凛太郎の徒然草

別に思い出だけに生きているわけじゃないですが

もしも恵美押勝の乱が成功していたら

2006年10月23日 | 歴史「if」
 藤原仲麻呂は父の死を見ていたはずだ。
 仲麻呂の父である武智麻呂は、長屋王を死に至らしめたその祟りで死んだ。今の科学万能の世の中であれば「そんな祟りなんて迷信、あれは天然痘の流行」と切って捨てられるだろうが、当時はそうではない。人々は怖れ慄いたはずだ。皇族を手にかけるとその先に滅びが待つ。そのように信じられていた。
 にもかかわらず、仲麻呂は天武系の皇子を次々に粛清していく。これは怖くなかったのだろうか。そんなことはあるまい。しかし仲麻呂は何かに憑かれたかのように皇子を消していく。その先には自らの滅びがやってくると言うのに。
 彼にどんな使命感があったのだろうか。自らを賭してまで天武系皇統を消去しようとするその使命感とは。権勢欲だけでは計り知れない「巨大な意志」というものが背後にあるように思えてしょうがない。

 仲麻呂が台頭する時代は、父の代である藤原四兄弟が長屋王の祟りで全て絶え、藤原氏の力が低迷している時。壬申の乱に功績があった栗隈王の孫である橘諸兄が政権を握っていた。藤原氏は、ときの聖武天皇の皇后である藤原光明子によってかろうじて命脈を保っていた。
 諸兄は吉備真備や玄ら反藤原勢力を多く登用し、これに反発した藤原広嗣は乱を起こすが鎮圧される。そういう藤原氏低迷の切り札として光明子が引き上げたとも言われる。
 仲麻呂は、参議であった時代に安積皇子を死に至らしめた可能性がある。安積皇子とは聖武唯一の皇子だ。尤も光明子の子ではない。光明子の子である基皇子は早世し、夫人県犬養広刀自が生んだ安積皇子は当然有力皇位継承者(というか男子は彼しか居ない)である。この皇子が、難波行幸の途中脚病により恭仁京に引き返し、2日後薨去した。脚病でたった二日で。なんとも不自然だが傍に仲麻呂が居た。
 当時、光明子の娘、阿部内親王が立太子していた。しかし唯一の男性である安積皇子は皇位を継げる立場で、橘諸兄の切り札であったろう。しかし消された(可能性がある)。
 かつて同様のことがあった。聖武天皇(首皇子)には異母弟広成、広世皇子が居た。しかしこれを排除するのに皇籍剥奪、臣籍降下ということにしてライバルを排除している。まだ穏便な方策である。しかし、仲麻呂は(仲麻呂がやった証拠はないが)消すという手段をとる。臣籍降下程度ではいつ担ぎ上げられるかわからないので非情の手段をとっている。そして、これが仲麻呂の粛清劇の第一幕ではなかったか。

 聖武天皇の譲位により阿倍内親王が即位(孝謙天皇)、仲麻呂は光明子に引き上げられ権勢を振るうようになる。諸兄は失脚。
 聖武が崩御すると、遺言により道祖王(新田部親王の子)が立太子する。だが道祖王は不行跡があるとしてすぐに廃され、仲麻呂が推す大炊王(舎人親王の子)が立太子される。大炊王は仲麻呂の傀儡である。
 これに反発して諸兄の息子、奈良麻呂が仲麻呂を排すべく乱を起こそうとするが露見して失敗。連座して、道祖王、黄文王(長屋王の子)は獄死、安宿王(長屋王の子)は配流。有力皇族をことごとく潰していく。仲麻呂は祟りが怖くなかったのだろうか。

 ここで、仲麻呂の行動に疑問が生じるのである。
 前回、僕は持統、葛野王による天武系皇統の「先細りプログラム」について書いた(→前記事)。天武・持統直系だけで皇位継承していくという大枠をはめ、最終的に後継者が絶える結果にもっていく、という計画である。不比等による策謀であると推測している。その計画は、この時点でほぼ完遂しようとしていた。本流である聖武天皇は亡くなり、その兄弟は臣籍降下。そして聖武に男子継承者が居ないのである。基皇子は亡くなり安積皇子は消された。娘の阿部内親王が皇位を継ぎ、跡継ぎは望めない。
 他の天武系皇族は、もう既に二世の時代ではない。三世、四世孫の時代である。天武は皇子を多く残し、それら二世も子沢山である場合が多い。草壁皇子系統だけが例外なのである。しかし多い三世孫らは、位階は高くても官位は貰えていない。高い位階が災いして役職に就けないとも言える。徐々に臣籍降下も始まっている。
 ここで大炊王を推戴すれば、また天武系皇族が力を盛り返すのではないか。それは不比等のプログラムに反する行動ではないのか、という疑問である。
 仲麻呂は権力に溺れたのだろうか。
 しかしこの仲麻呂の行動が、最終的に天武系に壊滅的打撃を与えることになる。これは結果論だ。だが仲麻呂が大炊王を立てなければ、まだ天武の血筋は生き延びた可能性があったのだ。

