凛太郎の徒然草

別に思い出だけに生きているわけじゃないですが

もしも籤引きで足利義教が外れていたら 2

2007年05月29日 | 歴史「if」
 足利義持はその死に臨んで後継者を指名しなかった。
 これにはいくつもの理由があると思うがはっきりしたことはわかっていない。もう危ない、という段階において、宿老の畠山満家や山名時熙、護持僧の三宝院満済らがしつこく義持に尋ねたが、とうとう指名せずに没した。
 これは「無責任」であると言われる。後継問題は常に内紛の種だ。南北朝だって、元を正せば後嵯峨院が後継をはっきりさせなかったことから起こったのである。跡目問題は最も重要課題である。しかし義持は指名しない。通説では「自分が後継指名したところで、支持を得られなければしょうがない」と投げやりになって、宿老その他への壮大な皮肉として断固後継指名をしなかったのだ、とも言われる。
 これは一部は真実だろう。いくら「あいつがいい」と義持が思ったところで、支持が得られなければ潰されるだけだ。幕府実力者の支持が得られてこそ後継足りうるので、得られない人物ではまた揉め事が起こるだけである。
 しかし「投げやり」であったとは思えない。義持にも考えがあったのではないか。
 五代将軍義量は義持に先んじて死んだ。不幸だったがこれで直系はいない。あと考えられるのは鎌倉公方の持氏であるが、これを後継とすると勢力分布図が大きく変わってしまいおそらく管領その他重役の支持は得られまい。さすれば、義持の弟から、ということになるが、これはみんな出家している。適任者が居ない。なので決めかねた、という理由もあるだろう。
 もうひとつ大きな理由は、これは足利家の後継を決定するのではない、幕府の長たる将軍、「室町殿」を決定するのだということである。これは家の問題ではないのだ。
 決定権は自分にはない、と義持が考えてもおかしくないだろう。足利将軍は前回書いたように、絶対的権力を持つ存在ではない。有力者に押し上げられる「まとめ役」であり「調停者」という位置付けである。そこのところが義持にはよく分かっていたのではないだろうか。自分を顧みれば、義満から将軍職を譲られたものの、実権は全く無かった。義満は弟の義嗣を可愛がり、義満没後は義嗣が後継となるのでは、との見方すらあったのだ。だが、義持はそのまま将軍職に居座ることが出来た。それは、重役の斯波義将が子の義重を管領にして宿老として実権を握り、義持をサポートしたからだ。斯波義将が反義満の立場だった、ということが重要である。こうして宿老のバックで義持は力を発揮出来た、ということをよくわかっていた。
 重役、有力大名の支持があって将軍は権威を発揮できる。この室町幕府のシステムをよく義持は理解し、自分が後継を指名するより皆で決めたほうがうまくいく、と知っていた。安定のためには我を通すのは危険であるし無理は出来ない。皆で力を合わせて幕府を盛り立てて欲しい。そう願っていたようにも思う。義持はこの室町幕府というものの本質(もしくは、日本の政権というものの本質)を知っていたと思う。

 しかし、宿老も後継を一人に絞れなかった。候補者は出家でみな一線上である。なので、ついに「籤引き」という手法を採ることになる。ヒモ付きの持氏よりもこちらの方が安定するのではないか。畠山満家も満斉も考えた上での判断だった、と思う。「籤引き」とは神が選ぶことであるから。
 だが神は、とんでもない人物を選び出すことになる。 
 候補者は、青蓮院義円、相国寺永隆、大覚寺義昭、三千院義承。籤は厳密に公正に行われた。満斉が名前を書き、山名時熙が封に花押を書き(密封)、満家が引く。石清水八幡の威光をもって、青蓮院義円が当選する。還俗して足利義教。
 この籤にイカサマがあったのではないか、というのはよく聞く説だが、当時の考えからして難しいだろう。ただの籤ではなく神意を問うものであったわけだから、たがえれば神罰が待つと信じられていた。

