凛太郎の徒然草

別に思い出だけに生きているわけじゃないですが

もしも西陣幕府が成立していたら

2007年07月02日 | 歴史「if」
 前回の続きだが、表題の「西陣幕府」なるものは存在しない。僕の勝手な造語である。
 
 室町幕府が決定的に立ち行かなくなったのは「応仁の乱」が原因であるということは、どなたも異論はあるまい。そしてこの乱が戦国の世へと時代を押し流したということも然りである。そして、この大乱の主たる原因が、幕府8代将軍足利義政の優柔不断にあるということも、また通説である。
 応仁の乱の原因は、つまり義政が政治的混乱、飢饉、そして一揆の頻発で厭世的になり将軍職を投げ打とうとして、弟の浄土寺門跡義尋(還俗して義視)にかわりに将軍になってくれと懇願し、彼がしぶしぶ承知して管領家細川氏の後見で就任しようとした矢先に、義政の正室日野富子に後継男子が誕生(足利義尚)、我が子を将軍にと願った富子が有力大名山名氏の後見を得て義視に対抗した、それが端緒であるという話である。
 まったく義政も義視に譲ると決めたのなら男子が生まれたら困るということくらいわからなかったのか。ちゃんとコントロールしろよ、と下世話なことまで考えてしまうが、むろん大乱の原因はこれだけではない。これは単なるきっかけに過ぎず、もしも富子に男子が生まれなくともいずれこのような事態は起こっていたと想像は出来るのである。

 これは結局、室町幕府のコントロールが利かなくなっていたからである。パワーバランスが崩れた現象とでも言えばいいのか。僕はそう考えている。
 では何故パワーバランスが崩れたのか。これは籤引き将軍足利義教の専制がそうさせたのだ、ということは以前に書いた→。義持がせっかく我慢して作り上げた宿老政治、つまり日本式の平和の方程式である権威・権力の二元化を壊してしまったからである。独裁は、様々な不満分子を内包してしまう。その独裁の大元である義教が斃れた時は、後継の長男義勝は9歳である。こんなものどうにもならない。また義勝も早世してしまい、残された弟の義政が将軍職を継ぐのは8歳である。気の毒、と言ってはいけないのだろうが、有力守護大名連合である宿老政治も破綻してしまっている時に8歳の将軍にどうしろと言うのか。

 かつて室町幕府を支えた有力大名はこの時どういう状況だったのだろう。
 幕府には三管領四職と呼ばれる制度があった。その管領には畠山、斯波、細川氏が交代に就き政治を補佐する慣わしであったが、その三管領も義教の治世にずいぶん力を削がれている。
 義政が将軍に就任したときは畠山持国が管領だった。この持国は、かつて義教に家督を奪われ隠居させられていたが、義教死後復活した。しかし弟に家督を譲らされた後遺症がある。また当時持国には実子が無かった為に、後継に末の弟の持富を指名したのだが、後に実子が生まれてしまい(これが畠山義就)、持富の子(これが畠山政長)との間に確執が生じる(この弟を後継としたあとに実子が生まれるというパターンはもちろん足利将軍家で繰り返される)。分裂した畠山家、その義就と政長の確執は、応仁の乱の主軸ともなっていく。
 斯波氏は、管領であった斯波義淳が亡くなった後、やはり義教の横槍で嫡男相続を認められず、僧籍にあった弟の斯波義郷が継ぐのだが、この義郷が27歳で落馬で死亡(いきなり坊さんから武士にするからだ)、子の義健がわずか2歳で継ぐ。しかし義健も18歳で死んでしまうのだ。これには嗣子が無く、分家から養子として斯波義敏が継いだが、家臣との対立を生んでしまう(分家のボンとして本家家臣団は軽んじていたところにいきなりトップになれば確執も起きるわな)。結局合戦にまで発展し、義敏は追放され大内氏を頼ることとなる。跡目はやはり庶流の斯波義廉。この義廉と義敏の確執もまた応仁の乱に繋がるのである。
 管領家が皆分裂する中、細川氏は比較的安定していた。細川持之が義教治世時の管領であり、嘉吉の変後の赤松討伐の後は畠山持国に職を譲り死去した。わずか13歳で子の勝元が家督を継ぎ、後に持国に代わって16歳で管領に就任する。以後途中入れ替えはあるものの23年に亘って管領職に居た。

