パンチョの世に棲む日々

自称ドン・パンチョが訪れた名所旧跡の感想を綴ります。

夜の奈良ライトアッププロムナード

2011-07-27 17:16:22 | 日記

 現在、奈良市では世界遺産や歴史建造物をライトアップして古都奈良の夏の夜を演出しています。奈良国立博物館の特別展示の見学に出かけた後、夕涼みを兼ねて夜の歴史散歩を試みました。

 昼は観光客でけっこう賑わいを見せる観光名所が、日が落ちるとまったく人影がなくなり別の顔を見せるんですね。その閑古鳥が鳴くような寂しさには驚かされました。歴史建造物は、訪れる人もない夜の闇の中で浮き上がっていました。

 そうした景観をデジカメにおさめてきましたので、パンチョのデジタル・フォトアルバムにアップしておきました。下記のページにアクセスしてみてください。

http://www.bell.jp/pancho/photo_album/2011_07_26_nara.htm


万葉歌人大伴家持の謎

2011-07-24 11:14:33 | 日記

先日東京銀座で万葉集首都圏シンポジウムが開催され、暑い日だったので涼みがてらに参加しました。そのときの佐佐木幸綱氏の講演で、大伴家持が天平宝字三年(759)に42歳で詠んだ万葉歌(巻20-4516)が『万葉集』の最後の歌であり、それ以後は彼の歌は存在しないことを知りました。

しかし、史書によると、大伴家持は延暦4年(785)8月まで存命であり、68歳で没したとあります。ということは、『万葉集』第一の歌人がその後の26年間歌を残さなかったになります。

仮に759年をもって『万葉集』の編纂が打ち切られたとしても、彼がその後も作歌活動を続けておれば、古今和歌集などに家持の歌が収録されていてもよさそうですが、それもないとのことです。

この話を聞いて、家持という人物に興味を抱き、彼の生涯をトレースしてみました。果たして彼はその後も作歌活動を続けたのでしょうか、それとも打ち切ったのでしょうか? 万葉集に詳しいすみれさんならどのような意見をお持ちですか?


古代の王宮とケヤキの木

2011-07-11 08:23:22 | 日記

ケヤキは古くは槻(つき)と呼ばれ、神が降臨する依り代として聖なる木だったことは、知っていました。そのため、蘇我馬子が新しい神=仏を祀るため、わざわざ槻の樹が生えていた場所を選んて飛鳥寺を建立したと聞いていました。

でも、単なる聖樹である以上に、ヤマト王権のシンボルとしてさまざまな王宮が槻の樹のある場所に営まれたとは知りませんでした。先日、有楽町の朝日ホールでも世尾0された歴史文化講座で、元同志社大学教授の辰巳和宏氏からそのことをお聞きして驚きました。

さらに、近鉄橿原神宮前駅近くの混雑するばかりの「丈六」交差点付近が、古代には軽のチマタと呼ばれ、市場で賑わい、大きな池があり、槻の巨木がそびえていたと教えられました。わずか1400年前の光景です。

辰巳教授の講演の要旨を橿原日記にレポートしておきました。興味のある方は一度アクセスしてみてください。

http://www.bell.jp/pancho/k_diary-5/2011_07_07.htm


埼玉都民の償い

2011-07-02 11:27:39 | 日記

筆者の現役時代は、日本経済の高度成長期で企業戦士として働きに働かされました。土曜も日曜もなく自宅と都心の会社を往復する日々が続き、地元のことなど何の関心も抱かず過ごしてきました。そのため、カミサンからは地元の埼玉県も川口市のことも何もしらない「埼玉都民」とよく揶揄されました。

月日が経ち、そのカミサンも居なくなり、自宅にいるとやることもなく退屈な日々を過ごすようになりました。これではいけないと、埼玉都民の償いとして、遅ればせながら最近は地元の史跡巡りを始めました。

関西とは比べようもありませんが、川口市内にも結構興味を抱かせる史跡が点在しています。現在散策と情報収集を行って各スポットのレポートを作成しています。まだ途中ですが、その一部を公開します。興味のある方はHPの「歴史探訪ブース」→「国内編」→「番外」とお進みください。あるいは、下記アドレスからもアクセスできます。

http://www.bell.jp/pancho/travel/kawaguchi/index.htm