
最近は初釜の準備と片付けで写真撮影、ブログの原稿作成がままならぬ状態・・、とうとう今週末には疲労で?風邪でダウン ともかく好きなことはじっくりやるために睡眠第一
家内のお茶の社中にはどうも息子と同年代の女の子が多くなってきたようです。男の子が少ないのが現状なようで、幼稚園でも息子はもてるようです。全くもてなかった小生にはうらやましい限り・・

初釜に展示した作品のひとつは原三渓の掛け軸です。家内が原三渓の絵が好きで家内が購入した作品ですが、軸先が欠損しているなど表具が痛んでいるため改装したので本日改めて紹介します。
竹 原三渓賛画
紙本水墨軸装 軸先木製 誂箱
全体サイズ:縦1900*横455 画サイズ:縦2147*横320

賛に「甲戌」とあり、昭和9年の作と推察されます。「三渓先生漫畫竹 是蘆是竹不?誰知 一竿恐不人間種 喚得清風満意吹 昭和甲戌冬於南風村荘寫 三渓 押印」とあり、下記の作品の資料のように同様な賛のある作品があります。途中の賛に一部違いはあるもののほぼ同一の意味の賛であろうと推定されます。

*2019年11月に改装し直しています。改装を機にリメイクでの投稿となります。詳細は最初の投稿記事を参考にして下さい。
本作品と同様な作品の説明資料は下記のものです。

「三渓先生漫畫竹 蘆耶竹耶自不知 婆娑恐不人間種 喚得清風満意吹」
三渓先生 漫ろに竹を画く 蘆か竹か 自ら知らず 婆娑たるは 人間の種に非るを恐ろしむ 喚び得るか 清風意を満たして吹くを」
意味:「三渓先生が筆に任せてとりとまもなく竹を描く だが蘆なのか竹なのかよく分からない 描かれた竹が風に揺れる様が自由気ままで、この世のものではないと感じるので、果たして清風を心行くまで吹かせることができるだろうか」のようです。
本作品は上記のように「三渓先生漫畫竹 是蘆是竹不?誰知 一竿恐不人間種 喚得清風満意吹」 とあり、二句目と三句目に多少の違いがあります。
解説のよると下記のような意味のようです。
起句で自分自身を「三渓先生」と尊称で呼んだのは、意のままにならない絵を描く自分自身の心理的な屈折を承句と転句で戯画化し、虚構性を仕組んだと考えられます。そこには自分自身の画技に対して謙遜しながら、斜に構えている「三渓先生」がいます。
また三渓先生は水墨画を好みました。白黒で最小限の世界を表わす水墨画は、現実の色彩の世界から超越した精神世界を表わします。三渓は結句で竹という物質の実在感ではなく、清風という目に見えない対象を描くことができるかどうかに苦心しています。つまりここで三渓は絵画の神髄に触れているのです
ご存知の方も多いでしょうが、原三渓の来歴は下記のとおりです。
************************************
原 富太郎(はら とみたろう):慶応4年8月23日(1868年10月8日) ~昭和14年(1939年)8月16日)。実業家、茶人。明治・大正・昭和の前半期にかけて生糸貿易で財を成した実業家にして古美術と近代日本美術のコレクター、新進画家のパトロン、さらに自らも絵筆をとる文人であり茶人、横浜だけでなく日本を代表する文化人として大きな存在感を示した号は三溪。三溪の号は自邸がある本牧三之谷の地名からとった。

