夜噺骨董談義

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俊寛僧都於鬼界嶋遇康頼之赦免羨慕帰都之図 月岡芳年作

2020-05-20 00:00:00 | 浮世絵
これからの季節の利用度を考えて休日には縁側のガラス掃除・・・。同年代の人には「縁側での思い出」はたくさんあるのでしょうが、徐々に失われていくひとつに「縁側での思い出」があるかもしれませんね。

景色と風通しの良さ、障子と畳の文化の景色、日本独特の空間を日本人は手放してはならないものと思います。空間は自分で作ってみて、手入れしてみて、よりいいものを作ってみたい、そこで学ぶことは多々ありました。



この日は急遽、皆でこの縁側で昼食と相成りました。高級らしきマンションに住むことは失うことのほうがいかに多いことか、マンションのような便利な?場所は老いてからでいいと思うのですが・・。

さて本日の本題です。本日の作品は最後の浮世絵師と称される月岡芳年の作品です。

月岡芳年は、明治18年から同22年にかけて、月岡芳年の傑作と言われている縦二枚続きの細長い作品を15図ほど制作しています。本日はそのひとつである「俊寛僧都於鬼界嶋遇康頼之赦免羨慕帰都之図(しゅんかんそうずきかいがしまにおいてたまたまやすよりのしゃめんせんぼきとのず)」の作品の紹介です。

本ブログではすでにそのシリーズの作品では「平維茂戸隠山鬼女退治之画」(下写真:左)を投稿しています。またもっともこのシリーズで著名な作品は「奥州安達原ひとつ家の図」(下写真:右)でしょう。この作品は黒塚の鬼婆伝説を題材にした一図で、気狂いして食人鬼と化した老女が今宵もまた捕らえてきた身重の女を吊るして今まさに解体しようとしている場面で、1885年(明治18年)に刊行されましたが、明治政府は風紀を乱すとしてこれを発禁にしています。

 

また上記写真左の作品は本ブログに投稿されており、その「平維茂戸隠山鬼女退治之画」は平たく言うと「戸隠山へ紅葉狩り、鬼女退治の図」のことです。



「信州の戸隠山に更科姫という姫が住んでいましたが性悪しく人々に難澁を与えていて、或る秋、平維茂が紅葉狩りをしようとして戸隠山に登った折、姫は酒肴をもてなし、大いに之を歓待して誘惑せんとしたが平維茂の帯びていた小烏丸の太刀の功徳に依り姫は本性を顕わし、鬼女の姿となったので維茂は小烏丸を振い鬼女を遂に退治した。」という伝説に基づく作品です。この伝説は長唄や歌舞伎にもなっているおり、図にした作品がこの作品です。



さて本日の作品の紹介です。

俊寛僧都於鬼界嶋遇康頼之赦免羨慕帰都之図 月岡芳年作
版画額装 作品サイズ:縦738*横255



あらためて月岡芳年の画歴は下記のとおりです。

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月岡芳年:本名吉岡米次郎、のち、画家月岡雪斎の家を継ぐ。号は玉桜、魁斎、一魁斎藤、大蘇など。芳年は、天保10年(1839)3月17日、商家吉岡家の次男として生まれ、本名吉岡米次郎、のち、画家月岡雪斎の家を継ぐ。号は玉桜、魁斎、一魁斎藤、大蘇など。



12歳で歌川国芳(1797~1861)に入門したと伝えられる。はじめ役者絵を中心に描くも、文久3年(1864)から幕末にかけては武者絵を描くようになり、殺伐とした世相を反映した残酷絵、血みどろ絵と呼ばれる一連の作品で一躍有名絵師の仲間入りを果たす。

明治5年(1873)に神経を病むが翌年快復し、後「大蘇」の号を用いて精力的に作品を刊行。新聞錦絵、怪奇画、美人画などのジャンルで人気を呼ぶが、とりわけ歴史画は芳年の独壇場だった。

晩年、再度神経を病んで発狂し、明治25年6月9日、54歳で没した。そして芳年の死とともに浮世絵は終焉を迎えたといわれる。

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描いているのは「俊寛」という平安時代後期の真言宗の僧の逸話です。



