「旅行を一か月にする。東京に行くのも、これが最後かもしれないからね」と久子は宣言した。
タカシ兄さんが会いたいと言っていたから、なるだけ早く顔だけでも見せようと考えていた。しかし、その兄さんが亡くなった今、急ぐ理由はない。幸い、千葉に住む娘も「好きなだけ泊まっていけばいいから」と言ってくれている。
「店はどうするんだよ?」と夫はむくれた。しかし、以前店員をやってくれていた近所の主婦が、臨時のパートに来てくれることになった。本来なら、息子夫婦を強制的にでも手伝わせればよいのに、夫はそれをしない。
「俺たちの最大の失敗は、子供を大学に出したことだよなあ」と夫は時々言う。
下手に学問なんか身につけると、親の職業を馬鹿にするようになり、結局跡取りを拒否されて店がつぶれるというのだ。
しかし、夫は、息子夫婦の前では、そんなことはおくびにも出さない。愛想笑いを浮かべているだけだ。そういう態度が、久子は気に食わない。
久子は、近頃、膝と腰が痛むようになってきたので、荷物はすべて前もって宅配便で送り、身軽ないでたちで飛行機に乗った。
羽田では、娘の仁美が迎えにきてくれた。
最初の二日間は、家の周りを少し散歩するくらいで、あとはゆっくりと娘と時間を過ごす。娘は看護師と介護士の資格を持っており、働こうと思えばいつでも働けるのだが、今年いっぱいは働く気がしないと言う。
「お金持ちじゃないけど、そんなに切羽詰まった状況でもないしね」
一人息子が就職して家を出て行ったので、気楽なのだ。
旦那さんは食品工場の勤めているが、これが気兼ねのいらない、久子にとってはありがたい娘婿である。というのは、ほとんど顔を合わせずにすむからだ。朝は早く起きて一人で食事を済ませ、前の夜に仁美が作った弁当をカバンに押し込んで出ていく。夜は遅い。遅くないときも、食事が終わるとすぐに自分の部屋に閉じこもる。酒もギャンブルもやらず、いつも無口だ。
仕事が忙しいわけではない。趣味の囲碁に血道を上げているのだ。
「十年くらい前からかしらねえ、突然のめりこんで……」
通勤列車の中では詰碁をやり、工場の着いたら、始業時間までネット対戦。仕事が終わると、会社の囲碁クラブで打つか、または駅前の碁会所に寄り、仲間の手合いを観戦したり、亭主から指導を受けたりしている。休日は、ソファに陣取って録画したプロの対局を眺め、新聞の囲碁欄の見ながら、石を並べる。昼食をとると、ぶらりと家を出て、いつもの碁会所へ。帰ってくるのは遅い。
「まあ、手間がかからないだけ楽といえば楽なんだけど」と、仁美はため息をつく。
タカシ兄さんが会いたいと言っていたから、なるだけ早く顔だけでも見せようと考えていた。しかし、その兄さんが亡くなった今、急ぐ理由はない。幸い、千葉に住む娘も「好きなだけ泊まっていけばいいから」と言ってくれている。
「店はどうするんだよ?」と夫はむくれた。しかし、以前店員をやってくれていた近所の主婦が、臨時のパートに来てくれることになった。本来なら、息子夫婦を強制的にでも手伝わせればよいのに、夫はそれをしない。
「俺たちの最大の失敗は、子供を大学に出したことだよなあ」と夫は時々言う。
下手に学問なんか身につけると、親の職業を馬鹿にするようになり、結局跡取りを拒否されて店がつぶれるというのだ。
しかし、夫は、息子夫婦の前では、そんなことはおくびにも出さない。愛想笑いを浮かべているだけだ。そういう態度が、久子は気に食わない。
久子は、近頃、膝と腰が痛むようになってきたので、荷物はすべて前もって宅配便で送り、身軽ないでたちで飛行機に乗った。
羽田では、娘の仁美が迎えにきてくれた。
最初の二日間は、家の周りを少し散歩するくらいで、あとはゆっくりと娘と時間を過ごす。娘は看護師と介護士の資格を持っており、働こうと思えばいつでも働けるのだが、今年いっぱいは働く気がしないと言う。
「お金持ちじゃないけど、そんなに切羽詰まった状況でもないしね」
一人息子が就職して家を出て行ったので、気楽なのだ。
旦那さんは食品工場の勤めているが、これが気兼ねのいらない、久子にとってはありがたい娘婿である。というのは、ほとんど顔を合わせずにすむからだ。朝は早く起きて一人で食事を済ませ、前の夜に仁美が作った弁当をカバンに押し込んで出ていく。夜は遅い。遅くないときも、食事が終わるとすぐに自分の部屋に閉じこもる。酒もギャンブルもやらず、いつも無口だ。
仕事が忙しいわけではない。趣味の囲碁に血道を上げているのだ。
「十年くらい前からかしらねえ、突然のめりこんで……」
通勤列車の中では詰碁をやり、工場の着いたら、始業時間までネット対戦。仕事が終わると、会社の囲碁クラブで打つか、または駅前の碁会所に寄り、仲間の手合いを観戦したり、亭主から指導を受けたりしている。休日は、ソファに陣取って録画したプロの対局を眺め、新聞の囲碁欄の見ながら、石を並べる。昼食をとると、ぶらりと家を出て、いつもの碁会所へ。帰ってくるのは遅い。
「まあ、手間がかからないだけ楽といえば楽なんだけど」と、仁美はため息をつく。
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