美濃国厚見郡佐波村(現・岐阜県岐阜市)出身。1868年(慶応4年)岐阜県厚見郡佐波村(現岐阜市柳津町)に青木久衛・琴の長男として生まれる。
小学校卒業後、儒学者の野村藤陰や草場船山に学ぶ。その後上京し、東京専門学校(現・早稲田大学)で政治学・経済学を学び、跡見女学校の教師を務める。
屋寿と結婚。1892年、跡見女学校に通う横浜の豪商・原善三郎の孫・原 屋寿(はら やす)と結婚し、原家に入る。1899年(明治32)善三郎の死去に伴い、横浜で一二を争う生糸売込商「亀屋」の家業を継ぐ。翌年には原商店を原合名会社に改組、富岡製糸場など製糸業にも進出して近代的な事業経営を次々と展開する。
横浜市を本拠地とし、絹の貿易により富を築いた。また富岡製糸場を中心とした製糸工場を各地に持ち、製糸家としても知られていた。1915年に帝国蚕糸の社長、1920年に横浜興信銀行(現在の横浜銀行)の頭取となる。
1923年の関東大震災後には、横浜市復興会、横浜貿易復興会の会長を務め、私財を投じ復興に尽くした。
このように多くの企業や社会福祉関係の要職につくかたわら、院展の画家や彫刻家に対する物心両面の援助を行う。美術品の収集家として知られ、横浜本牧に三溪園を作り、全国の古建築の建物を移築した。
三溪園を一般公開したのが1906年(明治39)、小林古径、安田靫彦や前田青邨ら若手画家への支援を開始するのが1911年(明治44)、臨春閣の移築が完了するのが1917年(大正6)。三溪園にはインドの詩人タゴールをはじめ内外から著名な文化人が多数来訪。1923年(大正12)の関東大震災時には横浜市復興会長として横浜の復興に奮闘、また生糸危機に直面した蚕糸業や銀行の救済に奔走、さらに経済の発達に伴って生じるさまざまな分野の社会事業にも貢献を果たす。
晩年は親しい友人・知人との三溪園での茶会や、自らの書画三昧の生活を楽しむ。1939年(昭和14)逝去、享年70。 .三溪園は、戦後原家より横浜市に譲られ、現在は財団法人三溪園保勝会により保存され、一般公開されている。子に原善一郎、原良三郎らがいる。
横山大観の「山路」(明治44年制作)は原三渓の依頼によって描いた作品です。
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初釜に展示した意図は下記のとおりです。

「果たして清風を心行くまで吹かせることができるだろうか?」 誰もが願う人生の究極の境地か・・。私どもとしては、この初釜の席が訪れた方にとっていいものだったかどうかという心配を表したような作品でもあります。

ちょうど茶席の裏になる床に飾りました。手前は伝高橋道八の柿本人麻呂像で、こちらも掛け軸同様に補修された作品であり、「亡くなった人を偲ぶとともに復興、復活を祈る」という初釜の席の趣旨のあった飾りのつもりです。
さて明日は札幌へ日帰りの出張です。夜遅くブログの原稿を作成していますが、風邪気味になったのと初釜の準備と片付けで忙しく、仕事も慌ただしいため、なかなか原稿を推敲している間もなく拙速な文章を投稿していることに恐縮している日々です。投降後も出かける前に見直しては訂正しています。

家内のお茶の社中にはどうも息子と同年代の女の子が多くなってきたようです。男の子が少ないのが現状なようで、幼稚園でも息子はもてるようです。全くもてなかった小生にはうらやましい限り・・


初釜に展示した作品のひとつは原三渓の掛け軸です。家内が原三渓の絵が好きで家内が購入した作品ですが、軸先が欠損しているなど表具が痛んでいるため改装したので本日改めて紹介します。
竹 原三渓賛画
紙本水墨軸装 軸先木製 誂箱
全体サイズ:縦1900*横455 画サイズ:縦2147*横320

賛に「甲戌」とあり、昭和9年の作と推察されます。「三渓先生漫畫竹 是蘆是竹不?誰知 一竿恐不人間種 喚得清風満意吹 昭和甲戌冬於南風村荘寫 三渓 押印」とあり、下記の作品の資料のように同様な賛のある作品があります。途中の賛に一部違いはあるもののほぼ同一の意味の賛であろうと推定されます。

*2019年11月に改装し直しています。改装を機にリメイクでの投稿となります。詳細は最初の投稿記事を参考にして下さい。
本作品と同様な作品の説明資料は下記のものです。

