夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

氏素性の解らぬ作品 伝イズニク陶器 草花文花瓶

2019-07-16 00:01:00 | 陶磁器
我が家はいつも何かしらの実験場・・・、本日はアイスクリームに付いてきたドライアイスの実験。蝋燭に火をつけて消える実験までしたようです。小生は燃えるに必要な三要素を息子に説明・・・・???



さて本ブログで紹介した作品はガラクタが多いのですが、すでに2500点弱となりました。酸いも甘いも噛分ける考察が必要な骨董の世界でよくぞここまで続けてこられたのはよほど面の皮が厚いのだろうと思っています。作品の整理があと少しで整理が終わると思いながら、また探し出し続けているという始末、極力ガラクタは紹介しないようにしているのですが・・。

ところで当方のメインの蒐集に源内焼があり、源内焼から三彩の陶磁器に興味を持ち、さらには波斯陶器にまで波及して知ることが多くなります。今回は蒐集の主流ではない陶磁器ですが、「イズニク陶器」なる作品群について調べてみました。きっかけは下記のような氏素性の解らぬ作品を調べていることから始まりました。

氏素性の解らぬ作品 伝イズニク陶器 草花文花瓶
合箱
口径*胴径*底径*高さ(未測定)



本作品が「イズニク陶器」か否かはさておいて、「イズニク陶器」なるものについて調べてみましたので記述しています。まずは「イズニク」とは下記の都市の名前です。

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イズニク:トルコ、ブルサ県イズニク郡に属する都市。アナトリア半島北西部のイズニク湖西岸に位置する。1997年の統計で人口約18,600人の地方都市だが、古代の大都市ニカイアの後身であり、旧市街地区を取り囲む城壁をはじめ、古代ローマ時代以来の遺跡が数多く残っています。

イズニクの前身ニカイアは紀元前4世紀に建設されたヘレニズム都市で、マケドニア、ビチュニア、ローマ、ビザンツの手を経て1077年にトルコ人のセルジューク朝が奪取し、ルーム・セルジューク朝の最初の首都となりました。その後、1097年には第1回十字軍の協力を得たビザンツ帝国が奪還し、13世紀にはコンスタンティノポリスを第4回十字軍に奪われたビザンツ人の亡命政権であるニカイア帝国があります。

ニカイア帝国がコンスタンティノポリスを奪還してビザンツ帝国を再興した後、ニカイアは再びその地方都市となりましたが、1331年にオスマン朝の第2代オルハンが占領、ムスリム(イスラム教徒)支配下の都市となっています。1333年にイズニク最初のモスクとして建設されたハジュ・オズベク・モスクは、オスマン帝国のもとで建設されたモスクの中でも現存最古と言われています。

トルコ人によってイズニクと呼ばれるようになったこの都市は、オスマン帝国時代の初期には実質上の首都である近隣のブルサなどと並び、帝国領内の重要な都市のひとつでした。第3代ムラト1世の宰相チャンダルル・カラ・ハリルの建設したイェシル・モスクや、現在博物館として使われているムラトの母ニルフェル・ハトゥンの救貧施設(イマーレト)など、オスマン帝国時代にイズニクに建設された建築物の主要なものは15世紀以前のものです。1453年にコンスタンティノポリス(イスタンブール)がオスマン帝国に征服されて以降は政治的な重要性は後退しましたが、アナトリア北西部の文化的センターとしての役割は持ちつづけ、多くのウラマー(知識人)や詩人がこの町から輩出されました。

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「イズニク陶器」の出現

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16世紀にムガル帝国では陶芸が衰退した一方で、オスマン帝国ではイズニク陶器(英語版)が出現しました。

イズニク陶器は胎土は珪土質ですが、焼成温度を下げ燃料を節約するために鉛が混合されています。また、これらの陶器は胎土と同じ組成のスリップで覆われています。これは初の珪土質のスリップといえるでしょう。

無色の釉の下に装飾が描かれ、1度だけで焼成されていました。初期には青が用いられ、それから青緑、緑、ピンク、灰、黒、紫、褐色なども現れるようになってきました。しかしながら、イズニクの陶器を有名にしたのは酸化鉄によって実現されたトマトのような赤です。

ペルシア人による自治を回復したサファヴィー朝では美術が再興し、シャーたちの求めにより中国の磁器の再現が再び試みられたが実を結びませんでした。この時代に特徴的な陶器として、イズニク陶器に様式的には類似した釉下彩陶器であるクバチ陶器があります。ダゲスタンのクバチ地方で多くが発見されたためにこの名がありますが、生産はタブリーズ周辺で行われていたと見られています。

