凛太郎の徒然草

別に思い出だけに生きているわけじゃないですが

もしも…番外編 奈良時代とは何か

2006年10月26日 | 歴史「if」
 以下に書くことはSFだと思っていただいた方がいいかもしれない。

 SFと言えば僕は光瀬龍の小説が好きなのだが、その代表作に「百億の昼と千億の夜」がある。この、宇宙全体を舞台として過去から未来の数百億年にわたる複雑な小説のストーリーを書くことは僕の手に余るので書けないが、テーマのひとつは、世界は何故滅びの道を歩むことになるのか、ということである。
 宗教はそう予言する。キリスト教は、今の世界は滅びて「最後の審判」で神による王国が始まるとされる。仏教では末世が来る。56億7千万年後に滅び、その時弥勒菩薩が如来となって現れると説く。
 それに抵抗する主人公の一人、阿修羅王は、ひとつの真理を知る。
 「神は、造物主は、生命誕生のそのときから滅びへの因子を既に埋め込んでいるのだ」と。
 生命の発展の各段階に、遠い未来における滅亡への必然性を加えておく。超越者はそうやって、滅ぶことを前提に生命を生み出したのだ。

 さて、SF小説の話を書いていてもしょうがないのだが、この小説で、阿修羅王が初めて登場するシーンが秀逸なのだ。こういうシーンにめぐり合えると「ああ小説を読んでよかったな」と本当に思える。
 「濃藍色の天空から、壮大なドームの一部が崩れ落ちていた。その無数にひびわれた美しい模様を透して、はるかにまた、単彩の極光(オーロラ)がかがやいた。」
 廃墟だった。そして、地平線の向こうでは光球が乱れ飛び、閃光が立ちつぎつぎと新しい火光が天に這い上がる。その惨憺たる戦場の夜景を借景として、悉達多太子(釈尊)は見る。
はためく極光を背景に一人の少女が立っていた。
「阿修羅王か」
少女は濃い小麦色の肌に、やや紫色をおびた褐色の髪を、頭のいただきに束ね、小さな髪飾りでほつれ毛をおさえていた。
「そうだ」
 凛然として廃墟に立つ阿修羅王の美しき姿には鳥肌が立つが、この阿修羅王の描写のモデルはもちろん興福寺の「阿修羅像」であろう。この眉をひそめ哀しい決意を胸に秘めているかのような凛とした表情は、怒髪憤怒の荒々しい天の姿ではない。どうしても少女を連想する。伝承では、この当時16才の阿倍内親王(後の孝謙天皇)の姿を借りたものだとも言われている。
 これは伝承であって、本当に阿倍内親王がモデルかどうかはわからない。ただ、こういう伝承が残るということに耳を傾けたい。何故こんなに思いつめた表情の阿修羅が阿倍内親王であると言われ続けてきたのか。
 それは、阿倍内親王が「滅びへの巨大な意志」にたったひとりで抵抗していた歴史というものが表情に投影されていると考えられてきたからではないか。

 奈良時代。それは結局、壬申の乱で勝利して覇権を握った天武天皇の血筋をただ絶やすだけに費やされた時代だった。
 前時代の天智王朝。隣国である百済を常に意識し、唐と新羅に滅ぼされゆく国を守ろうと派兵し破れ、その移民を抱え込んで政権を運営した。その親百済王朝とも言える政権を、天武は豪族連合の力で倒し、国際情勢を意識しながら皇親政治を行い統べる国家建設を目指したはずだった。
 だが、そのバックボーンとなるべき強力な豪族たちは、律令制で力を失っていく。中央集権制をとればとるほど、自分たちの力が削がれていくという矛盾。そのコンダクターは天智朝の遺臣、藤原不比等だった。
 それでも天武には10人の皇子が居た。彼らが力を合わせればまだまだ天武朝は安泰のはずだった。しかし、その朝廷の後継者を鵜野皇后直系だけに絞る、という大枠をはめられてしまう。その大枠をはめたのも不比等。全てが「破滅へのプログラム」に沿っていた。
 早期に粛清された大津皇子以外にも、高市皇子をはじめ天武の息子たちがいた。そしてその子たちは子孫を増やしていく。しかし彼らを朝廷の後継にはしない。後継となったのは、鵜野皇后の子孫だけだ。その鵜野皇后にはひとりの男子しか居ない。何故か。産児制限、とまで考えるのは早計だろうが、身体の弱い草壁皇子だけしか残さない。そして草壁は早く逝く。
 その草壁の実子で後継者の文武天皇。彼も早世する。たったひとりの首皇子を残して。そしてその首皇子も虚弱だったとも言われる。だが文武の他の皇子はステージにも上げさせてもらえない。
 ここで再び文武の母(元明)、姉(元正)が即位し、病弱とも言われた首皇子だけを正当な後継者として成長を待ち、首皇子は聖武天皇として即位となる。この細々と続く天武・持統の直系。他の天武の皇子達の系譜は膨張していくと言うのに、この直系のひ弱さはどうだ。
 文武の夫人、藤原宮子。聖武の后、藤原光明子。彼女らは不比等の娘だが、この娘らの役割は、天皇後継者を生み外戚としての藤原氏の力を強める役割を担っていたと言われる。確かにそうだろう。
 しかし、本当の目的はそこにはなかったのではないか。
 実はもうひとつ課せられた目的があった。その隠れた目的とは「直系の子孫を多く残さない」ということにあったのではないだろうか。
 こういうことはタブーとして書いてはいけないことなのかもしれないが、宮子も光明子も、男子は一人づつしか生んでいない。もしかしたら、男子は一人しか生むことを許されなかったのではないのか。宮子と光明子の父である不比等が、そのように計画し仕向けたとすれば。
 宮子は首皇子(聖武)を生んですぐ、一種の隔離状態に置かれてしまう。心的病いであったと言われるが本当だろうか。これには、やはり思惑があったのではないだろうか。
 もちろん、すべて想像である。
 しかし、この特別に男子後継者が少ない天武・持統の系譜を見ると、どうしてもそのような見方をしてしまう。そして、その選ばれた男子後継者である草壁・文武・聖武はみな身体が弱い。

