平安も末期、摂関政治は陰りを見せ、院政による「天皇父方の政治」の時代になっていた。これは、藤原氏と外戚関係を直接持たない、つまり摂関家がおじいちゃんでない後三条天皇の出現を契機として、その後継の白河天皇によって始まる。ちょっとした血脈の途切れがこういう事態を生むことに、藤原氏の権力基盤の脆さを思う。結局藤原氏は権力は手中にしても、権威は持てなかったのか。
さて、藤原通憲。入道して信西。この人物が気になっている。
彼は摂関家の出ではない。傍流である。
藤原氏は、祖である藤原不比等の息子のうち、房前より始まる北家が主流となっている。あの藤原仲麻呂の凋落により南家が没落し、またその後権力を握った式家は薬子の乱で力を失った。そして残った北家が、天皇家と巧みに姻戚関係を結び摂関の地位を占めてきた。藤原道長の時代に栄耀栄華は頂点を極めたとも言える。
信西は北家ではない。あの仲麻呂を生んだ南家の末裔である。彼は博覧強記、そして切れ者であったが、南家は政治の主流からはじき出されて久しい。なので信西は学問によって身を立てようとした。鳥羽天皇に仕え、「本朝世紀」などの史書の編纂も手がけた。鳥羽天皇の第四皇子である雅仁親王の乳母の紀伊局と結婚したことから、人脈的にも鳥羽天皇の信頼を得ていったと考えられる。しかし、それ以上の出世は家柄から言って望めない。政治に関わることも難しいポジションである。頼みの雅仁親王は暗愚と言われ今様(流行歌謡)ばかりやっている。
ところが、不思議な時代がやってくる。摂関家の弱体化もそうだが、天皇家のお家騒動によって雅仁親王に即位のチャンスがまわってくるのである。
何故こうなったかを簡潔に述べるのは難しい。事は白河上皇にまで遡るからである。
白河天皇は「院政の祖」である。端的に言えば自分の息子とその系譜に天皇位を継がせたいため、皇太弟が居たにも関わらず8歳の自分の息子を即位させ、上皇となり自らがその後見についた。これが院政の始まりである。幼帝を後見する役割であった摂政の位はこれで力を失った。8歳の堀河天皇が後に成人してもそのまま政治をとり続け、堀河が先に逝き孫の鳥羽天皇の代に至っても政権を手放さず、恐るべきことに曾孫の代の崇徳天皇まで43年間その地位に居座った。77歳で崩御。
さて、この曾孫の崇徳天皇が曰くつきなのである。崇徳天皇は、鳥羽天皇と待賢門院璋子との間の第一皇子とされている。ところが、崇徳は白河院主導により5歳で即位したのだが、父である鳥羽からは疎んじられた。これは真実であるかどうかは不明だが、待賢門院は鳥羽と結婚する前に既に老白河院の「お手つき」であったと言われる。つまり崇徳は白河院の子供だという話。白河の孫である鳥羽から見れば、公的には子供でありその実、叔父であるというのだ。ややこしい。
なので鳥羽は白河崩御の後、自分が院政を引き継ぐにあたって、寵愛していた美福門院との間に生まれた近衛に譲位を強要し崇徳を退位させる。崇徳は上皇となるが、もちろん鳥羽が健在であり政権はない。
ところが、近衛が早世してしまうのである。崇徳は自分の再度の登板、或いは長男の重仁親王の即位を期待した。しかし美福門院は「近衛の早世は崇徳の呪詛だ」と鳥羽院に訴え、崇徳系外し工作をする。ここで雅仁親王が浮かび上がるのである。
雅仁親王は鳥羽院と待賢門院の子であり、崇徳と同母だが、雅仁は間違いなく自分の血を引いている。鳥羽も「叔父子よりはマシ」という感覚だっただろう。
暗愚と言われた雅仁親王だが、その子の守仁親王が優秀であると言われ、雅仁親王は守仁立太子を見据えて、中継ぎを前提として即位した。これがあの後白河天皇である。
後白河即位によってついに信西が浮かび上がる。この即位にもかなり信西は暗躍したと言われる。信西は少納言ながら後白河を後見し「影の宰相」と呼ばれた。
