凛太郎の徒然草

別に思い出だけに生きているわけじゃないですが

もしも籤引きで足利義教が外れていたら 1

2007年05月25日 | 歴史「if」
 室町幕府は何故あんなに脆かったのだろうか。
 応仁の乱の勃発によって室町幕府は徹底的に弱体化する。これ以降はもはや統治機構としての幕府ではなく名ばかりとなり世は戦国時代に突入する。室町時代は(足利幕府は)237年続くが、それは鎌倉幕府や江戸幕府よりもずっと薄い。三代将軍義満の時代に確かに光った時代はあったが、全体的に見て統治機構としての形をちゃんと成していない部分があるのではないか。そんなふうにも思える。

 政権とはなんだろうか。そんな根本から考えたくなってくる。
 政権樹立には、絶対権力者が必要である、とも言える。発足には必ずそういう英雄が現れ、権威と権力を掌握して政権をスタートさせる。天武天皇、桓武天皇、源頼朝、徳川家康、みなそうだと言える。
 もちろん権威と権力はいきなり同時には握れない場合もある。頼朝は、権威先行で権力は徐々に握った。家康は権力に権威を後付けしたとも言える。しかし両者とも、結局はそれを手中にしている。
 しかし、日本という国は絶対的権力者を望まない。いずれ権威と権力は分離する。これは日本ならではの安全弁であるとも思う。奈良、平安時代は天皇に権威が存したが、権力は徐々に藤原氏が侵食し押さえていく。鎌倉時代は、もう既に二代将軍頼家の段階で将軍から権力が奪われ、その権力は徐々に北条氏が掌握する。いずれも当初は一元的であったものが二元的になって安定する。面白い国だと思うが、一元性に対する危険性を知っているとも言える。平安摂関時代は、藤原道長が頂点に達した後に崩れていく。鎌倉幕府は、元寇の後北条得宗家に力が集中して疲労し終焉を迎えた。
 江戸幕府はそういったことを踏まえ、徳川将軍に権威を集中させたが、権力は必ずしも握っていない。しかし特定の人物(家系)に権力を委ねることなく、権力的組織を作り上げた。これが凄い。なので、時の権力者として柳沢吉保や田沼意次、松平定信や井伊直弼が登場する。こうして安定政権が生まれた。

 政権を樹立し維持するためにはまず権威付けが必要、というのは日本ならではかもしれない。世界史の常道では、政権樹立にはまず絶対的軍事力を背景に制圧するのが当然だが、日本では必ずしもそうではないのではないか、とも思える。
 古代を除いては、軍事力で全国を制圧して政権樹立を果たしたのは、もしかしたら秀吉が最初なのではないか。
 鎌倉政権は平氏を滅ぼし奥州藤原氏を滅ぼして政権を握ったではないか、という異論もあるだろうが、頼朝が子飼いの部下を従えて関東を軍事制圧したのではなく、むしろトップに奉り上げられたのである。そして戦争を手段として徐々に朝廷から権利を取得して全国規模の政府を作り上げたのであって、軍事力というより政治力で政権を樹立したという見方を僕はしている。頼朝は周囲に非常に気を遣って政権を維持している。
 秀吉は、奉り上げではなく、史上初めて軍事力で全国制圧を果たしたのだ、と僕は思う。信長がそう成るべきだったのだが途中で斃れ、彼はその遺産を受け継ぎ、圧倒的軍事力を持って権力とし、そして関白になることによって権威付けをした。そして日本統一を成し遂げたのだ。
 もしも秀吉が卑賤の出自ではなく(無理な権威付けではなく)、後継者がその死に臨んでしっかりとした壮年であったなら、豊臣政権は続いただろう。だが歴史はそうはならず、家康がとって代わる。
 家康は軍事力を背景にして幕府を開いたが、次の明治政府はそうではない。戊辰戦争はあったが一部であり、政権はすんなりと移譲された。すんなり、と書くと白虎隊ファンから怒られるが、最小限で済んでいる。権威は天皇であり、権力は明治政府。しっかりと二元化している。これが後に統帥権というものの出現で一元化してしまう昭和初期を迎えるが、やはり政権は崩壊している。日本史の原則である。

