵺】は、昭和55年に「大阪港紋章」のデザインとして採用されている。
その理由は、頼政の鵺退治の伝説から大阪(淀川)の水辺と縁の深い「怪獣」で、
しかも塚を造って「ねんごろに祀った」事により、最も大阪港を印象づけるのに相応しい図案とされた。
ただ鵺塚は、ここ以外に兵庫県芦屋市にもある。


  
   ">(大阪市都島の鵺塚)                 (大阪港紋章のデザイン)

京都木津川市の神童寺

2010-11-14 09:33:18 | 古寺(古事)探訪記
  

京都の加茂町や山城町(合併により木津川市に)は、
その昔、平城京から見れば山の後ろ側という意味合いで山背(やましろ)と呼ばれた。
しかし、この地域は、一時期であるが平城京から遷都された。
恭仁京として大極殿が建てられたこの地は、平城京の風土の色濃く漂う地理的環境の中にあって発展してきた。
それ故、浄瑠璃寺・岩船寺・蟹満寺・海住山寺・泉橋寺・太智寺・神童寺等の上代の貴重な寺院が多く存在する。
この地域の神童寺は、小さいながらも豊かな事跡に富んだ古刹だ。かつてのこのあたりは、桜が多かったという。
寺の境内にも桜が多かったので「北の吉野山」とも呼ばれ、そのまま、この「北吉野山」が神童寺の山号にもなった。
しかし今は、桜でなく「みつばつつじ」が本堂の裏山一帯に咲き誇る。
寺伝では、聖徳太師の創建と言われ法隆寺よりも10年ほど古いとされ、真言宗智山派の寺である。
それだけに、本堂蔵王堂、不動明王立像、日光・月光菩薩立像、阿弥陀釈迦如来坐像、毘沙門天立像等の多くが
国の重要文化財に指定されている。
神童寺は、これらの重文建造物や諸仏だけでなく、早春桜より少し早めに咲く「みつばつつじ」
が見もので、本堂裏山一帯を鮮やかな桃色に染める風景は、見る者を感動させてくれる。


  

◎一昨年4月に撮った境内に咲く「みつばつつじ」

  

奈良坂の般若寺

2010-11-13 08:24:03 | 古寺(古事)探訪記


「般若寺」は、寺伝によると飛鳥時代の開創という古刹寺院である。
宗派は西大寺の叡尊が再興した「真言律宗」で山号を「法性山(ほっしょうざん)」という。
寺伝によると629年高句麗の僧慧灌が、この地に寺を建て文殊菩薩像を奉ったことから始まり、
その後735年聖武天皇の時代に平城京の鬼門鎮護のため堂塔を建立されたと伝えられている。
しかし、確かな事は定かでない。
京都から奈良への要所にあったため、歴史上二度も大きな戦火に見舞われた。
一つは1180年平重衡による南都焼き討ち、
今ひとつは1567年松永久秀の東大寺大仏殿での戦いである。
このうち1180年(治承4年)の戦災時は、西大寺の叡尊により復興され、
庶民救済の文殊会を頻繁に開き多くの貧民を助けた。
国宝である楼門は、鎌倉期の優美な建築様式を今に伝えている。
楼門の奥正面に立つ十三重石塔は、高さ約14m、重要文化財の指定を受けている。

またこの寺は「関西花の寺25所」としても有名で、
石仏のまわりに咲く春の山吹、秋のコスモスなどが美しく多くの
参拝客が絶えない。楼門から十三重塔を眺めるのが絶景のポイントだ。


京都加茂町の海住山寺

2010-11-06 18:33:34 | 古寺(古事)探訪記
 

京都木津川市加茂町の海住山寺を訪ねた。
かつて恭仁京(くにのみや)があった瓶原(みかのはら)を見下ろす三上山の中腹にある。
恭仁京造営の6年前の735年に、聖武天皇が東大寺の大仏工事の無事を祈願するために建てられたと伝わる。
創建時は観音寺と呼ばれた。
しかし1137年に全山焼失に遭い、その70年後に解脱上人貞慶によって海住山寺として再建された。
境内奥からの眺めは絶景で、瓶原(みかのはら)の平野と遠くの山なみが、あたかも南海の海上に浮かぶ
極楽浄土のように感じられ、観音の浄土にちなんで「海住山寺」と名付けられた。

この寺の五重塔は鎌倉時代(1214年)の建立で、高さ17.1mと室生寺の五重塔に次いで小さい。
京都東寺の五重塔(54.8m)の3分の1にも満たない。
東寺も奈良興福寺の五重塔(50.1m)も平地寺院だが、山地に建てられた海住山寺の五重塔は、
山地ゆえに小さくしなければならなかったのでは。
室生寺も室生山の傾斜地を利用した山岳寺院である。