この状況に、排斥された崇徳側は憤懣やるかたない。一触即発の状況である。
これに藤原摂関家の内紛が加わる。関白は藤原忠通であるが、忠通も父忠実と折り合いが悪く、忠実は忠通の弟で有能と言われた頼長を寵愛し、ついに忠通は「氏の長者」職を頼長に無理やり譲らされることになる。無論忠通と頼長の対立は深まっていった。
この忠通が鳥羽院及び後白河、頼長が崇徳に付くのである。摂関家も真っ二つである。対立を深める中、武力として後白河側は平清盛、源義朝を登用する。極まった崇徳側は義朝の父為義や清盛の叔父である平忠正らを呼ぶ。もはやギリギリのところまで来た。
鳥羽院がそういう緊張の中ついに亡くなり、箍が外れた。一気に武力による決着へと流れる。これが保元の乱である。
さてこの対決、平清盛と源義朝という両家の精鋭を擁した後白河側が戦力的にはかなり優勢であったと言われる。普通に戦えば後白河側の勝ちである。
ということで、崇徳側の源為義は献策する。
一、宇治へ退き、宇治橋を落として防戦する。
一、近江へ退き、甲賀に立て籠もる(この間に坂東武者を呼ぶ。或いは間に合わなければ関東へ退く。足柄山を切り塞いで戦う)。
一、夜討をかけて奇襲作戦に出る。
「保元物語」では夜討を為義の息子、あの鎮西八郎為朝が献策したことになっている。それはどちらでもいいだろう。考えればこれしかなかったようにも思える。しかし、藤原頼長はこの献策を退けてしまう。
「悪左府」と呼ばれ切れ者であったとされる頼長もやはり公家であったのか。
頼長には勝算があったとされる。翌日には興福寺他の僧兵の援軍が得られるとの読みがあった。しかし「先手必勝」の理もある。もしもこの時の源氏の献策を頼長が受け入れていれば、状況は変わった可能性がある。為義は状況がよくわかっていた。兵力の不足は自分の地盤に引きずり込むことで解消する。関東は八幡太郎義家以来の源氏の地盤である。或いは先手必勝の夜討。いずれにせよ策を弄さねば勝てない状況であった。しかしそれを見送ってしまう。必勝の策をプライドから見送った例として、関ヶ原の島津の進言、また大阪夏の陣も思い出される。千載一遇のチャンスであったかもしれないのに。
後白河側には信西がいた。
源義朝は軍議の折、やはり為義と同様に夜討を献策する。僧兵が来る前に、という腹だろう。しかし藤原忠通はその決心が出来なかったという。そこで信西が忠通に迫り、「戦は武士に任せるのが得策」と言い切り義朝の案を採用したという。信西には状況が見えていたのだろう。
そして義朝は未明に崇徳側に攻め寄る。それみたことかと為朝が地団駄を踏むが時既に遅い。
しかし、崇徳側は奮戦するのである。特に為朝の弓の威力は凄まじかったらしい。一気に勝負がつくかと思われたのだが後白河側は苦戦するのである。もしも崇徳側が夜討を仕掛けていたら勝敗は本当に分からなかったかもしれないなあ。
義朝はここでさらに奏上する。「火を放ってもよいか」と。
信西は即座にOKを出す。これが忠通であったら、風下にある法勝寺などを思いやって首を振らなかったかもしれない。この火攻めにより、崇徳が籠もっていた白河殿は陥落する。
崇徳は捕えられ讃岐に流される。後に怨霊となるがそれはまた後の話。頼長は流れ矢に当たり討ち死に。源為義や平忠正ら主だった将は捕えられ、斬首の刑に処せられる。
あの薬子の乱の藤原仲成以来絶えていた死刑がここに復活する。これは信西の処断であると言われる。厳しい。そうして後白河天皇の政治を磐石なものにしようと信西は以後動くのである。