「俊寛」の略歴は下記のとおりです。

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俊寛:康治2年(1143年)~治承3年3月2日(1179年4月10日))。平安時代後期の真言宗の僧。

僧位の「僧都」を冠して俊寛僧都(しゅんかん そうず)と呼ばれることも多い。 村上源氏の出身で、父は木寺(仁和寺院家)の法印寛雅、母は宰相局(源国房の娘で八条院暲子内親王の乳母)。姉妹に大納言局(八条院女房で平頼盛の妻)。

後白河法皇の側近で法勝寺執行の地位にあった。安元3年(1177年)、藤原成親・西光らの平氏打倒の陰謀に加わって鹿ヶ谷の俊寛の山荘で密議が行われた(ただし、『愚管抄』によれば、信西の子・静賢の山荘で密談が行われたとされている)。だが、密告により陰謀は露見し、俊寛は藤原成経・平康頼と共に鬼界ヶ島(薩摩国)へ配流された。(鹿ケ谷の陰謀)

『源平盛衰記』によると、藤原成親は松の前・鶴の前という二人の殿上童を使って、俊寛を鹿ケ谷の陰謀に加担させたという事になっている。松の前は美人だが愛情の足りない女で、鶴の前は不美人だが愛情に溢れた女であった。成親がこの二人に俊寛の酒の相手をさせた所、鶴の前に心をよせて女児を生ませた。すっかり鶴の前に心を奪われた俊寛は、謀反に加担する事を同意したのだ、という。

『平家物語』によると、鬼界ヶ島に流された後の俊寛ら三人は望郷の日々を過ごし、成経と康頼は千本の卒塔婆を作り海に流すことを発心するが、俊寛はこれに加わらなかった。やがて、一本の卒塔婆が安芸国厳島に流れ着く。 これに心を打たれた平清盛は、高倉天皇の中宮となっている娘の徳子の安産祈願の恩赦を行う。

翌治承2年(1178年)に船が鬼界ヶ島にやって来るが成経と康頼のみが赦されており、俊寛は謀議の張本人という理由から赦されず島に一人とり残された。俊寛は絶望して悲嘆に暮れる。 翌治承3年(1179年)、俊寛の侍童だった有王が鬼界ヶ島を訪れ、変わり果てた姿の俊寛と再会した。有王から娘の手紙を受け取った俊寛は死を決意して、食を断ち自害した。有王は鬼界ヶ島より俊寛の灰骨を京へ持ち帰った。

俊寛が流された鬼界ヶ島の場所については、鹿児島県鹿児島郡三島村の硫黄島と、鹿児島県大島郡喜界町の喜界島には俊寛の墓と銅像、長崎県長崎市の伊王島に墓があり、諸説ありはっきりしていない。なお、硫黄島にはかつて俊寛旧邸宅跡の碑が残されていた。

また、ひそかに島を脱出したという説も多く、鹿児島県阿久根市や出水市、佐賀県佐賀市などにも俊寛に関する言い伝えが残っている。

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「翌治承2年(1178年)に船が鬼界ヶ島にやって来るが成経と康頼のみが赦されており、俊寛は謀議の張本人という理由から赦されず島に一人とり残された。俊寛は絶望して悲嘆に暮れる。」の説明にあるとおり、本作品は島に一人とり残された俊寛が、絶望して悲嘆に暮れる様子を描いた作品です。



月岡芳年については補足をしておきましょう。

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補足
月岡芳年(つきおか よしとし):1839年4月30日(天保10年3月17日)~1892年(明治25年)6月9日)。幕末から明治前期にかけて活動した浮世絵師。姓は吉岡のちに月岡。本名は米次郎。画号は、一魁斎芳年、魁斎、玉桜楼、咀華亭、子英、そして最後に大蘇芳年を用いた。

河鍋暁斎、落合芳幾、歌川芳藤らは歌川国芳に師事した兄弟弟子の関係にあり、特に落合芳幾は競作もした好敵手であった。また、多くの浮世絵師や日本画家とその他の画家が、芳年門下もしくは彼の画系に名を連ねている。

