パンチョの世に棲む日々

自称ドン・パンチョが訪れた名所旧跡の感想を綴ります。

都内の桜見物part-3

2013-03-27 13:47:24 | 日記

またまた都内の桜見物にでかけ、Panchoのデジタル・フォトアルバムにアップしました。ただ、パソコンの調子が悪く、目次にタイトルを表示できません。 下記のアドレスからアクセスしてください。
 
http://www.bell.jp/pancho/photo_album/2013_03_26_tidorigafuti.htm
 
さらに、ファイルに取り込んだ写真の一部が誤表示されたり表示されなかったりの不具合が生じています。現在、原因を調べていますがどのソフトに問題があるのかしらべていますが、よく分かりません。見づらい点をあらかじめご承知置きください。


花の雲 鐘は上野か 浅草か

2013-03-24 08:11:08 | 日記

松尾芭蕉の句に”花の雲 鐘は上野か 浅草か”があります。花の雲とは花曇りのことではなく、桜の花が一面に満開になるさまを、雲に見立てた春の季語だそうです。

おそらく江戸の昔から、上野も浅草に近い墨田河岸も桜の名所だったのでしょう。この句に誘われて昨日も花見見物に出かけました。一昨年は橿原にいて、奈良県内の桜の名所をあちこち訪れました。それができない腹いせでしょうか。

日本では、桜と言えばソメイヨシノ。しかし、ソメイヨシノは自生種ではありません。江戸時代の1720-1735年ごろ、現在の東京都豊島区駒込にあった染井村で、造園師や植木職人達がエドヒガン"小松乙女"にオオシマザクラを人工交配して育成したされています。したがって、現在各地で咲き誇るソメイヨシノは接ぎ木を植林したものです。

上野と墨田川の満開の桜を次のサイトにアップして置きました。

http://www.bell.jp/pancho/photo_album/2013_03_23_ueno_asakusa.htm


東京の桜

2013-03-23 06:31:02 | 日記

今年は3月に入って平年より気温が高くなったことで、東京都心の桜の開花は予想をずいぶん上回り3月16日でした。今週の週末には満開の時期を迎えるそうです。

たまたま国会図書館に出向く用事があったので、帰りは春の暖かさに触発されて、東京駅まで散歩を兼ねて歩きました。国会周辺の桜はすでに満開でした。その様子をホームページの「Panchoのデジタル・フォトアルバム」で紹介しています。下記にアクセスしてみてください。

http://www.bell.jp/pancho/photo_album/2013_03_22_kokkai_shuhen.htm


神武即位年

2013-03-22 10:21:58 | 日記

かつらぎがわさんの投稿で教えていただいた宝賀敏男著「神武東征の原像」の中で紹介されている貝田禎造氏は、1935年吉野郡生まれの土木工学士です。1957年に近大理工学部土木工学科を卒業すると、奈良県技師として大和郡山市再開発課長、大宇陀土木事業所工務課長などを歴任され、1985年12月に「古代天皇長寿の謎 - 日本書紀の暦を解く」を出版されました。

かつらぎがわさんはその投稿の中で、”貝田氏は神武即位元年は176年,崩年は195年、治世期間は19年としており、私の推計値ともよく合致する”と宝賀氏が書かれていると紹介されていました。貝田氏がどのような根拠で、武即位年を176年と推定されたのかその根拠を知りたくて早速図書館から借りてその著書を一読してみました。

『日本書紀』には武天皇から持統天皇までの約1360年の期間に約1700件の日付けが太陰暦の干支で表示されています。貝田説のユニークな所は、1700件の干支で示された日付けを日・月毎の分布状態を調べ、ある規則性を導き出しておることです。たとえば、
① 日に関して、1日~15日に日付けが92%も集中している。特に、崇峻天皇までの32代天皇紀の中では綏靖~開化、成務、応神、安康、仁賢、武烈、崇峻については、16~30日の日付が一つもない。
② 月に関して、崇峻紀までの累計では、5・6月で大きな谷が現れ、1年が前半・後半に別れた山状になる。特に、綏靖~垂仁、応神~安康、清寧~武烈の期間には5・6月が一件もない。

このように、『日本書紀』の日や月の日付けが不自然な形で現れるのは、『日本書紀』編纂の時点で、『日本書紀』が机上の創作としてデッテ挙げられたものではなく、編纂の元となった旧暦の伝承を太陰暦に置き換える際の技術に起因していると考えられた。書紀の日付は記事の内容に応じて太陰暦と旧暦で表記されているが、両者とも一ヶ月、一ツキは30日の長さで扱われています。