 そしてついに聖武・光明子の代で男子継承者が途切れる。光明子が生んだ基皇子は早世した。この早世にもついうがった見方をしてしまうのだがそれは措くとしよう。他に男子継承有資格者はもちろん、聖武光明子の間にはいない。
 ここで光明子の娘である阿倍内親王が立太子する。内親王に、もはや結婚は許されていない。ここで確実にこの天武・持統の系譜は途絶えることになった。
 藤原氏の鬼っ子である仲麻呂は、ここで他の天武系の皇子たちの粛清に乗り出す。
 正統とされた天武・持統の系譜が途絶えることが確実となったこのとき、皇位継承の可能性がある天武系皇子たちを次々に消していく。後顧の憂いを絶ちきるかのごとく。
 聖武の傍系の皇子である安積皇子を皮切りに、高市・長屋系、新田部系を追いやり、最後に自爆して舎人系を抹消する。阿倍内親王(孝謙天皇)はどう感じていたのだろうか。破滅へのプログラムが完成していくのを見つめながら。

 孝謙天皇は、天武の血の系譜を限りなく意識していた人であったように思えてしょうがない。それは、この「破滅のプログラム」に抵抗した父である聖武天皇の姿を見ていたからだろう。聖武は新田部系の道祖王を後継にしようとした。しかしそのことも自らの死後、仲麻呂によって潰されている。
 しかし孝謙天皇が辛いのは、結局、父聖武を意識するがあまり「天武の血=聖武の血」と考えてしまったことにある。その考えは結局「破滅のプログラム」にとらわれてしまうことになるのに。
 仲麻呂が大炊王を立てた時に、その気持ちがさらに強まったのかもしれない。皇統を取られてしまう様な感覚に陥ったのではないか(想像だが)。これが父の言うとおりそのまま道祖王が後継であれば、「聖武の遺志を継ぐ」ということでさほど皇統がかわる事に抵抗感がなかったのかもしれない。しかし仲麻呂傀儡の大炊王では「のっとられた」感覚が強くなる。ここで孝謙は「天武の血」そして「聖武の血」を以前より強く意識するようになったのではないか、と思っている。もう父の血以外の人に継いで欲しくない。道祖王も大炊王も同じ天武傍系にはかわりはないのだが、大炊王=仲麻呂であったために、天武傍系はみんな敵に見えてしまったのではないか。それは結局破滅のプログラムの道なのだけれども。
 彼女は仲麻呂派の皇子たちを徹底弾圧の後、重祚し称徳天皇となった。そして、前天皇の淡路廃帝(淳仁)を死に追いやり、そして唯一皇位継承の可能性が薄くながら残っていた和気王(舎人皇子直系の長男で恵美押勝の乱に一人だけ連座しなかった)を謀反の疑いで排してしまう。さらに、もう可能性はほとんど無かったと思われる塩焼王(恵美押勝の乱で斬殺)の遺児氷上志計志麻呂をも呪詛の疑いで排する。
 これで本当に、誰もいなくなった。結果自らの首を絞めてしまったとも言える。
 称徳天皇は道鏡に禅譲するつもりだったとされる。しかしこのウルトラC的発想も、藤原氏とその意を受けたかもしれない和気清麻呂によって潰された。たった一人で天武の系譜を受け継いだ称徳天皇は、ついに最後の天皇として孤独に53歳で崩御する。滅亡の因子を埋め込まれた天武朝は終わった。「滅びのプログラム」に敗れたのだ。