 この時点でまだ皇位継承の力を持っていたのは高市皇子・長屋王系、舎人皇子系、新田部皇子系である。このうち高市系は黄文王、安宿王を排除した。新田部系は道祖王を排除。そして舎人系から大炊王を立てたが、彼は舎人皇子の七男なのである。もう舎人系は四世世代に入っていた。
 この残った有力皇子たち。これらを壊滅させるのは、自らが起こした反乱「恵美押勝の乱」によってである。
 大炊王が即位、淳仁天皇となる。仲麻呂は太保(当時仲麻呂は官職を唐風にしていた。これは右大臣相当)に任ぜられ、恵美押勝の名を賜る。ここで仲麻呂は藤原氏から恵美氏となる。
 これは仲麻呂の驕りのあらわれのようにも見えるが、僕には「もう私は藤原じゃないですよ。従ってこれからやる事は恵美氏がやることで藤原に係累は及びませんよ」という意思表示にも見える。うがち過ぎだろうか。
 仲麻呂は太師(太政大臣)となるが、ここで後ろ盾である光明子が亡くなる。そして前天皇である孝謙は、弓削道鏡を重用し始める。仲麻呂との対立構造が生じる。同時に孝謙が権力を強め、仲麻呂は凋落していくこととなる。

 仲麻呂は孝謙天皇の政道の過失を訴え、挙兵を計画するが、それは孝謙へ筒抜けであった。孝謙は淳仁天皇の所持する鈴印(軍動員に必要)を確保する。しかし同時期、仲麻呂も鈴印を欲していた。そしてついに争奪戦となるが、これは孝謙に軍配が上がった。孝謙の将は坂上苅田麻呂(田村麻呂の父)。仲麻呂の三男訓儒麻呂は敗れ、戦死する。
 仲麻呂は愕然としただろう。孝謙が軍事力で対抗するとは思っていなかったのではないか。ここに至って太政大臣仲麻呂は、逆臣となる。
 仲麻呂は地盤のある近江へと脱出する。彼は近江守を兼任していた。しかし一足早く孝謙軍は近江へ急行し瀬田の橋を焼き落とし、行く手を阻む。孝謙側は、日本の諸葛孔明たる吉備真備が作戦を担当していた。以後全て仲麻呂の動きの先手を打つことになる。
 仲麻呂は琵琶湖東岸(近江国府がある)へ渡れず、西岸を辿って越前へと向かう。仲麻呂の頭には近江、美濃の勢力結集があっただろうがそれは潰えた。越前は息子の辛加智が国守である。もうそこしか力が残っていない。
 しかし孝謙軍は、先に越前にも手を打っていた。辛加智は既に斬られ、愛発の関は封鎖されている。最早打つ手がなくなった仲麻呂軍は、連れて来ていた塩焼王(新田部皇子の子。道祖王の兄)を立てて、これを天皇とした。そして仲麻呂が持ってきた太政官符をもって諸国に勅書を下した。これは一種の南北朝状態である。しかし頼りの近江、美濃、越前の勢力結集は出来ない。寺院勢力も道鏡によって既に手を打たれていた。
 越前への道を阻まれた仲麻呂軍は南下し、瀬田を落とし北上した佐伯三野らの軍勢と対峙することになる。
 しかし仲麻呂の次男真光率いる軍は屈強で、孝謙軍は押され、あわや突破かと思われた。ここで孝謙軍を打ち破れば、或いは情勢が変わった可能性がある。仲麻呂軍も天皇を推戴し、情報の乱れから塩焼王による勅書も全て偽だと決め付けられない地方もあったのだ。勝った方が官軍になった可能性もあった。この仲麻呂軍の抵抗は予想できなかった範疇だろう。
 しかしここで、平城から藤原蔵下麻呂を将とする官軍が到着し、形勢は逆転する。ついに仲麻呂軍は敗れ、仲麻呂、塩焼王以下主だった者は全て斬られた。

 仲麻呂は破れかぶれだったのだろうか。僕はそうではなかったと思っている。
 仲麻呂にはしっかりとした勝算があった。鈴印奪取の段階で歯車が狂ったが、新羅出兵の準備に伴って兵力も増強し、三関にも手を打っていた。これは吉備真備の方を称えるべきだろう。真備の打つ手がいずれも迅速かつ的確すぎた。それでも、蔵下麻呂の到着の時期によればまだどうなったかはわからない。
 では、仲麻呂は何を目指したのか。自らが皇位に就くことか。いやそうではあるまい。淳仁天皇を連れ出せなかった段階でスペアとも言える塩焼王を帯同している。あくまで「政道を正す」目的であったと思われる。しかし。