 では、室町幕府はどうだったのだろうか。
 よくよく考えると、足利尊氏が幕府を開いた背景には、権威も権力も無い。無い、と言ってしまうと問題があるな。実に弱かった、と言えばいいだろうか。
 それより先、後醍醐政権が樹立される。これは権威と権力を一元集中させた強い政権だったが、あっという間に崩れる。一元化は駄目だ。なので直ぐに代わりのカリスマを求められた。それが尊氏だった、ということである。建武の新政に憤懣を持つ勢力が尊氏を奉り上げた。理由は、頼朝以来の源氏の末裔であったということと、親分肌であったという理由くらいである。有資格者は、まだ新田や斯波や武田などたくさんいる。尊氏が選ばれたのはつまり「消去法」みたいなものではなかったのか。
 そして、尊氏が幕府を開いた時は、まだ南北朝並立である。権威が実に弱い。後に幕府内での対立で、尊氏は南朝に帰順したりしている。こんなことでは絶対的権力者にはなりえない。また、その成立の過程上、守護大名という存在が現れる。彼らは実力を持ち、足利将軍はその上に形式上立つ「まとめ役」みたいなものである。頼朝が「大統領兼最高裁判事」のようであったのに。やっぱり弱い。まだ南北朝は続く。武士の本場である鎌倉にも幕府は置けず、代わりに「鎌倉公方」を置く。九州は全然支配が及んでいない。こんな不安定な政権はない。
 思えば、鎌倉政権というものは「御恩奉公」というものがはっきりとしていた。鎌倉政権を支えた武士たちは「御家人」と呼ばれ、政権維持のために忠誠を誓っていた。それはもちろん、今までの朝廷・公家政権の中で不安定だった武士の身分を確立させ、正当化した鎌倉幕府というものを支えないと以前に逆戻り、という恐れがそうさせていたのだろう。しかし勝ち取った武士の権益も、時間と共に当たり前になってくる。既得権の存続を願う武士たちは自己利益を第一に考える。そうして室町幕府の誕生である。これを安定させるにはよっぽどの権威と権力が必要となるが、足利将軍はそれを持ち合わせていない。

 これを安定させるのは至難の技である。尊氏にカリスマ性があったにせよ、無理がある。もともと源氏傍系でさほどの貴種とも言えない。
 安定させるにはいくつかの方法がある。ひとつは、後世の信長・秀吉のように軍事力で平定し従わせるやり方。しかしこれは相当の時間もかかるし当時は現実的では無かったとも思える。もうひとつは権威を借りてくるやり方。なので北朝を立てたり南朝に帰順したり中途半端なことを繰り返したのだとも言える。また、組織を充実させるやり方。これは、三管領四職や鎌倉府、探題などを置いたが、かえって権力分散による混乱をも生じさせてしまった。実に難しい。そもそも武士の本場である関東に幕府を置けなかったことが弱体化にも繋がっているとも思うが、それはひとまず措く。
 安定の為に最も良い方法は、「誰からも不満の出ない善政をする」ことであろうが、これは最も難しい方法だろう。人間の欲望は限りが無い。次善の策として「最大公約数の政治をする」ことがあるが、これもまた難しい。

 三代将軍義満は、南北朝の混乱や内部紛争の蔓延する中、徐々に権力を掌握する。有力守護大名の土岐氏や山名氏の討伐、そして応永の乱による大内義弘の討伐で、その権威を高め、また勘合貿易などで財源も確保した。実にやり手である。最大のものは詐欺のような手段で南北朝合一を成し遂げたこと。これで権威も一元化した。さらに義満はその一元化した朝廷をも手中にしようとしたが、工作途中で死んだ。
 義満に権力が集中したのもつかの間、四代将軍義持も当初は強気で政治を行ったが、やはり将軍の権力は守護大名の力添えが頼りという現実に、妥協の政治となっていく。
 しかし、義持はよくやったとも思う。本来権威も権力もさほどにない立場の足利将軍として、次々に起こる不安定要素を、対処療法ではありながらなんとか凌いでいる。確かに上杉禅秀の乱を制圧したものの関東を直轄的に支配することは出来ず、足利持氏によって関東が独立政権的な様相になるのを許したが、これはそうするより方法があるまい。そもそも京都に幕府があるからこうなるのであって、関東にはある程度の独立を認めないと運営出来ないのではないか。いっそ持氏を将軍にすれば、とも思うが、現実的ではない。これは遷都(遷幕?)でもしないと無理である。九州も今川了俊を義満が罷免した後に安定はしなかったが、義持の治世では大きな変動は起きなかった。泰平の世、とまでは言えるのかどうかは分からないが、義満の反動を最小限に抑えたという見方も出来るのではないか。前述した「最大公約数の政治」に近いものであったようにも思えるのだが。 
 だが、義持は病に倒れ、後継者を決める事も出来ず没することになる。後継も決められずに没した、ということで義持は「無責任」だの「弱腰」だのと言われるが、僕はそれは気の毒に思っている。何故気の毒かということについても言わなければならないが、とにかく後継はくじ引きで六代将軍に義教が就任する。そして、彼は再び一元化を目指すことになる。

 ここからが本文となるはずだったが、前置きが長すぎた。次回に続く。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 赤い鳥「紙風船」 | トップ | もしも籤引きで足利義教が外... »

コメントを投稿

歴史「if」」カテゴリの最新記事