凛太郎の徒然草

別に思い出だけに生きているわけじゃないですが

もしも後南朝が続いていたら

2007年06月30日 | 歴史「if」
 足利義教は、その治世が「万人恐怖」と恐れられたことは既に書いた。→ 
 その義教が行った政治のうち、重要なことが一点ある。

 「およそ南方御一流、今においては断絶さるべしと云々」(看聞日記)

 つまりこれは南北朝の「南朝」を完全に無くしてしまえ、という義教の政策のことである。南北朝問題は、足利義満の治世で「南北合一」を果たし、既に過去のものとなっていたと言われるが、実はまだ南朝皇胤がいなくなったわけではない。政治的生命はほぼ壊滅したように思われるが、隠然とまだ続いていたのである。
 義満の詐欺のようにも思える強引な「南北合一」の後、南朝はどうしていたのか。
 南朝が北朝に神器を譲るにあたっては条件があった。それは「両統迭立」である。とりあえず北朝の皇位を認めるが、次は南朝から天皇を出す。そういう条件である。鎌倉時代の持明院統と大覚寺統のようなものだ。それで南朝は矛を収めたのだが、足利義満と北朝はこの約束を反古にする。
 当然南朝は怒る。話が違う、と。後小松天皇が躬仁親王(称光天皇)を皇太子として南朝を無視する態度に出ると、北朝に皇位を譲った南朝の後亀山上皇は、あまりのことに住んでいた京都は嵯峨の大覚寺を出奔し、抗議のためにまた吉野へと籠った。
 すわ、また南北朝時代の始まりか。そう思った関係者もいただろうが、時は足利義持の治世であり、平和が望まれていた時代だった。後亀山上皇は説得に応じて京に戻った。
 しかし憤懣やるかたない御仁もいる。伊勢に居た北畠満雅は、この状況を見て南朝再興のため挙兵する。しかし味方がなく孤軍であったために、土岐氏によって鎮圧される。納得いかない北畠満雅は二年後再度挙兵するが、これも敗れて降伏する。
 これは、義持の治世が、ある種「平和」であったせいだろう。例えばこれが義満の前期であれば、山名氏清の明徳の乱や大内義弘の応永の乱と結びついていたかもしれない。そうなればまた厄介なことになっただろう。
 しかし危機はあった。後亀山上皇が大覚寺に戻った1ヶ月後、関東で上杉禅秀の乱がおこる。これは危なかった。乱をおこした上杉禅秀と足利満隆は、天皇になりそこねた義持の弟、足利義嗣と結託する。これに南朝が絡んでいたらどうなったか。かなりややこしいことになったのではないか。しかし、この反乱は畿内に飛び火せず鎮圧された。義持の安定した治世では、有力守護大名は誰も結びつこうとしなかったのである。

 しかし、義教が将軍となり「恐怖政治」が始まるとあちこちに火種が出来る。不満分子が多くなる。南朝にとっては、乱世がチャンスなのである。
 称光天皇は男子に恵まれず、後継問題が出る。当然南朝は「こっちに皇位を」と言う。しかし義教は、遥か崇光天皇流である伏見宮家から皇子を迎え、後花園天皇とする。後花園天皇は、崇光天皇の曾孫である。もはや遠縁と言ってもいい皇子の担ぎ出しに、南朝に怒りが積み重なる。ここに至って、後亀山院の孫である小倉宮聖承(聖承の父恒敦親王は既に死去)がまた伊勢の北畠満雅を頼り京から出奔する。満雅は幕府と対立関係にあった鎌倉公方足利持氏と連合し乱を起す。しかし、これは義教によって攻められ、満雅は討ち死にする。だが、小倉宮聖承は京へ戻らず抵抗を続けるのだ。
 ここに至って義教はついに、前述の「南方御一流断絶さるべし」の方針を打ち出すのである。
 義持時代も、南朝に対して施策は行っていた。しかしあくまでそれは緩やかなもので、出家は奨励したが根絶までは念頭になかったと言っていい。しかし義教は「根絶やし」を目指す。宮家は廃止し、皇子たちは出家もしくは臣籍降下、奉公人は召し上げる。さすがに死を賜うことまでは出来ないが、皇胤断絶政策である。ここで、主だった南朝皇胤は消えたと見ていい。長慶天皇流の玉川宮、後亀山流の小倉宮、その弟宮流の護聖院宮、上野宮などである。最後まで抵抗姿勢を見せた小倉宮聖承、そしてその皇子の教尊も出家である(教尊は後に流罪となる)。
 南朝(大覚寺統)が事実上滅びるのはこの時点である。義満の南北合一ではない。あれから40年以上経って後のことである。足利義教の政策というものは実に「道理」に照らすと納得できないものが多く、「万人恐怖」と言われた通りで、僕はこの義教が足利幕府の衰退を引き起こしたと見ているが、この南朝断絶だけはその無慈悲な性格が幸いしたのかもしれない。
 日本には「玉」は二系統あってはいけないのである。天皇という「玉」の存在は、藤原不比等が編んだ「日本書紀」以来、常に権威の象徴であり、時の権力者が恣意的に挿げ替えることが可能になると、実に災いの元となる。例えば、織田信長はもしも南朝が残っていればこれを担いだかもしれない。そうすればまた泥沼の南北朝の再来となる。江戸幕府も、徳川氏が新田氏の子孫であるという権威づけであり、水戸学は南朝を正統としている。もしも南朝がその時点でまだ残っていれば、尊皇攘夷運動はどちらを担ぐだろうか。極端な話ではあるが、尊皇攘夷というスローガンが倒幕を推進し日本の植民地化を救ったとも言えるのだが、南朝がもしも存せば志士の足並みが揃わない。歴史は実に混迷する可能性があったのである。