しかし、①のように、日付けが1日~15日に集中しており、16~30日の日付が一つもない天皇紀があります。これは、旧暦では一ツキを15日としていた時期があることを示しています。つまり月の満ち欠けを観察して新月から満月までを1ツキ、満月から新月までを次の一ツキとカウントしていた時期は、16~30日という日付けは現れません。したがって旧暦の一ヶ月は2倍の長さに伸びている区間があることを示しています。

さらに、魏志倭人伝に示すように我が国で春秋年が用いられていました。太陰暦の1年が実は2トシに相当するそのトシの節目が②のように5・6月にきます。旧暦の一トシを太陰暦の1年に対応させた場合、太陰暦は旧暦を2倍の長さに伸びていることになります。
このように書紀に干支で示された1700件の分布状況を分析して、貝田氏は、『日本書紀』の編纂で旧暦の伝承を太陰暦に置き換える際に旧暦や春秋年の干支を配慮して、第16代仁徳天皇以前は旧暦の4倍(一ツキ=15日x春秋年)、第17代履中天皇から第21代雄略天皇の時代は2倍{一ツキ=30日x春秋年)になっていると計算されました。そして、第22代清寧天皇以後の伝承は太陰暦が用いられたため、紀年には手を加えていないとのことです。

さて、武天皇の即位年ですが、貝田氏はその著書の中では明確には言及されていません。ただし、第21代雄略天皇の没年を479年と仮定しそこから在位年数の23/2を引いた467年を第20代安康天皇の没年として計算しておられます。この計算で分母を2としているのは、この時代は書紀の紀年が2倍になっているとされているためです。こうした逆算は第15代応神天皇の没年(439-87/4)まで続き、応神天皇から前は紀年が4倍になっていると見ておられます。

このような次の天皇の没年と在位年の差からに直前の天皇天皇の没年を計算してゆくと、初代武天皇の没年は203.75(綏靖天皇の没年)ー33/4(綏靖の在位年数の1/4)=195.5年を武の没年としています。書紀では武の在位年数は76年、その1/4の19年が実際の在位年数と見なせば、即位年は宝賀氏の推定176年となります。

ただし、貝田氏のこの著書は副題に示しているように『日本書紀』に示された暦の解析がテーマであり、『古事記』との関連にはいっさい触れていません。また、『古事記』では治世年数を天皇践祚の年を元年とする当年称元法を採用しているのに対し、『日本書紀』では先帝崩御の翌年を当代の元年とする越年称元法で記述しています。そうした点でも各天皇の在位数は異なります。

さらに、考古学的知見もいっさい考慮されていません。武東征には6年を要しており、176年を武元年とするなら、170年に九州を進発して東征をおこなったことになります。しかし、170年代は倭国大乱以前であり、卑弥呼共立以前です。武が東征しなければならない理由がわかりません。


エル・グレコ展

2013-03-14 20:35:06 | 日記

昨日、知人と連れだって上野の東京都美術館で開催中の「エル・グレコ展」に出かけてきました。

エル・グレコと言えば、今でこそベラスケスやゴヤと並んでスペイン絵画の三大巨匠とされていますが、彼の名声を高めたのは20世紀になってピカソらがその作品を高く評価したためと言われています。したがって、本人の死後はかなり多くの作品がスペイン本国から散逸してしまい、マドリードのプラド美術館やトレドのエル・グレコ美術館以外に現在は世界各地の美術館・博物館で所蔵されています。

そうした散逸した作品を一堂に集めてエル・グレコの大回顧展が催されているとあっては、これを見過ごすわけにはいきません。実は、昨年の春にも同じ催しが大阪の国立国際美術館で開催され、その時も友人を誘って出かけてきました。エル・グレコは宗教画で有名ですが、肖像画も沢山描いています。実在の人物の肖像画だけでなく、聖書やカトリックの教えなどに登場する聖人なども実在の人物のように描いており、親しみ安いです。

展示された50点以上の作品をすべて紹介するわけにはいきませんが、小生が感銘を受けた作品のいくつかを紙上で紹介したく、橿原日記にアップしました。小生のHP(http://www.bell.jp/pancho/)にアクセスされたら、ついでにお立ち寄りください。