歴史絵、美人画、役者絵、風俗画、古典画、合戦絵など多種多様な浮世絵を手がけ、各分野において独特の画風を見せる絵師である。多数の作品がある周囲の中で、決して多いとは言えない点数でありながら、衝撃的な無惨絵の描き手としても知られ、「血まみれ芳年」の二つ名でも呼ばれる。

浮世絵が需要を失いつつある時代にあって最も成功した浮世絵師であり、門下からは日本画や洋画で活躍する画家を多く輩出した芳年は、「最後の浮世絵師」と評価されることもある。

昭和時代などは、陰惨な場面を好んで描く絵師というイメージが勝って、一般的人気(専門家の評価とは別)の振るわないところがあったが、その後、画業全般が広く知られるようになるに連れて、一般にも再評価される絵師の一人となっている。

*月岡芳年は「血みどろ絵」の作者という印象が強いのだろうが、本来は縦2枚続き、横3枚綴りの作品が最高傑作に位置する作品だと思います。



天保10年3月17日(1839年4月30日)、江戸新橋南大坂町(武蔵国豊島郡新橋南大坂町[現・東京都中央区銀座八丁目6番]。他説では、武蔵国豊島郡大久保[現・東京都新宿区大久保])の商家である吉岡兵部の次男・米次郎として生まれる。のちに、京都の画家の家である月岡家・月岡雪斎の養子となる(自称の説有り、他に父の従兄弟であった薬種京屋織三郎の養子となったのち、初めに松月という四条派の絵師についていたが、これでは売れないと見限って歌川国芳に入門したという話もある)。

*月岡雪斎の作品、さらには月岡雪斎の父である月岡雪鼎の作品は本ブログにも投稿されています。

嘉永3年(1850年)、12歳で歌川国芳に入門。武者絵や役者絵などを手掛ける。
嘉永6年(1853年)、15歳のときに『画本実語教童子教余師』に吉岡芳年の名で最初の挿絵を描く。同年錦絵初作品『文治元年平家一門海中落入図』(大判3枚続)を一魁斎芳年の号で発表。
慶応元年(1865年)に祖父の弟である月岡雪斎の画姓を継承、中橋に居住した。

慶応2年(1866年)には橘町2丁目に住し、同年12月から慶応3年(1867年)6月にかけて、兄弟子の落合芳幾と競作で『英名二十八衆句』を表す。これは歌舞伎の残酷シーンを集めたもので、芳年は28枚のうち半分の14枚を描く。一連の血なまぐさい作品のなかでも、殊に凄まじいものであった。

明治元年(1868年)、『魁題百撰相』を描く。これは、彰義隊と官軍の実際の戦いを弟子の旭斎年景とともに取材した後に描いた作品である。続いて、
明治2年(1869年)頃までに『東錦浮世稿談』などを発表する。この頃、桶町、日吉町に住む。

明治3年(1870年)頃から神経衰弱に陥り、極めて作品数が少なくなる。
1872年(明治4年/明治5年)、自信作であった『一魁随筆』のシリーズが人気かんばしくないことに心を傷め、やがて強度の神経衰弱に罹ってしまう。

翌1873年(明治6年)には立ち直り、新しい蘇りを意図して号を大蘇芳年に変える。また、従来の浮世絵に飽き足らずに菊池容斎の画風や洋風画などを研究し、本格的な画技を伸ばすことに努め、歴史的な事件に取材した作品を多く描いた。
1874年(明治7年)、6枚つながりの錦絵『桜田門外於井伊大老襲撃』を発表。芳幾の新聞錦絵に刺激を受け、同年には『名誉新聞』を開始、
1875年(明治8年)、『郵便報知新聞錦絵』を開始。これは当時の事件を錦絵に仕立てたもの。1
876年(明治9年)、南金六町に住む。
1877年(明治10年)に西南戦争が勃発し、この戦争を題材とした錦絵の需要が高まると、芳年自身が取材に行ったわけではないが、想像で西南戦争などを描いた。
1878年(明治11年)には丸屋町に住んでおり、天皇の侍女を描いた『美立七曜星』が問題になる。
1879年(明治12年)に再び南金六町に戻り、さらに宮永町へ転居しているが、この時期、手伝いにきていた坂巻婦人の娘・坂巻泰と出会っている。
1882年(明治15年)、絵入自由新聞に月給百円の高給で入社するが、1884年(明治17年)に『自由燈』に挿絵を描いたことで絵入自由新聞と問題になる。また、『読売新聞』にも挿絵を描く。
1883年(明治16年)、『根津花やしき大松楼』に描かれている幻太夫との関係も生じるが、別れています。
1884年(明治17年)、坂巻泰と正式に結婚する。