 しかしながら、である。
 足利義教は、嘉吉の変で赤松満祐に討たれて、南朝の完全断絶を見ずに死ぬ。もちろん主たる南朝皇胤は廃絶しており、もはや力もないはずだが、その権威の亡霊のような存在はまだ残り火があったらしい。
 北畠満雅亡きあと、直接的な南朝の戦力はもはや無いが、反幕勢力が担ぎだす場合が多々あった。その大きなものは、「禁闕の変」である。
 義教惨殺のあと、義教に虐げられた日野有光らが後花園天皇暗殺を狙い御所に討ち入り、三種の神器の剣と神璽を奪い、南朝の皇胤であるとされる通蔵主、金蔵主兄弟を担いで乱を起すという「禁闕の変」があった。通蔵主らは後亀山の弟宮流の護聖院宮出身であると言われるが実際はよくわからない。
 これは幕府が鎮圧したが、剣は戻ったものの神璽は南朝に持ち去られてしまった。神璽(八尺瓊勾玉のことか)は神器の中で最も価値の高いものである。その歴史が古く、さらに鏡は火事で破損し剣は壇ノ浦で沈んでしまい複製である。神璽こそが皇位の証明であったと言ってもいい。その神璽を南朝が以後所持していた。
 これが奪還されるのは、15年後のことである。嘉吉の変後に没落した赤松氏の旧臣らが、臣従すると偽って南朝勢力(当時は吉野よりかなり奥地にいた)に接触し、油断させてこれを襲って皇胤の宮を殺害した。赤松遺臣はこの行動にお家再興の約束を取り付けていたという。殺められたのは自天王、忠義王とも尊秀王とも言われる。どの血筋であるのかははっきりしていない。後に神璽も奪い返した。これを長禄の変と呼ぶ。
 既に史料が少なく、殺められた宮の系譜さえもはっきりしなくなっている。小倉宮の末裔とも言われるが、小倉宮が後亀山院直系であることからの後世の思いも含まれているのかもしれない。

 その他にもいくつか後南朝の記録は時の史料に散見されるらしいが、何れにせよあまりはっきりとしたことはわからなくなっている。義教の断絶政策が功を奏した結果だろう。こうして、長禄の変をほぼ最後として、南朝の末裔は歴史の波に呑まれて姿を消していくのである。
 正確には、このあともう一度歴史の表に出てくる。それは「応仁の乱」の場面においてであるが、それについては次回に。

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3 コメント

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うわっ、ビックリ! (jasmintea)
2007-07-02 21:00:39
室町時代を知らなくてこんなコメント書いたら恥ずかしいかもしれませんが笑って見逃して下さいね
記事の前半から中半にかけてのくだり、私が描く高市天皇、持統天皇並立王朝と考え方が同じです。
ちょうど次回用に書いた分でせっせと2朝並立に向け種まきをしているのですが、そっかぁ、やっぱり歴史は繰り返しているんだ!って妙に嬉しかったりして♪
やはりどの時代も全般的に知らないと見落とすことも多いかもしれないですね。

って、またまたズレたコメントでごめんなさい。

室町時代、勉強しまぁす。
次回を楽しみにしています
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>jasminteaさん (凛太郎)
2007-07-02 23:35:47
読みにくいのを読んでいただいてありがとうございます。
それにしても、この後南朝の状況は、あの時代のjasmintea説と近いのですか。なるほどなぁ。そういうお考えであったのか…(もしかしたらネタバレ? いやそんな単純なもんじゃないですよね^^;)。そういえば、jasminさんは吉野という要害の地についてのお考えもありましたよね。

南北朝時代については以前書いたことがあったのですが、この時代もさらに天皇というものがどういう存在かということを浮き彫りにしてくれます。でも解釈は難しいですよね。
また、室町時代は安定していないぶん面白いことも多くてですね(笑)。ひとつひとつについて書いてはいられないのですが、三管領家それぞれにもifが考えられて、どう転ぶのかわからないところが興味深いですよね。これが戦国時代になるとあちこちでパラレル的な歴史になりますので、僕はやっぱり知識が散漫になってしまうのですよ。山本勘助が何をやったかということなどあんまり知らない(汗)。

日曜日にシコシコとこの続きを書いていました。これからアップします。でも端折りすぎててしかも長いので読みにくいかも(汗)。
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私の霊視によると (じんとにっく)
2019-11-20 20:45:04
織田信長は南朝の血筋のようです。北朝の天皇を廃絶し自分が天皇になろとして、明智光秀にうたれました。信じるか信じないかは・・・。
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