夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

堀尾之陵図 池田遥邨筆 その2

2016-11-04 00:01:00 | 掛け軸
池田遥邨の作品は意外に好き嫌いがある方多いでしょうね。傾倒した富田渓仙もそうでしょうが、こららの画家を理解できるほど、現代人は心豊かではないかもしれません。

堀尾之陵図 池田遥邨筆 その2
紙本水墨淡彩軸装 軸先象牙 共箱
全体サイズ:縦1263*横445 画サイズ:縦260*横316





「堀尾之陵」とは堀尾吉晴(ほりお よしはる)の墓のこと。安土桃山時代から江戸時代前期の武将・大名。豊臣政権三中老の1人。

 

「堀尾吉晴」についてはリンク先を参考にしていただきたいのですが、有名な水野忠重暗殺は下記の事情のようです。石田三成の企てのように書かれていますが、真偽のほどは解りません。

堀尾吉晴は「仏の茂助」と呼べれている反面、小田原攻めの際、古くから親交のあった中村一氏に、吉晴は陣を敷いていた絶好の場所を奪われ、吉晴から陣地を強奪した一氏はその恩恵も合わさって抜群の武功を挙げました。吉晴は激怒し、抜刀して一氏に斬りかかり刺し違えようとまでしたという逸話もあります。

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堀尾吉晴は、越前国に向かう途上で三河国池鯉鮒に至った。時に水野忠重は吉晴と信友であったので、刈屋からやって来て吉晴を饗応した。
この時、図らずも加賀井秀望もやって来て三人は談話をしながら酒を飲んだ。

日はすでに暮れて吉晴は酔って眠ってしまった。すると突然、秀望は忠重を斬殺した。太刀音を聞いて目覚めた吉晴は秀望を組み伏せて刺殺した。事態に気付いた忠重の家臣達は刀を振るって吉晴に向かって来た。

吉晴は彼らを制したが聞き入れてもらえず、灯火を倒して暗闇にまぎれて庭に下り、塀をつたって逃れた。吉晴は数ヶ所の傷を負い、家臣に扶持されて浜松へ帰った。

忠重の家臣達は吉晴が逆心により忠重と秀望を殺害したと関東へ報告した。これを聞いて徳川秀忠は「吉晴と忠重の二人に限って逆意を企てるはずがない」と言ったが、日あらずして飛脚が来たり「秀望の死骸をあらためたところ、三成の書簡がありました。

それには『徳川家の老臣、または吉晴か忠重を殺害したならば重く恩賞を与える』とありました。ですから秀望が忠重を殺し、吉晴が即座に秀望を討ったのです」と報告された。

よって吉晴の子息忠氏のもとへ使者を下してその功を賞し、家康も吉晴に御書を与えて、その傷を見舞った。

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吉晴が我慢の限界に達してキレてしまったがゆえに取ってしまった矯激な行動と解釈される説もあり、普段は相当に無礼な扱いを受けようとも従容と受け入れる寛容さと忍耐を持った人間でもあったという。「温厚な奴ほどキレると怖い」という説ですね。



いずれにしても、松江城築城の功績もあり、武人としての逸話に事欠かない人物のようです。



「堀尾之陵」という題名から「堀尾吉晴」のことを知らないとないを描いたかさっぱり解らないということになります。堀尾吉晴に敬意を表して箱書きには「敬題」とあります。



池田遥邨は若年より歌川広重に傾倒し、法被姿で広重の足跡を辿り、東海道五十三次を3度も旅し、また生涯、自然と旅を愛し全国を旅して回った。晩年は種田山頭火に傾倒し、山頭火の俳句をモチーフに画作を行い、山頭火の姿で旅をしたそうです。

冨田渓仙の影響を受けた鳥瞰図法による明るい色彩の風景画で独自の画風は実に魅力です。本作品は旅のスケッチのような何気ない作品ですが、余すところなく池田遥邨の魅力を表現しています。


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