もしも崇徳上皇側が有利に戦いを進めていたらどうなっただろうか。夜討はある程度成功した可能性がある。少なくとも翌日まで優勢なままで持ちこたえれば、もしかして日和見をしていた可能性のある僧兵が動き出すかもしれない。そうなれば本当に分からない。後白河天皇側が仮に負けていたとして、崇徳側には信西がいないので結局清盛、義朝は死罪とはならないだろうが、清盛の勢力は相当に削がれる結果になった可能性がある。
為義の献策どおり退いて戦っていればこれは長期化する可能性がある。或いは関東に引きずり込めば、関東での内乱が勃発し源氏双方(為義側と義朝側)の潰し合いになったかもしれず、地盤が西である平氏の関与の仕方によっては、清盛は漁夫の利を狙う策に出る可能性もある。それはわからない。歴史が変わることになるのは確かだ。一足先に乱世、ということもあり得る。
天皇の位は崇徳の息子である重仁親王が次ぎ、崇徳院政、後白河は引退させられる。この後白河が居なくなるだけで相当歴史は変わるのである。後の源平合戦の影の指揮者となるわけであるから。
保元の乱の後、ほどなくして平治の乱が起こる。信西のその後の政治姿勢についても書きたいが、それはまた次回。
さて、藤原通憲。入道して信西。この人物が気になっている。
彼は摂関家の出ではない。傍流である。
藤原氏は、祖である藤原不比等の息子のうち、房前より始まる北家が主流となっている。あの藤原仲麻呂の凋落により南家が没落し、またその後権力を握った式家は薬子の乱で力を失った。そして残った北家が、天皇家と巧みに姻戚関係を結び摂関の地位を占めてきた。藤原道長の時代に栄耀栄華は頂点を極めたとも言える。
信西は北家ではない。あの仲麻呂を生んだ南家の末裔である。彼は博覧強記、そして切れ者であったが、南家は政治の主流からはじき出されて久しい。なので信西は学問によって身を立てようとした。鳥羽天皇に仕え、「本朝世紀」などの史書の編纂も手がけた。鳥羽天皇の第四皇子である雅仁親王の乳母の紀伊局と結婚したことから、人脈的にも鳥羽天皇の信頼を得ていったと考えられる。しかし、それ以上の出世は家柄から言って望めない。政治に関わることも難しいポジションである。頼みの雅仁親王は暗愚と言われ今様(流行歌謡)ばかりやっている。
ところが、不思議な時代がやってくる。摂関家の弱体化もそうだが、天皇家のお家騒動によって雅仁親王に即位のチャンスがまわってくるのである。
何故こうなったかを簡潔に述べるのは難しい。事は白河上皇にまで遡るからである。
白河天皇は「院政の祖」である。端的に言えば自分の息子とその系譜に天皇位を継がせたいため、皇太弟が居たにも関わらず8歳の自分の息子を即位させ、上皇となり自らがその後見についた。これが院政の始まりである。幼帝を後見する役割であった摂政の位はこれで力を失った。8歳の堀河天皇が後に成人してもそのまま政治をとり続け、堀河が先に逝き孫の鳥羽天皇の代に至っても政権を手放さず、恐るべきことに曾孫の代の崇徳天皇まで43年間その地位に居座った。77歳で崩御。
さて、この曾孫の崇徳天皇が曰くつきなのである。崇徳天皇は、鳥羽天皇と待賢門院璋子との間の第一皇子とされている。ところが、崇徳は白河院主導により5歳で即位したのだが、父である鳥羽からは疎んじられた。これは真実であるかどうかは不明だが、待賢門院は鳥羽と結婚する前に既に老白河院の「お手つき」であったと言われる。つまり崇徳は白河院の子供だという話。白河の孫である鳥羽から見れば、公的には子供でありその実、叔父であるというのだ。ややこしい。
なので鳥羽は白河崩御の後、自分が院政を引き継ぐにあたって、寵愛していた美福門院との間に生まれた近衛に譲位を強要し崇徳を退位させる。崇徳は上皇となるが、もちろん鳥羽が健在であり政権はない。
ところが、近衛が早世してしまうのである。崇徳は自分の再度の登板、或いは長男の重仁親王の即位を期待した。しかし美福門院は「近衛の早世は崇徳の呪詛だ」と鳥羽院に訴え、崇徳系外し工作をする。ここで雅仁親王が浮かび上がるのである。