 この称徳天皇の死にも暗殺説が残る。それは、実にいいタイミングであったからだ。これ以上称徳に長生きされては困ったからである。
 根回しを十分にしていた藤原不比等プログラムを継ぐ式家藤原百川は、ここでついに天智系の白壁王を担ぎ出す。天智系復活である。
 この白壁王は、よくぞ生き残ったとも思われる。天智の孫だが、ここまで酒に溺れ凡庸を貫いてきた。つまり世を欺いてきたのだろう。しかしもう62歳。ギリギリの年齢であった。称徳がこのタイミングで崩御してくれないと、これ以上高齢になると皇位は難しい。しかし白壁王の子の世代だと四世孫となりかなり薄いと判断されてしまう。
 白壁王は即位し、光仁天皇となる。しかしこの即位には天武系への配慮もなされていた。白壁王は井上内親王(聖武の娘)との間に他戸王をもうけていた。女系ではあるがこの唯一残った聖武の系譜である他戸王を皇太子とすることが即位の条件であったとも思われる。
 しかし、即位してしまえば流れは変えられる。また呪詛の疑いで井上皇后と他戸皇太子は廃されてしまう。後にさらに疑いを掛けられ幽閉そして変死。とことんまで天武系を排除していく。そして山部親王の立太子。山部の母は高野新笠(百済系渡来人)である。皇統を完全に百済天智系に戻したのだ。藤原氏の執念とも言える。

 山部王は即位し桓武天皇となる。そして天武朝の痕跡を一切消すように、遣新羅使の廃止、そして平城京からの遷都を敢行する。そうして「破滅のプログラム」が完遂され奈良時代が終わるのだ。
 藤原氏も大きな犠牲をはらった。次々に天武系皇子を粛清した仲麻呂の南家は滅び、無理やり天智系に皇統を戻した式家も後に没落する。藤原四兄弟のうち、生き残ったのは陰謀の表に立たなかった北家だけ。しかしこの北家は摂関政治を生み、道長を頂点とした栄華を極めた。また武家の世にも生き続け、歴史の節目節目に重要な役割を果たしてきた。例えば鎌倉期の九条兼実。桃山期の近衛前久。幕末の二条斉敬。三条実美や岩倉(堀河)具視もこの系譜である。そして明治以降も西園寺公望らの総理大臣を生んだ。藤原氏の栄華は、見方によっては現在も続いているとも言える。

 天武系最後の天皇である阿倍内親王(孝謙・称徳天皇)の心中はいかばかりであっただろうか。彼女の時代はまさに修羅の時代だった。巨大な力に押し潰されそうになりつつも懸命に生きたこの女帝に、阿修羅像の凛然とした表情、愁いを帯びた瞳が投影されるのもまたよく理解できることなのである。


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2 コメント

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いつもながら♪ (jasmintea)
2006-10-29 14:52:36
小説を読んでいるかのような天海(←こっちの展開だよ!と思ったのですがおかしかったので残しちゃいました)の表現力、さすがですね~。

どれだけの知識があればこれだけの文を書けるんだろう???と思います。



日本書紀を読んでいると本当に単純で天智紀には百済の記事ばかり、天武紀の記事には新羅の記事ばかりが出ています。

持統紀はまだ新羅の記事が目立っています。

不比等の逆襲がどこから始まったのか、これは興味がありますよね♪



藤蔓に絡めとられる様を最後まで見た阿倍の評価はこの時代まで捻じ曲がったまま…。

歴史って怖いですね。

>jasminteaさん  (凛太郎)
2006-10-29 18:13:25
この4回で20000字を超える(原稿用紙だと50枚か)という長い長い記事を読んでくださって本当に有難うございました。もう少し分割することも考えましたが結局このような形になり、読むのに根気がいったことと思います。感謝です。

さらに、前回にもお言葉を頂きましたが文章も誉めていただきまして…本当に嬉しいです。



持統系に何故皇子が一人づつしか(正妃には)生まれないのか。以前からこのことはずっと考えていました。鵜野皇后と阿閉皇女、宮子と光明子はそのことが使命だったのではないか、と。実際は吉備内親王が何歳であったかによってこの話は崩れてしまうのですが(笑)、何かここにはあったのではないだろうか。宮子が幽閉される原因も、ここに原因を求めたいように思います。子供をさらに生みたいと願ったので離したのか、と。

藤原氏の外戚政治はここにルーツを求められますが、外戚になって権勢を振るうというのは結果論であったのかもしれないと考えたりもします。目的は別にあった、と。



不比等の逆襲についてはいろいろ考えられますが、僕は高市皇子が太政大臣になった頃が始まりではないかと思っています。僕はこのとき高市が上皇になったと思っているので(汗)。どうして力を発揮出来るようになったかは、圧力団体のことがありますが…いやぁこう書いていると不比等についてまだ書きたくなってきますね(笑)。でも、信長と違って不比等には「if」がないのです。完璧すぎて、我々がまだ気がついていないことまで計算していたような気がする。怖い人です。結局、阿部内親王の未来まで見通していたのではないかと…。

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