 結果論から歴史を解釈してはいけないと思うし、そもそも「if」にも繋がらないが、結果としてこの乱は舎人皇子系、新田部皇子系の系譜を壊滅させる。舎人系は乱に連座して船王、池田王らは配流。その他第四世代まで全て処断された。残ったのは和気王だけである。新田部系は塩焼王が斬られ、わずかに不破内親王(聖武天皇の娘)の子である志計志麻呂、川継だけが残った。しかし、これらの生き残りにも、この後厳しい運命が待つのである。
 舎人系は淳仁天皇を出し、このまま孝謙天皇が崩御するのを待てば確実に皇位は転がり込んで来ただろう。仲麻呂が失脚しても放置すればよかったのである。なのに勝負に出て自らの首を絞めてしまった。また舎人系は仲麻呂反逆に加担しているし、淳仁天皇のこともあり処断は免れないが、仲麻呂が連れ出したのは新田部系塩焼王である。何故か。たまたま近くに居た、とも言われるが、これによって新田部系をも葬ったのである。結局二つの皇統を潰し、これで天武系の皇位継承権利者はほぼ居なくなってしまった。

 結果論から言えば、仲麻呂は天武系断絶を完遂したのである。これは、不比等の定めた「先細りプログラム」に完全に合致している。仲麻呂がそう目論んでわざと舎人・新田部系を巻き込んで乱を起こした(自爆テロをした)と考えるのはあまりに空想的過ぎるが、結果的には有力者を排除し孝謙天皇の後継者を無くしたのだ。
 僕には、仲麻呂が不比等の巨大な意志に基づいた「天武系断絶計画」の鉄砲玉であったように見えてしょうがない。みんな不比等の手の中で踊っていたのか。

 残されたのは子供を生むことが許されない「巫女天皇」である孝謙。天智系復活までもう秒読みに入っていた。
 次回に続く。


関連記事:
もしも藤原仲麻呂の出兵計画が頓挫しなかったら
もしも道鏡が天皇になっていたら


コメント (5)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« もしも長屋王の変がなかったら | トップ | もしも…番外編 奈良時代とは... »

5 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (NAO)
2006-10-24 13:30:41
「仲麻呂は光明子に引き上げられ権勢を振るうようになる。」

ほどの政治力を光明子が持ちえたのだとしたら、
返信する
途中で送っちゃいまいした… (NAO)
2006-10-24 13:37:44
吉備内親王はどうだったんでしょうね。

なぜ彼女はとても微妙な地位にいた割には、あまり取り上げられないのかっていうことが、ちょっと不思議なんですが。。。
返信する
>NAOさん (凛太郎)
2006-10-25 23:33:41
光明子の力の源はどこからきているのか。これは不思議なのですよね。鵜野皇后にも言えることですが。嫁いだ人の力以上のものがある。個人的には、藤原氏のバックにまだ大いなる力があったと思っているのですが…。その大いなる力の尖兵として天智の娘がいて藤原氏がいる。

吉備内親王はその直系であるはずなのですが、必ずしもその大いなる力(僕は先細りプログラムと書きましたが)に与した動きをしていたとは思えない。膳夫王らが皇孫待遇になるような…。なので党派から外れた位置にいるようにも思えるのです。ただ血だけが重要ではなくて旗幟の色もあると思いますが、よくわかんない(汗)。

返信する
書き出しがステキ♪ (jasmintea)
2006-10-26 20:42:52
凛太郎さんの文章はすごいですね!

いきなり

>藤原仲麻呂は父の死を見ていたはずだ。

から始まるのに感心しちゃいました。



えっと、持統については書こうと思っているので置いといて

光明子は本当に何故あんなに権力を持てたのか謎です。

小説にもいろいろな書き方をされていますがどれもビビビっとこないです。

仲麻呂を考えるとき彼女は絶対避けて通れないんですよね~。



あと、最近妄想的に考えるのが孝謙天皇はもしかしたら天武系の血は父聖武天皇だけの血で他の天武系に皇位を譲る気はなかった?って気がして。

その意思を仲麻呂も知っていて実行した、それが道鏡登場で流れが変わった?

うーん、、、、どうもこの仲麻呂に関しては私は理解度がかなり不足しているみたいで自分に納得できる絵が描けません
返信する
>jasminteaさん  (凛太郎)
2006-10-26 22:46:05
この当時、確かに光明子に権力が集中していたように思えますね。「紫微中台」もある。この権力の源泉は確かに天皇が持つ神秘性などには求められませんよね。何ででしょう。

僕はぼんやりとですが、やはり光明子にはバックに財界、圧力団体がついていたと思えます。それはやはり百済系かなとも。不比等が使命感を持ってやらざるを得なかった「大いなる意思」というものの存在を感じるのですが。尤もなんの確証もありません(汗)。



孝謙は他の天武系に皇位を譲る気はなかった、ということですが、これは当初からそう考えていたのではなかったとは思うのですが、いつからかそう刷り込まれてしまったのではないかと僕は思っています。



仲麻呂は難しいですね。でも小説の主人公には成り得ますね。こんなに解釈がいろいろ出来る(笑)。
返信する

コメントを投稿

歴史「if」」カテゴリの最新記事