夜噺骨董談義

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二行書 七言律詩 山岡鉄舟筆 その2

2022-05-08 00:01:00 | 掛け軸
明治20年5月、山岡鉄舟に勲三等に叙せられる申し出があった時に山岡鉄舟は拒否したという逸話があります。

勲章を持参した井上馨に、「お前さんが勲一等で、おれに勲三等を持って来るのは少し間違ってるじゃないか。(中略)維新のしめくくりは、西郷とおれの二人で当たったのだ。おれから見れば、お前さんなんかふんどしかつぎじゃねえか」と啖呵を切ったとか・・・。

江戸無血開城を決定した有名な勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち、山岡鉄舟は官軍の駐留する駿府(現在の静岡市)に辿り着き、単身で西郷と面会し、江戸無血開城を事前に協議していたふし?があるようです。


二行書 七言律詩 山岡鉄舟筆
唐代 黄滔の七言律詩 宿松明府より 
紙本水墨軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1975*横720 画サイズ:縦1358*横619


書かれている漢詩は下記の内容のようです。

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漢詩:唐代 黄滔の七言律詩 宿松明府より
若非似水清無底(もし水の清く底無きに似たるにあらざれば)
争得如氷凛拂人( 争いて氷の如く凛として人を払うを得)

*底がないくらいきれいな水のよう(人で)なければ、 諫めて氷のように冷たく人を払拭する(ような礼楽刷新の政治となった)
**黄滔:(晩唐 840~911),字文江,莆田城内前埭の人,晚唐五代著名的文学家。

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「江戸無血開城」に関しては山岡鉄舟に関した下記の記録があります。

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江戸無血開城を決した勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち、3月9日官軍の駐留する駿府(現静岡市葵区)に辿り着き、伝馬町の松崎屋源兵衛宅で西郷と面会しています。

2月11日の江戸城重臣会議において、徳川慶喜は恭順の意を表し、勝海舟に全権を委ねて自身は上野寛永寺に籠り謹慎していました。海舟はこのような状況を伝えるため、征討大総督府参謀の西郷隆盛に書を送ろうとし、高橋精三(泥舟)を使者にしようとしましたが、彼は慶喜警護から離れることができなかったために、そこで鉄舟に白羽の矢が立ったとされています。

この時、刀がないほど困窮していた鉄舟は、親友の関口艮輔に大小を借りて官軍の陣営に向かったとされます。また、官軍が警備する中を「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る」と大音声で堂々と歩行していったという逸話があります。 3月9日、益満休之助に案内され、駿府で西郷に会った鉄舟は、海舟の手紙を渡し、徳川慶喜の意向を述べ、朝廷に取り計らうよう頼んだようです。

この際、西郷から5つの条件を提示されます。
それは、
一、江戸城を明け渡す。
一、城中の兵を向島に移す。
一、兵器をすべて差し出す。
一、軍艦をすべて引き渡す。
一、将軍慶喜は備前藩にあずける。
というものであったとされています。

このうち最後の条件を鉄舟は拒みます。西郷はこれは朝命であると凄んだ。これに対し、鉄舟は、もし島津侯が(将軍慶喜と)同じ立場であったなら、あなたはこの条件を受け入れないはずであると反論します。西郷は、江戸百万の民と主君の命を守るため、死を覚悟して単身敵陣に乗り込み、最後まで主君への忠義を貫かんとする鉄舟の赤誠に触れて心を動かされ、その主張をもっともだとして認め、将軍慶喜の身の安全を保証しました。これによって奇跡的な江戸無血開城への道が開かれることとなったとされています。

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「若非似水清無底(もし水の清く底無きに似たるにあらざれば)
争得如氷凛拂人( 争いて氷の如く凛として人を払うを得)」という漢詩に山岡鉄舟は上記の会談に臨む心境を重ねてように思われます。


剣・禅・書の達人としても知られ、とくに剣では一刀正伝無刀流(無刀流)の開祖とされます。書でも「幕末の三舟(勝海舟・高橋泥舟・山岡鉄舟)」のひとりとして挙げられています。位は従三位勲二等子爵となっており、結局のところ冒頭にある従三位勲は受けたのかもしれません。愛刀は粟田口国吉や無名一文字とされます。

 

西郷のたっての依頼により、明治5年(1872年)に宮中に出仕し、10年間の約束で侍従として明治天皇に仕えています。侍従時代、深酒をして相撲をとろうとかかってきた明治天皇をやり過ごして諫言したり、明治6年(1873年)に皇居仮宮殿が炎上した際、淀橋の自宅からいち早く駆けつけたりするなど、剛直なエピソードが知られています。なにしろ身長6尺2寸(188センチ)、体重28貫(105キロ)と大柄な体格であったようです。

印章の「関防印」の資料との検証は下記のとおりです。入手先の方の父上が中野の鉄舟会の道場で長年、故大森曹玄老師に師事し、鉄舟研究で何冊も本を出版していたようです。

 

「藤原高歩」と「鐵太郎?」の印章につちての資料との検証も下記のとおりです。

 

書についても印章の検証は難しく、西郷南洲の作品でも記述していますが、落款や印譜が無くても真作はすぐに分かる鑑識眼が必要なのは書も絵も同じようです。


なにはともあれ思うところの多い漢詩の作品です。

「底がないくらいきれいな水のよう(人で)なければ、 諫めて氷のように冷たく人を払拭する(ような礼楽刷新の政治となった)」ような心意気のある為政者が現れないと世界は平和にならないようです。


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