夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

鍾馗図 その3 寺崎廣業筆 明治36年(1903年)頃

2022-04-15 00:01:00 | 掛け軸
庭に種々の花が咲き始めました。家内がいつのまにかシャクヤクの花と応接間に活けたようです。花瓶は伊万里の蛸唐草の窓絵の作品です。



描いた時期は各々違う時期の作品ですが、本日紹介する作品は寺崎廣業が鍾馗様を描いた作品としては3作品目となります。



鍾馗図 その3 寺崎廣業筆 明治36年(1903年)頃
絹本水墨軸装 軸先骨 共箱(箱書は明治末期~大正初期) 
全体サイズ:横550*縦2010 画サイズ:横405*縦1090



入手時の表具の状態はあまりよくありません。改装する必要があるでしょう。保管時において巻き方が悪かったり、湿気が多かったり、掛けている期間が長すぎるとこのように表具の状態が思わしくなくなります。



明治期末期から大正期にかけて、筆数の少ない山水などの作品が殆どの多作の時期の寺崎廣業にしては、本作品は筆数が多い方でよく描かている作品だと思います。



鍾馗は、主に中国の民間伝承に伝わる道教系の神のことですが、日本では疱瘡除けや学業成就に効があるとされ、端午の節句に絵や人形を奉納したりされ、また鍾馗の図像は魔よけの効験があるとされ、旗、屏風、掛け軸として飾ったり、屋根の上に鍾馗の像を載せたりする風習が古くからあり、数多くの作品が遺されています。 基本的に鍾馗の図像は必ず長い髭を蓄え、中国の官人の衣装を着て剣を持ち、大きな眼で何かを睨みつけている姿とされます。



鍾馗の縁起については諸説ありますが、最もポピュラーなのが玄宗皇帝にまつわる下記の言い伝えとされます。

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ある時、唐の6代皇帝玄宗が瘧(おこり、マラリア?)にかかり床に伏せていました。玄宗は高熱のなかで夢を見ます。その夢とは、宮廷内で小鬼が悪戯をしてまわりますが、どこからともなく大鬼が現れて、小鬼を難なく捕らえて食べてしまいます。玄宗が大鬼に正体を尋ねると、「自分は終南県出身の鍾馗。武徳年間(618年-626年)に官吏になるため科挙を受験したが落第し、そのことを恥じて宮中で自殺した。だが高祖皇帝は自分を手厚く葬ってくれたので、その恩に報いるためにやってきた」と告げたそうです。

夢から覚めた玄宗は、病気が治っていることに気付き、感じ入った玄宗は著名な画家の呉道玄に命じ、鍾馗の絵姿を描かせたところ、その絵は、まさしく絵は玄宗が夢で見たそのままの姿だったそうです。

玄宗の時代から臣下は鍾馗図を除夜に下賜され、邪気除けとして新年に鍾馗図を門に貼る風習が行われていた記録があるそうです。宋代になると年末の大儺にも貼られるようになり、17世紀の明代末期から清代初期になると端午の節句に厄除けとして鍾馗図を家々に飾る風習が生まれました。

この風習が日本に伝わってきたようですが、日本に鍾馗が流入した経緯は定かでは無いようで、最も古い鍾馗図の例として平安時代末期作の辟邪絵のひとつに確認できるそうです。すでに室町時代以降は漢画の画題として多くの画師に好まれていました。 民衆のあいだでは、江戸時代末(19世紀)ごろから関東で鍾馗を五月人形にしたり、近畿で魔除けとして鍾馗像を屋根に置く風習が見られるようになったとされます。

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なにはともあれ、縁起物・・。世間では小鬼が悪戯をしてまわりますが、どこからともなく大鬼が現れて、小鬼を難なく捕らえて食べてしまってほしいものです。

ところで我が家は最近、夜中に鼠が出回るらしい。神様に祀った米が無くなる・・・・?? 大黒様が増えたので、大黒様の使いとされる鼠が増えた? しかしさすがに衛生上問題がある マラリア?になあると鍾馗様か?
さて鼠退治の薬やネズミ捕りの道具を購入して対策中・・。



作品中や箱書きの落款と印章には問題なさそうです。ただしこの作品中の累印の印章の下のものは、真作でも多少違うような印があります。使用していた時期ですこしだけ印影が違うようです。この作品の印章は使い始めた初期のものと思わられます。

寺崎廣業は贋作が多いので、むろん贋作や印刷作品、さらには版画作品は蒐集対象から除外しています。さらに真作でも出来不出来がかなりはっきりしていますので、筋の良い出来の良い作品のみ蒐集対象とすることを心がけています。



*巻止にある印「松盛堂製」・「松田」・・表具したお店?↑



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