我が国最初の本格的な都城だった藤原京。筆者世代は岸俊男氏の復元案を通説として学んできました。ところが、最近は、岸説藤原京の「京域」の外で当事の道路遺構があちこちで発掘され、「大藤原京」説が有力な京域論になっています。
でも、大藤原京はその後に続く平城京や平安京よりも広い京域を占めるのです。そればかりか、大和三山はおろか、南の飛鳥丘陵地帯まで条坊道路が敷設されたことになります。
実際はそんなことはなかったと思いますが、それ以前の飛鳥盆地で歴代遷宮を繰り返していた7世紀代の天皇の宮を考えると、文献史学よりも学術的発見を優先したい専門家の気持ちはわかりますが、なんとなくしっくりしません。
そんなとき、先日民博の仁藤敦史教授の講演を拝聴する機会があり、藤原京の建設以前に条坊道路が築かれた理由をなんとなく理解できました。もちろん仁藤説も一つの仮説に過ぎませんが、腑に落ちるものがあります。彼の仮説の骨子の一部を橿原日記にまとめて見ました。ビジターの皆さんはどう思われますか?