雅仁親王は鳥羽院と待賢門院の子であり、崇徳と同母だが、雅仁は間違いなく自分の血を引いている。鳥羽も「叔父子よりはマシ」という感覚だっただろう。
暗愚と言われた雅仁親王だが、その子の守仁親王が優秀であると言われ、雅仁親王は守仁立太子を見据えて、中継ぎを前提として即位した。これがあの後白河天皇である。
後白河即位によってついに信西が浮かび上がる。この即位にもかなり信西は暗躍したと言われる。信西は少納言ながら後白河を後見し「影の宰相」と呼ばれた。
この状況に、排斥された崇徳側は憤懣やるかたない。一触即発の状況である。
これに藤原摂関家の内紛が加わる。関白は藤原忠通であるが、忠通も父忠実と折り合いが悪く、忠実は忠通の弟で有能と言われた頼長を寵愛し、ついに忠通は「氏の長者」職を頼長に無理やり譲らされることになる。無論忠通と頼長の対立は深まっていった。
この忠通が鳥羽院及び後白河、頼長が崇徳に付くのである。摂関家も真っ二つである。対立を深める中、武力として後白河側は平清盛、源義朝を登用する。極まった崇徳側は義朝の父為義や清盛の叔父である平忠正らを呼ぶ。もはやギリギリのところまで来た。
鳥羽院がそういう緊張の中ついに亡くなり、箍が外れた。一気に武力による決着へと流れる。これが保元の乱である。
さてこの対決、平清盛と源義朝という両家の精鋭を擁した後白河側が戦力的にはかなり優勢であったと言われる。普通に戦えば後白河側の勝ちである。
ということで、崇徳側の源為義は献策する。
一、宇治へ退き、宇治橋を落として防戦する。
一、近江へ退き、甲賀に立て籠もる(この間に坂東武者を呼ぶ。或いは間に合わなければ関東へ退く。足柄山を切り塞いで戦う)。
一、夜討をかけて奇襲作戦に出る。
「保元物語」では夜討を為義の息子、あの鎮西八郎為朝が献策したことになっている。それはどちらでもいいだろう。考えればこれしかなかったようにも思える。しかし、藤原頼長はこの献策を退けてしまう。
「悪左府」と呼ばれ切れ者であったとされる頼長もやはり公家であったのか。
頼長には勝算があったとされる。翌日には興福寺他の僧兵の援軍が得られるとの読みがあった。しかし「先手必勝」の理もある。もしもこの時の源氏の献策を頼長が受け入れていれば、状況は変わった可能性がある。為義は状況がよくわかっていた。兵力の不足は自分の地盤に引きずり込むことで解消する。関東は八幡太郎義家以来の源氏の地盤である。或いは先手必勝の夜討。いずれにせよ策を弄さねば勝てない状況であった。しかしそれを見送ってしまう。必勝の策をプライドから見送った例として、関ヶ原の島津の進言、また大阪夏の陣も思い出される。千載一遇のチャンスであったかもしれないのに。
後白河側には信西がいた。
源義朝は軍議の折、やはり為義と同様に夜討を献策する。僧兵が来る前に、という腹だろう。しかし藤原忠通はその決心が出来なかったという。そこで信西が忠通に迫り、「戦は武士に任せるのが得策」と言い切り義朝の案を採用したという。信西には状況が見えていたのだろう。
そして義朝は未明に崇徳側に攻め寄る。それみたことかと為朝が地団駄を踏むが時既に遅い。
しかし、崇徳側は奮戦するのである。特に為朝の弓の威力は凄まじかったらしい。一気に勝負がつくかと思われたのだが後白河側は苦戦するのである。もしも崇徳側が夜討を仕掛けていたら勝敗は本当に分からなかったかもしれないなあ。
義朝はここでさらに奏上する。「火を放ってもよいか」と。
信西は即座にOKを出す。これが忠通であったら、風下にある法勝寺などを思いやって首を振らなかったかもしれない。この火攻めにより、崇徳が籠もっていた白河殿は陥落する。
