伝説の万葉の歌人、額田王の事跡を訪ねて、奈良大和郡山市の額安寺を訪ねた。
額安寺の前身は、額田寺とされている。
1250年ほど前の天平宝字年間(757 - 765年)、この地の豪族、額田部氏の氏寺であったそうです。
額田寺伽藍条里図(国宝)によると、
額田寺の全盛期の寺域は大変広く、南北約200メートル、東西300メートルに及び
七堂伽藍が整った立派な寺であったらしい。
しかし、幾多の変遷を経て、今日の額安寺にその法灯を伝えています。
寺の名前の由来は、 推古天皇がおでこに腫れ物を病まれた際に、
この寺の前身である額田寺熊凝精舎の薬師如来に祈願されたところ、
跡形もなく全快されたことから「額安寺」の寺号を賜ったと伝えられています。
額安寺の門前に立てられた案内文
額安寺(かくあんじ)
聖徳太子は、ここに学問修行の道場(熊凝の精舎)を建てられ、
叔母君推古天皇は、この精舎に寺号<額安寺>を賜ったと
伝えられています。
このあたりは古代水運の要所で外国使臣や文物の上陸場所であり、
額安寺は、その受け入れ口に規模壮大な七堂伽藍を備えた寺として
臨んでいました。(中略)
しかし時と共に衰退し、鎌倉時代には僧忍性等によって
一時復興されましたが、のち兵火のため講堂一宇(今の本堂)を
残すのみとなってしまいました。 平成五年十月 大和郡山市
今年の2月16日放送されたNHKの歴史秘話ヒストリア
【感動!「万葉集」ヒットパレード】の取材で、「額田王が歌の勉強したお寺」として、
撮影スタッフが額安寺に取材に来たそうです。
しかし、残念ながら、寺側がそのような事跡は残っていませんと否定されたらしい。(?)
額安寺の前身は、額田寺とされている。
1250年ほど前の天平宝字年間(757 - 765年)、この地の豪族、額田部氏の氏寺であったそうです。
額田寺伽藍条里図(国宝)によると、
額田寺の全盛期の寺域は大変広く、南北約200メートル、東西300メートルに及び
七堂伽藍が整った立派な寺であったらしい。
しかし、幾多の変遷を経て、今日の額安寺にその法灯を伝えています。
寺の名前の由来は、 推古天皇がおでこに腫れ物を病まれた際に、
この寺の前身である額田寺熊凝精舎の薬師如来に祈願されたところ、
跡形もなく全快されたことから「額安寺」の寺号を賜ったと伝えられています。
額安寺の門前に立てられた案内文
額安寺(かくあんじ)
聖徳太子は、ここに学問修行の道場(熊凝の精舎)を建てられ、
叔母君推古天皇は、この精舎に寺号<額安寺>を賜ったと
伝えられています。
このあたりは古代水運の要所で外国使臣や文物の上陸場所であり、
額安寺は、その受け入れ口に規模壮大な七堂伽藍を備えた寺として
臨んでいました。(中略)
しかし時と共に衰退し、鎌倉時代には僧忍性等によって
一時復興されましたが、のち兵火のため講堂一宇(今の本堂)を
残すのみとなってしまいました。 平成五年十月 大和郡山市
今年の2月16日放送されたNHKの歴史秘話ヒストリア
【感動!「万葉集」ヒットパレード】の取材で、「額田王が歌の勉強したお寺」として、
撮影スタッフが額安寺に取材に来たそうです。
しかし、残念ながら、寺側がそのような事跡は残っていませんと否定されたらしい。(?)