先週の礼拝にMさんが来られた。
毎年クリスマスの頃には来てくださる。
彼女は教会員のO姉の紹介で知り合った。とてもバイタリティーあふれる、明るいキャラクターの人。
彼女にも自閉症のお子さんがいらっしゃる。いつだったかとても温かい手紙をいただいてとても励まされたものだ。
そんな彼女が来てくれたのだ。
なんだか心がざわついているから教会にきたら落ち着くかなと思ってきたのだという。
それも旦那様が新聞に入った私たちの教会のクリスマス礼拝の案内を見て、行ってきたらというのでなんとなく呼ばれている気がしたらしい。
きてくれてとてもうれしかったよ。
講演会とかでよくあった彼女、あまり合わなくなった。この頃お子さんの話も聞かないし、どうしてるだろうと思っていたのだった。
帰り際、そんな話をしながら明るく彼女がこういうのだ。
一生懸命やってるのに、なんでこんなことが起こるんだろう。どうしてなんですか?神様。と文句をいいたいと。詳しいことはいわない。
ああ、何かあったのか・・・・。Mさんが、お子さんと学校との間で並々ならぬ努力と苦労をしてきたのを私は知っている。
その気持ち、わかる気がする。
私だって同じ気持ちになるもの。
この頃神様にそんな祈りを、というか文句をいつも言っている。
いつもこんなことを夢見てた。
長男の障害ゆえにトラブルになるたびに、長男をトラブルメーカーのように見ていたクラスメイトのお母さんたちにいつか見返す日がきっと来る。この子はちょっと変わった子だけども他の子にないいいところやすごいところを見せてやれる日がきっと来ると、自分勝手に思っていたんだ。
そして、きっとこの子は学校を卒業したらどこか就職して、これからはずっとうまくいくんだ、これまでずっと苦しんだ分私も、この子も幸せになるんだ、なんてそのようなことを考えていた。
でもうまくいかない。そりゃそうだ。だってこれは自分勝手な思いや願いだもの。
でも、思う。
私がもっと我慢をして長男を見守ってやれればいいのか?
そして、なおも文句をいってしまう。
神様、できませんよ、私には。
いったいいつまでですか?いつまで心を煩わされなければいけないのですか?私はもう十分やってきました。
天から授かったこの特別な子どもだけれど、神様、私は自信がありません。あなたの人選ミスです。とね。
Mさんも似たような思いはあったのかな?
いつだったか「人生の刺繍」についての記事を書いたことがある。
(障害とともに生かされる~高価で尊い~ヘルガ・タイス著、いのちのことば社のうけうりだけどね。。)
きっと私たちは神様が作る刺繍を裏から見てるんだろうね。天の御国に行く時、辛く悲しいごちゃごちゃした糸は美しい模様になってその時始めてみることができるのだ。
聖書の言葉は私の励ましであり、導きだ。
「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は神が行われるいわざを、始めから終りまで見極めることができない。」(伝道者の書3章11節)
「私はあなた方のために立てている計画をよく知っているからだー主の御告げ。-それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなた方に将来と希望を与えるためのものだ。」(エレミヤ書29章11節)
「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の手で、あなたを守る」(イザヤ章41章10節)
「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見える者は一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(コリント人への手紙第2、4章16~18節)
神様は目に見えないけど、私は文句を言いながらも信じる。
目に見えないことを信じることが信仰だから。
Mさんの上に神様の慰めと導きがありますように。

ポチっとな。
毎年クリスマスの頃には来てくださる。
彼女は教会員のO姉の紹介で知り合った。とてもバイタリティーあふれる、明るいキャラクターの人。
彼女にも自閉症のお子さんがいらっしゃる。いつだったかとても温かい手紙をいただいてとても励まされたものだ。
そんな彼女が来てくれたのだ。
なんだか心がざわついているから教会にきたら落ち着くかなと思ってきたのだという。
それも旦那様が新聞に入った私たちの教会のクリスマス礼拝の案内を見て、行ってきたらというのでなんとなく呼ばれている気がしたらしい。
きてくれてとてもうれしかったよ。

講演会とかでよくあった彼女、あまり合わなくなった。この頃お子さんの話も聞かないし、どうしてるだろうと思っていたのだった。
帰り際、そんな話をしながら明るく彼女がこういうのだ。
一生懸命やってるのに、なんでこんなことが起こるんだろう。どうしてなんですか?神様。と文句をいいたいと。詳しいことはいわない。
ああ、何かあったのか・・・・。Mさんが、お子さんと学校との間で並々ならぬ努力と苦労をしてきたのを私は知っている。
その気持ち、わかる気がする。
私だって同じ気持ちになるもの。
この頃神様にそんな祈りを、というか文句をいつも言っている。
いつもこんなことを夢見てた。
長男の障害ゆえにトラブルになるたびに、長男をトラブルメーカーのように見ていたクラスメイトのお母さんたちにいつか見返す日がきっと来る。この子はちょっと変わった子だけども他の子にないいいところやすごいところを見せてやれる日がきっと来ると、自分勝手に思っていたんだ。
そして、きっとこの子は学校を卒業したらどこか就職して、これからはずっとうまくいくんだ、これまでずっと苦しんだ分私も、この子も幸せになるんだ、なんてそのようなことを考えていた。
でもうまくいかない。そりゃそうだ。だってこれは自分勝手な思いや願いだもの。
でも、思う。
私がもっと我慢をして長男を見守ってやれればいいのか?
そして、なおも文句をいってしまう。
神様、できませんよ、私には。
いったいいつまでですか?いつまで心を煩わされなければいけないのですか?私はもう十分やってきました。
天から授かったこの特別な子どもだけれど、神様、私は自信がありません。あなたの人選ミスです。とね。
Mさんも似たような思いはあったのかな?
いつだったか「人生の刺繍」についての記事を書いたことがある。
(障害とともに生かされる~高価で尊い~ヘルガ・タイス著、いのちのことば社のうけうりだけどね。。)
きっと私たちは神様が作る刺繍を裏から見てるんだろうね。天の御国に行く時、辛く悲しいごちゃごちゃした糸は美しい模様になってその時始めてみることができるのだ。
聖書の言葉は私の励ましであり、導きだ。
「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は神が行われるいわざを、始めから終りまで見極めることができない。」(伝道者の書3章11節)
「私はあなた方のために立てている計画をよく知っているからだー主の御告げ。-それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなた方に将来と希望を与えるためのものだ。」(エレミヤ書29章11節)
「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の手で、あなたを守る」(イザヤ章41章10節)
「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見える者は一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(コリント人への手紙第2、4章16~18節)
神様は目に見えないけど、私は文句を言いながらも信じる。
目に見えないことを信じることが信仰だから。
Mさんの上に神様の慰めと導きがありますように。

ポチっとな。