先週の日曜日、橿考研の友史会の2月例会に参加して、平群谷の古墳を巡ってきました。レポートは橿原日記にアップしておきました。
平群谷は古代氏族の平群氏が本拠としたところですが、以前から一つの疑問を抱いていました。平群氏といえば、『日本書紀』には応神天皇のころから軍事氏族として活躍し、履中天皇の時代に平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)が出て国政に携わるようになりました。そして、雄略天皇時代以降は、平群真鳥(まとり)が大臣(おおおみ)を歴任して一族の興隆を極めたとされますが、498年、武烈天皇即位前に、真鳥とその子の鮪(しび)が大伴金村に誅殺されて、本宗家は滅亡します。
しかし、木菟や真鳥、鮪の墓だ何処にあるのか、とんと私の耳には伝わってきません。当時は倭の五王の時代で、巨大な前方後円墳が河内平野に盛んに造られた時代で、しかも寿陵として生前に築かれたと聞いています。そうであれば、大王のもとで権勢を誇った物部氏の族長もそれなり墓を本拠地に築いたと思われます。
発掘調査で5世紀代から6世紀初頭に平群谷に築造されたとされる古墳は、剣上塚古墳、柿塚古墳、烏土塚古墳、三里古墳などがあります。しかし、いずれも規模が小さく、しかも烏土塚古墳以外はほとんどが円墳です。
競って巨大な大王陵が築かれた時代に、マヤト王権の中で大王に次ぐ権勢を誇った氏族の族長の奥津城としては、いずれの古墳も実際に訪れてみて、いささか貧弱に感じました。これらの古墳の他に、物部の族長にふさわしい古墳があるのでしょうか。ご存じの方がおられましたらご教授ください。
平群谷は古代氏族の平群氏が本拠としたところですが、以前から一つの疑問を抱いていました。平群氏といえば、『日本書紀』には応神天皇のころから軍事氏族として活躍し、履中天皇の時代に平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)が出て国政に携わるようになりました。そして、雄略天皇時代以降は、平群真鳥(まとり)が大臣(おおおみ)を歴任して一族の興隆を極めたとされますが、498年、武烈天皇即位前に、真鳥とその子の鮪(しび)が大伴金村に誅殺されて、本宗家は滅亡します。
しかし、木菟や真鳥、鮪の墓だ何処にあるのか、とんと私の耳には伝わってきません。当時は倭の五王の時代で、巨大な前方後円墳が河内平野に盛んに造られた時代で、しかも寿陵として生前に築かれたと聞いています。そうであれば、大王のもとで権勢を誇った物部氏の族長もそれなり墓を本拠地に築いたと思われます。
発掘調査で5世紀代から6世紀初頭に平群谷に築造されたとされる古墳は、剣上塚古墳、柿塚古墳、烏土塚古墳、三里古墳などがあります。しかし、いずれも規模が小さく、しかも烏土塚古墳以外はほとんどが円墳です。
競って巨大な大王陵が築かれた時代に、マヤト王権の中で大王に次ぐ権勢を誇った氏族の族長の奥津城としては、いずれの古墳も実際に訪れてみて、いささか貧弱に感じました。これらの古墳の他に、物部の族長にふさわしい古墳があるのでしょうか。ご存じの方がおられましたらご教授ください。