1885年(明治18年)、代表作『奥州安達が原ひとつ家の図』などによって『東京流行細見記』(当時の東京府における人気番付)明治18年版の「浮世屋絵工部」、すなわち「浮世絵師部門」で、落合芳幾・小林永濯・豊原国周らを押さえて筆頭に挙げられ、名実共に明治浮世絵界の第一人者となる。この頃から、縦2枚続の歴史画、物語絵などの旺盛な制作によって新風を起こし、門人も80名を超していた。この年、浅草須賀町に移る。
1886年(明治19年)10月、やまと新聞社に入社、錦絵『近世人物誌』を2年継続して掲載する。 1888年(明治21年)、「近世人物誌」を20でやめ、錦絵新聞附録とする。この時期までに200人余りの弟子がいたといわれる。
その後、『大日本名将鑑』『大日本史略図会』『新柳二十四時』『風俗三十二相』『月百姿』『新撰東錦絵』などを出し、自己の世界を広げて浮世絵色の脱した作品を作るが、それに危機を覚えてか、本画家としても活躍し始める。『月百姿』のシリーズは芳年の歴史故事趣味を生かした、明治期の代表作に挙げられる。また、弟子たちを他の画家に送り込んでさまざまな分野で活躍させた。

晩年にあたる1891年(明治24年)、ファンタジックで怪異な作品『新形三十六怪撰』の完成間近の頃から体が酒のために蝕まれていき、再び神経を病んで眼も悪くし、脚気も患う。また、現金を盗まれるなど不運が続く。
1892年(明治25年)、新富座の絵看板を右田年英を助手にして製作するものの、病状が悪化し、巣鴨病院に入院する。病床でも絵筆を取った芳年は松川の病院に転じるが、5月21日に医師に見放されて退院。6月9日、東京市本所区藤代町(現・東京都墨田区両国)の仮寓(仮の住まい)で脳充血のために死亡した(享年54、満53歳没)。しかし、『やまと新聞』では6月10日の記事に「昨年来の精神病の気味は快方に向かい、自宅で加療中、他の病気に襲われた」とある。

芳年の墓は新宿区新宿の専福寺にある。法名は大蘇院釈芳年居士。1898年(明治31年)には岡倉天心を中心とする人々によって向島百花園内に記念碑(月岡芳年翁之碑)が建てられた。

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画中にあるのは描いた状況を説明したものです。



月岡芳年の幾つかの評価をまとめたものが下記の記述です。

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江戸川乱歩や三島由紀夫などの偏愛のために、「芳年といえば無惨絵」と思われがちであるが、その画業は幅広く、歴史絵・美人画・風俗画・古典画にわたる。近年はこれら無惨絵以外の分野でも再評価されてきている。師匠・歌川国芳譲りの武者絵が特に秀逸である。

もともと四条派の画家に弟子入りしたためか、本人の曰く「四条派の影響を強く受けた」肉筆画も手がけている。彼自身、浮世絵だけを学ぶことをよしとしなかったため、様々な画風を学んでいる。写生を重要視している。 芳年の絵には師の国芳から受け継いだ華麗な色遣い、自在な技法が見える。しかし、師匠以上に構図や技法の点で工夫が見られる。動きの瞬間をストップモーションのように止めて見せる技法は、昭和期以降に発展してきた漫画や劇画にも通じるものがあり、劇画の先駆者との評もある。

『大日本史略図会』中の日本武尊や、1883年(明治16年)の大判3枚続『藤原保昌月下弄笛図』(千葉市美術館所蔵)など、芳年には歴史絵の傑作がある。明治という時代のせいか、彼の描く歴史上の人物は型どおりに納まらず、近代の自意識を感じさせるものとなっている。美人画・風俗画も手がけており、『風俗三十二相』でみずみずしい女性たちを描いた。