崇徳は捕えられ讃岐に流される。後に怨霊となるがそれはまた後の話。頼長は流れ矢に当たり討ち死に。源為義や平忠正ら主だった将は捕えられ、斬首の刑に処せられる。
あの薬子の乱の藤原仲成以来絶えていた死刑がここに復活する。これは信西の処断であると言われる。厳しい。そうして後白河天皇の政治を磐石なものにしようと信西は以後動くのである。
もしも崇徳上皇側が有利に戦いを進めていたらどうなっただろうか。夜討はある程度成功した可能性がある。少なくとも翌日まで優勢なままで持ちこたえれば、もしかして日和見をしていた可能性のある僧兵が動き出すかもしれない。そうなれば本当に分からない。後白河天皇側が仮に負けていたとして、崇徳側には信西がいないので結局清盛、義朝は死罪とはならないだろうが、清盛の勢力は相当に削がれる結果になった可能性がある。
為義の献策どおり退いて戦っていればこれは長期化する可能性がある。或いは関東に引きずり込めば、関東での内乱が勃発し源氏双方(為義側と義朝側)の潰し合いになったかもしれず、地盤が西である平氏の関与の仕方によっては、清盛は漁夫の利を狙う策に出る可能性もある。それはわからない。歴史が変わることになるのは確かだ。一足先に乱世、ということもあり得る。
天皇の位は崇徳の息子である重仁親王が次ぎ、崇徳院政、後白河は引退させられる。この後白河が居なくなるだけで相当歴史は変わるのである。後の源平合戦の影の指揮者となるわけであるから。
保元の乱の後、ほどなくして平治の乱が起こる。信西のその後の政治姿勢についても書きたいが、それはまた次回。
夜討をしないで戦で負けた例って案外多いですよね。
おっしゃる通りたぬきさんがいなくなった展開を考えるとかなりのifの幅が広がってくるような!!
そう言えば仲麻呂と信西は繋がっているんですね…。
不幸な星って言うと反感を招くかもしれませんが。
政治姿勢や最期がちょっと似通っている気もしますね!
三成の頃は、もう卑怯という感覚だったのでしょうか。そこいらへんがよくわかりません。
この話は保元の乱の勝ち負けにかこつけて結局信西を書いています(汗)。次回平治の乱はもっと信西色が強くなります(笑)。
白河院と待賢門院障子ができちゃってた、つまり“親子丼”だというのを随分前に丸谷才一と山崎正和の対談集で読みました。
保元・平治の乱なんて学校じゃ簡単に済ませてしまいますが、ここに書いてあることぐらいのことを教えてくれたら歴史の授業はもっと面白くなるんだよね。
待賢門が杉本彩のキャスティングはどうかな?白河院は幼子と床入りしていることを私は想像していたので障子=杉本彩は以外でした。でも年相応のときはそのように妖艶だったのでしょうなあ。
素人なのでちゃんと史料の原文にあたって書く、などということはあまりしていなくて、ブログの気安さで書きなぐっております。プロレスの記事もそうですが、バディさんのようにその方面にも詳しい方がご覧になられますと「なんじゃこりゃ?」と言われるようなものばかりで全く汗顔の至りです(汗)。
この待賢門院の話は親子丼と言いますか「祖父孫丼」でありまして(笑)、史実かどうかをもう確かめる術はないのですが、叔父子は史実ではなくとも関係はどうも本当であったと考える他はないようで、この頃の倫理観と今との乖離にはいろいろ考えさせられますねー。
ところで、杉本彩の話が出てきたところを見ますともう一つのブログまで読んでいただいたようで、本当にありがとうございます。おっしゃるとおり意外なキャスティングですよね(笑)。ただ、彩ねぇがお色気を振りまかず淑女のように演じると面白いかなぁと。運命に振り回された女性として、出したくはなかったフェロモンが裏面に隠れているところが見られるのではないかと…。まあ杉本彩は京都生まれですし(笑)。