 四職は侍所長官で、赤松、一色、山名、京極の四氏(土岐氏を入れて五職とも)で構成されていたが、一色氏は当主の義貫が義教に殺害され勢力が縮小し、赤松氏は嘉吉の変で討伐されるなど弱体化し、この中で山名氏が、赤松討伐の功で播磨などの赤松旧属国を押さえ、山陽山陰で九ヶ国を領し、細川氏の畿内・四国八ヶ国と並ぶ勢力を保持することになるのである。時の当主は山名持豊(宗全)である。
 この細川・山名均衡の中で、若い勝元は山名宗全の養女を妻にし、子の豊久を養子・後継として協調路線をとった。しかし勝元が成長し実子(政元)も生まれると、養子を破棄し出家させる。また赤松氏復興を支援し、宗全の持つ播磨その他の赤松氏旧領を回復させようとする。こうして、細川・山名の間に緊張が走った。
 二大巨頭の両氏に武士団は分かれる。勝元は畠山政長と斯波義敏を支持し、宗全は畠山義就と斯波義廉を支持する。その他氏族も二手に分かれ、正に一触即発の状況となった。

 こんな政治状況の中で将軍義政はどうしていたのか。
 当初の義政は、父義教の独裁を目指し、畠山持国の家督争いに介入するなど守護大名の力を削ぐ政策をとった。しかしまだ義政は若く、実情は母の日野重子、執事の伊勢貞親、蔭涼軒季瓊真蘂らの側近政治だった。政治は混迷し、幕府財政を安定させるため分一徳政令など意味不明の法令を出したりしてどんどんややこしくなっていく。そして、義政は疲れ果て、前述の義視、義尚(富子)の対立を生じさせることになってしまうのである。
 義視は細川勝元が後見、義尚は山名宗全が後見する。そうしてついに上御霊神社で畠山政長が陣を張り挙兵、これを宗全や畠山義就らが攻め、ついに応仁の乱が始まってしまうのである。陣地の配置から、細川軍を東軍(室町第)、山名軍を西軍(五辻通大宮東の山名邸)と呼ぶ。
 義政は当初中立を保ち休戦命令を出すが、誰もそんな命令は聞いてくれないのである。義政はヤケ酒を呑んでいたとも言われる。詳しく書いているとキリがないが、そもそもこれは当初は畠山氏の私戦である。この私戦も元々は義政の優柔不断に起因してはいるが、義政だって脅されているのである。将軍なのに情けない限りであるが、将軍権威の失墜は義政だけの責任でもない。後に義政は、細川勝元にまた脅され牙旗(将軍旗)を授与させられてしまう。とうとう東軍を公方軍にしちゃった。そして細川東軍は後花園上皇、土御門天皇を迎え手中にする。上皇は「あくまで私闘」として錦旗を渡さなかったが、宗全に治罰院宣を発している。ここに至って東軍は官軍となる。
 さて、西軍はどうしたか。
 当初は西軍優位で戦闘が推移したが、西軍諸将の留守にしている地元を狙い打つという細川勝元の権謀術策によって、東軍が優位に立つ。そして東軍が天皇・将軍を手中にしたことで状況有利であったが、西軍にあの大内政弘の大軍が加わり、また戦局は分からなくなる。
 ここで、また説明し難い意味不明のことが起こる。そもそもこの戦闘は勝元=義視、宗全=義尚(富子)であったはずなのだが、なんと義視が西軍に投じるのである。このねじれ現象。これには伊勢貞親なども関わってややこしい事態から生じているのだが、もう説明も煩瑣であるし不要だろう。つまりこの戦闘に将軍の跡目争いなどどうでもよかったのである。