初期の作品『英名二十八衆句』(落合芳幾との競作)では、血を表現するにあたって、染料に膠を混ぜて光らすなどの工夫をしている。この作品は歌川国芳(一勇斎国芳)の『鏗鏘手練鍛の名刃(さえたてのうちきたえのわざもの)』に触発されて作られた。これは芝居小屋の中の血みどろを参考にしている。当時はこのような見世物が流行っていた。

芳年は写生を大切にしており、幕末の動乱期には斬首された生首を、明治元年(1868年)の戊辰戦争では戦場の屍を弟子を連れて写生している。しかし、想像力を駆使して描くこともあり、1885年(明治18年)に刊行された代表作『奥州安達が原ひとつ家の図』など、その一例と言える。責め絵(主に女性を縛った絵)で有名な伊藤晴雨は、この絵を見た後、芳年が多くの作品で実践するのと同じく実際に妊婦を吊るして写生したのか気になり、妻の勧めで妊娠中の彼女を吊るして実験したという。そうして撮った写真を分析したところ、おかしな点があったため、モデルを仕立てての写生ではなく想像によって描かれたという結論に達した。その後、芳年の弟子にこのことを話すと、弟子は「師匠がその写真を見たら大変喜ぶだろう」と答えたという。

月岡芳年と言えば、凄惨(せいさん)な殺戮(さつりく)の場面をどぎついほどの強烈な表現で描き出した「血みどろ絵」の作者という印象が強い。事実、幕末から明治維新にかけての動乱の時代に、歌舞伎の「夏祭浪花鑑」や「東海道四谷怪談」、あるいは講談や軍記物の講釈などの大衆娯楽の世界から特に「殺し」の場面を選び出して絵画化した「英名二十八衆句」や「魁題(かいだい)百撰相」などのシリーズが芳年の名前を「血みどろ絵」と結びつけてしまったことは確かであろう。

月岡芳年『英名二十八衆句:直助権兵衛』



 しかし、芳年の画境はそれだけではない。同じ頃、師の歌川国芳から学んだ壮麗な源平合戦図や、当時の人気俳優を主題にした役者絵、さらには有名呉服店が軒を連ねる華やかな「東京尾張町之図」、蒸気鉄道車が煙をあげる文明開化期の東京の姿を残している。

月岡芳年の代表作「藤原保昌月下弄笛図」大判錦絵
絵三枚続、1883年



月に対しては名前のせいもあって思い入れがあるようで、月の出てくる作品が多く、『月百姿』という100枚にもおよぶ連作も手がけている。これは芳年晩年の傑作とされる。

月岡芳年「月百姿 吼噦」



幽霊画も『幽霊之図』『宿場女郎図』などを描いており、芳年自身が女郎の幽霊を見たといわれている。

月岡芳年の画家としての活躍は21歳から54歳までの33年間で、晩年の弟子山中古洞の分析では、芳年の作品のテーマは約500ほどであり、同じテーマの作品を複数製作することも多く、なかには同じテーマで100点もの作品を作った例もある。そのために芳年の生涯での製作作数は1万にも及ぶと見られている。またそれ以外にも本、雑誌、新聞などの挿絵が無数にあり、多くの浮世絵作家の中でも三代豊国や葛飾北斎に次ぐ多作家であろうとされている。

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長々と記述しましたが、幕末の歌川派に代表されるように形骸化した浮世絵に反発してか、明治期の版画は活況を呈します。その橋渡しに一人に月岡芳年が位置しているようにも思えます。



孤島に置き去りにされた俊寛・・・、意識次第では幸福感を味わえたろうに・・。出世欲、地位欲、金銭欲、そして淫欲から離れてみれば、もっと違う景色を感じることもあったろうにと縁側でひとり考えてしまいます。欲に流される人間は結局、その欲の対象から裏切られることになることを意外に知らない方が多い。

「コロナウイルスの状況下で外食・外車・海外旅行と書いて、害食・害車・海害旅行と書き直してみればよい。」とはどなたかの弁・・。普段できることができなくなっても、人生の楽しみがいろいろとほかにある方は幸せであり、コロナウイルスの状況下で「違う景色が見えたこと、そして学んだこと」が多々ある方は人生経験が豊かな方かもしれません。


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