 こうして足利義教が室町殿に就任するわけだが、僕はこの義教を、ずっと切れ者の敏腕政治家という見方をしてきた。幕府の中心である将軍に権力を集中させないと幕政は安定しない。なので思い切った手段で権力集中を図ったのだろうと。
 しかし、よく考えてみると室町幕府というものは、ギリギリの均衡の上に成り立っている存在である。三代義満は確かに権威、権力を集中させた。だが、それまで室町幕府というものは南北朝との対立軸の中で存在し、戦いに明け暮れ、義満に至ってようやく権威と権力が一元化したという、言わば義満が初代とも言うべき情勢だった。室町幕府は義満でようやく体を成したとも言える。そして、義持が二代目として義満の行き過ぎを是正し、なんとか均衡の上に安定を作り出したのだ。義持は自分の立場というものを身に沁みて知っていただろう。
 だが義教は、そんな先代である兄の苦労など顧みることはしなかった。自分が「神に選ばれた」という過剰な自負心で、再び権威と権力の一元化に臨むことになる。
 その考え方自体は、完全否定するものではない。権威と権力の二元化構造の安定など、後に歴史を知ってから分かることであって、始めはやはり一元化したいだろう。だが、どうもその手法に問題ありなのではないか、と僕などは思う。
 義教がとった手法は「恐怖政治」である。

 義教は、軍事力を持つ有力大名の後ろ盾で将軍になったのではなく、言わば「神に選ばれた」存在であるために、全く遠慮なしに政治を執った。
 初期こそ、宿老である畠山満家や山名時熙、また三宝院満済が健在であったために歯止めがかかっていた。まず鎌倉府の持氏討伐を企てるがこれを押し止められる。満家は義教と持氏をなんとか融和させたいと考えていた。しかし満家が没し、また時熙や「天下の義者」と称えられた満済が亡くなると、抑制者がいなくなり義教は思うがままに行動することになる。
 守護大名への相続に干渉を始める。三管領の家である斯波氏で、嫡男の相続を認めず出家していた弟に継がせる。今川氏も山名氏も、そして京極氏にも相続に口を出す。これは守護大名の統制・弱体化を狙ったものだろうが、こういうことは内紛の種である。確かに義満もこういう手法を使ったが、時代が違うとも思えるのである。さらに、自分になびかない大名に対し弾圧を加える。一色義貫や土岐持頼は、義教の命で大和国の抗争を終結させるために出陣し、三年もかけて沈静化させたのである。その凱旋間近の二人を、陣中で上位討ちである。
 こういうことは、政権発足時にはあることかもしれない。しかし、もう既に有力守護大名の連合政権という形が室町幕府には出来上がっているのである。それを、見せしめのような形で暗殺するとは。大名としては「やってられない」と思っただろう。

 そして、鎌倉府の討滅に着手する。権威・権力の二分化により政局が安定しないから、というのが大義名分ではあるが、何故に室町幕府は鎌倉府を置かねばならなかったかを考えると解せない。鎌倉公方はこのことによりさらに二元化し管領も分裂し、混迷を極める結果となる。関東平野は広い。そして武士の本場である。本来遷都(遷幕)でもしないと治まらない土地柄であり、ただ足利持氏を倒しただけで後のフォローを考えないとは困ったことである。
 これは、討滅よりも融和が望まれていたのではないか。満家や満済はこれを押し進め、関東管領上杉憲実は実際に奔走していた。なんとか日本的解決方法は無かったのか。このあと結城合戦が起こる。持氏討伐によりこの揉め事は必然だった。
 九州制圧は成功した。宗教勢力の弾圧も行いこれも一定の成果を上げたと言える。しかし、比叡山の統制は行うべき課題だが、 やり方は、叡山の主謀者たちに「罪を許すから」と言い出頭を求め、出てきた金輪院弁澄らの首を刎ねた。こういう騙し討ちはどうなのかな。叡山の僧侶たちは根本中堂に火を放ち抗議の自殺をした。
 朝廷関係に対し、天皇生母や関白経験者を容赦なく処罰して弾圧。日野義資は斬首である。止まるところを知らない。裁判に措いては、双方の言い分を勘案して裁断するのではなく、湯起請(昔の盟神探湯。熱い湯に手を漬け火傷した方が負け)や抽籤を多用した。神判にかけると言えば聞こえはいいが、これでは負ければ納得いかない。あげくは、「笑っただけで籠居」「枝を折って八人処罰」「料理がマズいと追放、許すと呼び寄せ斬首」。ついに「万人恐怖」「天魔の所業」と恐れられた。
 こうした出来事は敵対側、憎んでいた側の日記などから読み取れるもので、全てが真実とは断定できないが、全て捏造とも考えにくい。嗜虐的でヒステリックな様が浮かび上がる。
 いくら権威と権力を集中させたかったと言え、こんな政治をしていていいのか。
 この恐怖政治は、「次に粛清される」と目された赤松満祐の「窮鼠猫を噛む」式の義教暗殺で幕を下ろした。さもありなん、と思える結末である。