 義視はそれまで東軍の大将であった。もちろん将軍に成り得る資格を有している。山名宗全は義視を迎え入れ、これを西軍の将軍「格」とする。「格」というのは、つまり征夷大将軍には勝手になれるものではない。天皇が任命権者である。その天皇は東軍が手中にしている。任命なんぞしてくれない。そこで西軍は、驚天動地の策に出るのである。
 後南朝の皇胤を、西軍において天皇として立てようとしたのだ。
 南朝のその後については前回書いた通り。ほぼ壊滅状況にある。しかしここで、西軍は「南帝」を擁立したと記録には残っている。
 この南帝が誰であるのか。それははっきりとは分かっていない。誰の血筋なのか。小倉宮流(後亀山流)の嫡流とは考えにくいのだが、岡崎前門主の息子であると記す史料もあり、これは小倉宮流であると言う。もしかしたら小倉宮聖承の皇子で、教尊の弟にでもあたるのか。それならばもっと記録にしっかりと残っていても良さそうだが。末裔としても、庶流、傍系なのだろうか。わからない。
 ここは、義教のやり方(断絶方針)が功を奏しているのだろう。もしもここで、禁闕の変に連座して隠岐に流罪となり後行方不明となった、後亀山流の直系である小倉宮教尊が健在であれば、錦の御旗となったであろう。南朝正嫡として自ら即位も出来たかもしれない。神器もなしに儀式もせず即位出来るのか、とも考えられるだろうが、これには前例があるのである。足利尊氏と義詮は、かつて天皇ではなかった広義門院を治天の君として神器も無しに後光厳天皇を立てたことがある。
 さすれば義視は将軍に任命され、幕府として体裁を整えることが出来たやもしれない。この時ですら、西軍は東の管領細川勝元に対抗して、西の管領として斯波義廉を立てているのである。ここでしっかりとした南朝嫡流の皇子がいれば、義視将軍、そして管領を立てて宗全自らは執権格となって幕府を打ち立てる事も出来たやもしれない。宗全の狙いは正にそこにあったのではないか。「西陣幕府」である(なお当時は西陣という地名は存在しないが便宜的にそう言う)。

 もしもそのように対立軸がはっきりとして、双方に「旗頭」が立っていたとしたら。旗頭とは権威である。そうなればこれはややこしいことになっていた可能性もゼロではない。もしも小倉宮が健在であったならば。
 旗頭(権威)が明確であれば求心力が生じる。
 かつて、日本を二分した状況というのは幾度かあった。古くは壬申の乱。大友近江朝と大海人皇子である。これは旗頭がはっきりとしていた。なのでしっかりと決着もついたと言える。どちらかが勝利する(片方が権威を消失する)まで戦闘が続かざるを得ないのだ。
 源平合戦もあったが、あれは権威の所在がはっきりしていない(後白河があちこちに付くからだ)。なので、二分というより平氏、義仲、関東頼朝、奥州藤原氏などその時々で戦闘が生まれた。
 南北朝時代は言わずもがなの権威争いである。そして関ヶ原もあるが、あれも権威がはっきりしていた。家康と三成(のように見えて実は権威は秀頼である)。戊辰戦争は、片方の権威(慶喜)がさっさと恭順してしまったために不発に終わった。

 もしもこの応仁の乱で、権威が明確になり「南朝」により「西陣幕府」が開かれていたら、日本は完全に二分化した恐れがある。関東方面でも、堀越公方と古河公方が争っていた。これもどちらかの「幕府」そして「朝廷」に付いた可能性がある。九州も然り。そうなれば、どちらかが滅びるまで戦闘は続くことになる。日本を二分して決着がつくまで。
 しかし、もちろんそうはならなかった。
 これは「南帝」の権威付けがしっかりしなかったからだろう。義教が既に南朝をほぼ断絶させていたからだ。もしも長禄の変が無く南朝がまだ神器を所持していたら様相は変わったかもしれないが、もはや南朝に権威は残っていなかった。山名宗全の死とともに、この戦争は終結に向かう。大義名分の欠如が厭戦気分を助長したのだろう。
 こうして第二の「南北朝時代」は回避されたのだが、将軍の、ひいては幕府の権威が地に堕ちたのもまた周知のことで、この後日本は二分されることなくバラバラの戦国時代へと向かう。どっちがよかったのかなど分かるはずもない。

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2 コメント

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Unknown (Unknown)
2008-03-08 06:45:01
室町幕府など、実際、存在は怪しい。
当時の日本全国の歴史を詳しく調査している研究者によれば、足利の勢力は山城の国以外にはほとんど及んでいない。一般の人々が言う室町時代から、戦国時代は始まっている。今の日本は、偽の情報や歴史資料で上手に人を騙す連中の支配が続いている。
もしかすると、今も足利や徳川、織田の支配が続いているのかも。
今の天皇は誰の血筋なの?
本当の天皇の筋であることを国民の前で証明しろと言った時、慌てるかもね。
DNA鑑定でもすれば良いかも。
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Unknown (凛太郎)
2008-03-09 16:29:16
えーっとどなたでしたっけ、勢力範囲が山城の国とまではいかなくても、日本の支配範囲がほぼ三分割しているという説に以前納得したことがありましたね。関東と九州と、畿内を中心とした室町幕府と。全国支配ってのは義満の時代でも達成できてはいないことは事実でしょうね。
今の天皇の血筋は僕は舒明天皇からは続いているとは思っていますけれどもね。よく明治天皇は南朝の末裔がすりかわった、という話がありますが、どうも細部で矛盾が多いのではと。
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