「三渓先生漫畫竹 蘆耶竹耶自不知 婆娑恐不人間種 喚得清風満意吹」
三渓先生 漫ろに竹を画く 蘆か竹か 自ら知らず 婆娑たるは 人間の種に非るを恐ろしむ 喚び得るか 清風意を満たして吹くを」
意味:「三渓先生が筆に任せてとりとまもなく竹を描く だが蘆なのか竹なのかよく分からない 描かれた竹が風に揺れる様が自由気ままで、この世のものではないと感じるので、果たして清風を心行くまで吹かせることができるだろうか」のようです。
本作品は上記のように「三渓先生漫畫竹 是蘆是竹不?誰知 一竿恐不人間種 喚得清風満意吹」 とあり、二句目と三句目に多少の違いがあります。
解説のよると下記のような意味のようです。
起句で自分自身を「三渓先生」と尊称で呼んだのは、意のままにならない絵を描く自分自身の心理的な屈折を承句と転句で戯画化し、虚構性を仕組んだと考えられます。そこには自分自身の画技に対して謙遜しながら、斜に構えている「三渓先生」がいます。
また三渓先生は水墨画を好みました。白黒で最小限の世界を表わす水墨画は、現実の色彩の世界から超越した精神世界を表わします。三渓は結句で竹という物質の実在感ではなく、清風という目に見えない対象を描くことができるかどうかに苦心しています。つまりここで三渓は絵画の神髄に触れているのです
ご存知の方も多いでしょうが、原三渓の来歴は下記のとおりです。
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原 富太郎(はら とみたろう):慶応4年8月23日(1868年10月8日) ~昭和14年(1939年)8月16日)。実業家、茶人。明治・大正・昭和の前半期にかけて生糸貿易で財を成した実業家にして古美術と近代日本美術のコレクター、新進画家のパトロン、さらに自らも絵筆をとる文人であり茶人、横浜だけでなく日本を代表する文化人として大きな存在感を示した号は三溪。三溪の号は自邸がある本牧三之谷の地名からとった。

美濃国厚見郡佐波村(現・岐阜県岐阜市)出身。1868年(慶応4年)岐阜県厚見郡佐波村(現岐阜市柳津町)に青木久衛・琴の長男として生まれる。
小学校卒業後、儒学者の野村藤陰や草場船山に学ぶ。その後上京し、東京専門学校(現・早稲田大学)で政治学・経済学を学び、跡見女学校の教師を務める。
屋寿と結婚。1892年、跡見女学校に通う横浜の豪商・原善三郎の孫・原 屋寿(はら やす)と結婚し、原家に入る。1899年(明治32)善三郎の死去に伴い、横浜で一二を争う生糸売込商「亀屋」の家業を継ぐ。翌年には原商店を原合名会社に改組、富岡製糸場など製糸業にも進出して近代的な事業経営を次々と展開する。
横浜市を本拠地とし、絹の貿易により富を築いた。また富岡製糸場を中心とした製糸工場を各地に持ち、製糸家としても知られていた。1915年に帝国蚕糸の社長、1920年に横浜興信銀行(現在の横浜銀行)の頭取となる。
1923年の関東大震災後には、横浜市復興会、横浜貿易復興会の会長を務め、私財を投じ復興に尽くした。
このように多くの企業や社会福祉関係の要職につくかたわら、院展の画家や彫刻家に対する物心両面の援助を行う。美術品の収集家として知られ、横浜本牧に三溪園を作り、全国の古建築の建物を移築した。
三溪園を一般公開したのが1906年(明治39)、小林古径、安田靫彦や前田青邨ら若手画家への支援を開始するのが1911年(明治44)、臨春閣の移築が完了するのが1917年(大正6)。三溪園にはインドの詩人タゴールをはじめ内外から著名な文化人が多数来訪。1923年(大正12)の関東大震災時には横浜市復興会長として横浜の復興に奮闘、また生糸危機に直面した蚕糸業や銀行の救済に奔走、さらに経済の発達に伴って生じるさまざまな分野の社会事業にも貢献を果たす。
晩年は親しい友人・知人との三溪園での茶会や、自らの書画三昧の生活を楽しむ。1939年(昭和14)逝去、享年70。 .三溪園は、戦後原家より横浜市に譲られ、現在は財団法人三溪園保勝会により保存され、一般公開されている。子に原善一郎、原良三郎らがいる。
横山大観の「山路」(明治44年制作)は原三渓の依頼によって描いた作品です。
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初釜に展示した意図は下記のとおりです。

「果たして清風を心行くまで吹かせることができるだろうか?」 誰もが願う人生の究極の境地か・・。私どもとしては、この初釜の席が訪れた方にとっていいものだったかどうかという心配を表したような作品でもあります。

ちょうど茶席の裏になる床に飾りました。手前は伝高橋道八の柿本人麻呂像で、こちらも掛け軸同様に補修された作品であり、「亡くなった人を偲ぶとともに復興、復活を祈る」という初釜の席の趣旨のあった飾りのつもりです。
さて明日は札幌へ日帰りの出張です。夜遅くブログの原稿を作成していますが、風邪気味になったのと初釜の準備と片付けで忙しく、仕事も慌ただしいため、なかなか原稿を推敲している間もなく拙速な文章を投稿していることに恐縮している日々です。投降後も出かける前に見直しては訂正しています。