 義教は昨今評価が高い。崩れかけた室町幕府を引き締めなおそうとした、として中興の人物のように言われる。よく織田信長に擬せられる。暗殺で斃れたところも同じ。しかし僕にはどうもその評価に疑問がある。
 義持の治世は、比較的安定していたとも言われる。「応永」という年号は35年続き昭和、明治に次いで長い。これをもってただちに安定の時代とは言い難いが、ひとつの傍証にはなる。有力守護大名連合としての室町幕府。権威と権力が分散し、均衡が保たれた治世だった。様々な意見はあるだろうが、日本という国が編み出した平和のあり方の方式であったのではないだろうか。この均衡の上に乗った安定は、このまま続く可能性もあったと思う。宿老たちは平和を望んでいた。しかし義教はそのバランスを崩す。しかも手法は「恐怖政治」である。
 籤で義教が選ばれなかったとすればどうなったか。これは分からない。他の三名の候補者の政治力や性格がよくわからないからだ。大覚寺義昭は慈悲深く情があると評せられていたが、彼が将軍になれば善政が出来たかどうかは不明である。この大覚寺義昭は、後に南朝回復の旗頭として担ぎ出され、鎮圧され行方不明となる。義教は、義昭の人相書きを作って全国手配し、日向で自害に追い込んでいる。
 誰がなっても義教よりは…とつい僕などは考えてしまうが、籤で神に選ばれたという立場は人を変えてしまうのかもしれない。もともと義教も天台座主を経験し、慈悲深い政治を期待された人物なのだから。

 表題のifの結論は出ずじまいであるが、もしも赤松満祐が義教暗殺に失敗していたら。僕は運命論で歴史は考えたくないのだが、いずれ他の誰かが義教を誅した可能性が高いと思う。それほどこの暗殺による政変は、起こるべくして起こったと考えている。しかしそれもなかっとたとしたら。恐怖政治はさらに続いたであろうことも推測される。義教の周りには、骨のある人物はみんな排されイエスマンばかりが残るだろう。
 こんな、人材を失った状況で室町幕府は立ち行くのか。義教就任後まもなく正長の土一揆を始め民衆の紛争が勃発している。抑える人材も払底した幕府は弱体化し、応仁の乱を待たずに下克上の世の中が来る可能性もあると見ている。義教が室町殿になった時点で、幕府の崩壊は始まっていたのかもしれない。

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2 コメント

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いや~読み応えありすぎ♪ (jasmintea)
2007-06-02 23:26:14
私、室町幕府はあまり知らないんです。
わかるのは義満までと抜刀将軍からと間がスッポリ抜けています。
籤引きで将軍が決まった→幕府の凋落が始まったと知っていてもその後の政治まで知らなかったのでとても勉強になりました!
(この前「歴史を考えるということ」の最後に「室町バトン」と書かれていたので次は室町時代を書いて下さるのかな?と楽しみにしていました!)

しかし、歴史って同じことの繰り返しですね。
徳川綱吉とも印象が似ている気がしたのですが???
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>jasminteaさん (凛太郎)
2007-06-03 15:00:18
長かったですよね(汗)。読んでくださって感謝です。
実は、最初は違うタイトルで書き始めたのですよ。それで、前半が書きあがった時点で、とてもそのタイトルの話にまで行き着かないことが判明しまして、急遽義持、義教の話に絞った、というのが実情でして。だから話は全然ifになっていない(汗)。まあ続きはおいおい書いていくことにします。本当は応仁の乱までいく予定だったのですが。

室町時代って、平安時代とともにどうも人気がない。平安時代は別に光源氏人気などもありまして一応華やかなのですが(摂関政治は人気ないですが)、室町時代は戦国の幕が開くまでどうも…。ややこしい時代だからでしょうか。著名人は日野富子くらいですもんね。

歴史は繰り返すことも多いですが、義教というのはちょっと稀に見る独裁者だったのでは、とも思えます。綱吉というより、僕は(義教ファンには怒られるかもしれませんが)武烈天皇を思い出したりしていました。
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