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本作品がイズニク陶器の初期の青によるものかどうかは明らかに疑問です。




近代における模倣品としてとらえるべきかもしれません。



今少し「イズニク陶器」について調べてみました。

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イズニク陶器:オスマン帝国時代のイズニクが歴史にもっとも名を残した点は、イズニク陶器の生産地としてことでしょう。イズニクの陶器は胎土の表面に白土の化粧土を施し、下絵を着彩したうえに透明の釉薬を塗り焼成したもので、14世紀頃から作られるようになりました。

模様はこの頃モンゴル帝国を通じて西アジアに盛んに輸入されるようになった中国の染付の影響を受け、最初は白地の美しさを生かしたコバルトブルーで描かれるのが主流でした。



15世紀以降はターコイズブルーや緑、紫、赤などの多色着彩を行うようになって、模倣を越えた独自の発展を遂げています。

参考作品
イズニク陶器の水差
16世紀 ルーヴル美術館収蔵



イズニク陶器は16世紀に最盛期を迎え、様式化された独特の植物模様や花の模様が描かれてイスタンブールを中心とするオスマン帝国宮廷社会でもてはやされました。トプカプ宮殿をはじめ、この時代にイスタンブールで建設された宮廷やモスクは壁面をイズニク製のタイルで美しく飾られ、都市の景観に彩りを与えています。

  

発展したイズニク陶器も、続く17世紀には急激に品質の低下をきたし、衰亡していきます。その原因は、16世紀には宮廷の注文で高品質の製品をつくり、タイルも首都のモスクやトプカプ宮殿の内装などに用いられていたのですが、17世紀には制作者が宮廷への納入だけで生活を成り立たせることが困難になり、ひろく市民一般の注文に応る製品をつくるうちに、品質の低下が進んだとういことがあげられます。

そしてイズニクよりもその近郊にあるキュタヒヤが、原材料の入手などの面で大量の製品をさばくのに有利となり、18世紀にはすっかりそこへ生産の中心地が移りました。しかし、キュタヒヤの製陶業も、19世紀には陶器やタイルの需要が減ると同時に、食器や建物の内装にもヨーロッパのスタイルが流入し、さらには安価な工業製品に押されて、消え入ることになります。

近代では最盛期のイズニク製品はいまやきわめて貴重であり、現代の技術をもってしても二度と再現できない高品質の作品にあこがれが向けられています。イズニク陶器は19世紀以来ヨーロッパでブームとなり、現地で製品を買い付けたり、建物から剥がしたタイルが輸入されて、欧米に大きなコレクションができました。ヨーロッパでも模倣品がたくさん作られたし、オリエンタリズムの風潮とともに、東方のエキゾチックなデザインが、ヨーロッパのさまざまな芸術運動に影響を及ぼしました。 20世紀後半にはトルコ全体の人口増加にともない人口が漸増し、地元出身の若い陶芸家によって新しいイズニク陶器を作り出してゆこうとする運動も試みられ始めています。

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本作品が近代に作られた模倣品なのかもしれません。ただ明末のように中国陶磁器のように虫喰いがあること、元の中国陶磁器のような染付の影響が見られるのは面白いですね。

またバーナード・リーチやさらには浜田庄司と関連するスリップウエアとの関連も面白いですね。

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スリップウェア:化粧土と泥漿(でいしょう)で装飾した陶器のことです。釉薬は基本的に鉛釉(えんゆう)を施します。
化粧土と泥漿:粘土を水で熔いたもので筆で描いたり、スポイトで絞り出せる状態のもの。ともにスリップといいます。スリップウェアのはじまりは古代メソポタミア文明まで遡るといわれています。古代中国・中東・欧米諸国など世界各国で焼かれた陶器ですが、中でも17世紀のイギリスで作られた作品が広く知られます。

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未知の陶磁器を調べて知識を吸収することは蒐集とはまた別の角度で作品を観ることができる第一歩でしょうね。伊万里なら伊万里ばかり、鍋島なら鍋島ばかり、古九谷なら古九谷ばかりからステップアップするのが必要なのでしょう。

ということを記述しながら本日はまたガラクタ作品の紹介になったようです。ガラクタを集める三要素とは・・??? ガラクタを集めない三要素は・・・・・?????


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